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江戸町巡り

【浅草①018】浅草南元町

2017.12.14 13:14

町番号:浅草①018

町名:浅草南元町

読み方:あさくさみなみもとまち Asakusa-Minami-Motomachi

区分:町丁

起立:1870(明治3)~1871(明治4)年

廃止:1941(昭和16)年

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「浅草」

現町名:台東区蔵前一~四丁目

概要:古くから奥州街道の両側沿いに発達した旅館街で、江戸初期には「浅草旅籠町」或いは「蔵前旅籠町」といった。寛文江戸図には「はたご丁」とあり、現行の蔵前二丁目5・6番、蔵前三丁目4・5~12番にあたる。1718(享保3)年の火災で類焼した際、街道の東側は収公されたが、焼け残った西側は翌年、八九郎と新兵衛の2人が拝借蔵地を願い出て、1720(享保5)年に許され、「浅草元旅籠町」と改称(備考)。改称したのは、寛文年間(1661~1672年)と元禄年間(1688~1704年)に町域の一部が収公された際に給された代地が「浅草新旅籠町」と称していたからである。南半部が一丁目、北半部が二丁目と分かれていて、一丁目には浅草寺境内で居合抜きをする歯磨売りの兵助が住んでいた(備考)。他に江戸前蒲焼屋、おこし屋、御判屋等があった。化政期(1804~1830年)の家数68軒(町方書上)。

前々身の浅草元旅籠町として、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。恐らくその際に、一・二丁目、旧米蔵を併合して、「浅草元町」と改称したと思われる。1870(明治3)~1871(明治4)年に南北に分かれる。1872(明治5)年、戸数123・人口552(府志料)。東側は隅田川に臨み、西側は一部が新堀川に接していた。旧米蔵の地域は閑静だが、街道沿いは商業地として賑わっていた(画報)。

1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。

帝都復興計画の一環により、1934(昭和9)年、南半部が蔵前一丁目に、1941(昭和16)年には東半部が桂町、西半部が三筋町一丁目に編入となり消滅。

撮影場所:浅草南元町

撮影地:台東区蔵前二丁目12番3号(蔵前元楽総本店)

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