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天竜楽市

遠州鉄道、光明電鉄と秋葉山、光明山

2017.12.14 13:37

 大正末期から昭和初期頃と思われる遠州電氣鐵道の沿線案内図に描かれた光明山と秋葉山。


 まだ光明寺が鏡山山頂にあるので昭和6年以前、遠州軌道が遠州電氣鐵道に社名変更したのは大正十年、遠州電氣鐵道二俣線(現遠州鉄道・鉄道線)が電化されたのは大正12年着工、昭和2年全線 旭町(高架化以前の新浜松)~遠州二俣(現西鹿島駅だがもう少し二俣寄りにあった)間開業となっているので、二俣までの電化を記念しての発行かもしれない。


 光明電氣鐵道の新中泉~二俣町間の開業は昭和五年で、両路線は秋葉山、光明山への観光客誘致も競い合っていた。

 遠州電氣鐵道が力を入れていたのは岩水寺遊園地。


 この頃の遊園地は、派手なアトラクションがあるわけではなく、四季折々の紅葉や桜を楽しみ、夏はプールがある程度の行楽地であったのだが、大いに賑わっていたようで遠鉄は非常に力の入ったイラストを載せている。


 光明電氣鐵道が岩水寺遊園地に対抗して観光開発に力を入れていたのが旧豊岡村(当時は野部村)の神田遊園地。岩水寺は今も観光地の名残はあるが、神田遊園は今や跡形もない。この区間の路線を一部引き継いだ国鉄二俣線(現天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線)は神田遊園地の観光客誘致にはあまり熱心ではなかったようだ(尤も国鉄二俣線の全線開通は戦時中の昭和15年なので観光どころではない)。


 

 岩水寺遊園ホテル


 岩水寺遊園地の売りは本尊子安地蔵尊を祀る安産祈願の龍宮山岩水寺、桜、桃、楓、山吹、萩、藤といった四季の花々、石灰岩層(岩水寺付近は石灰の採掘地であった)から湧出る岩清水を利用した鉱泉浴場はラヂユウム分、カルシウム分を含み温泉以上と謳われる。


 プールの他に、信州諏訪湖へ通ずるという鍾乳洞、夜の楽しみ余興演芸場、岩水の滝、弁天池、テニスコート…そして当時は岩水寺の裏山は遠州一の松茸群生地なのであった。

 対する神田遊園地の売りは桜の遊覧と帆掛け船行き交う天竜川の眺望…だけということになっている。

 開業間もない遠州電氣鐵道旭町驛。二俣行き電車のり場には「秋葉登山口」の文字が。

 旭町駅の遠州電氣鐵道ビルディング


 ビルヂングではないところに浜松人の粋がうかがえる。秋葉山まで直通で行けるわけではない(二俣駅から秋葉橋、犬居と雲名、西川、瀬尻まで遠州秋葉自動車が乗合自動車を運行させている)が、駅のネオン看板には一番に「秋葉山」と大書されている。
 岩水寺遊園地もしっかり宣伝されている。



 遠州馬込駅には秋葉山、光明山、岩水寺遊園地が行先として大きく看板に書かれている。
 当時遠州の一大観光地として秋葉山、光明山への参拝客が非常に多かったことがわかる。

 遠州秋葉自動車の路線図。同社は昭和6年に天竜川飛行艇株式会社から飛行艇の営業権も買収している。

 

 二俣町~雲名間の横山町付近では、このように筏にバスを載せて運行していた。
 西鹿島駅から西渡、犬居方面へ向うバス路線は現在も遠鉄バスが引き継いで営業運転を続けており、百年以上続く歴史的な路線となっている。
 佐久間、龍山と龍川合わせて昭和30年頃には四万人(鉱山の最盛期とダム建設で労働人口が急増していた)を超える住民が暮らしており、非常に多くの人々が唯一の交通手段であるこのバス路線を利用してきた。

 一方、光明電氣鐵道は船明までの延伸を計画しており、車道秋葉神社付近に「秋葉山駅」を開業する予定であった。
 そもそも光明電鉄はのちの未成線国鉄佐久間線のルートを取り、日本海まで到達させるという壮大な計画の路線であった。


 その命綱を握るのは久根鉱山、峰之沢鉱山の鉱石輸送であったが、久根鉱山を経営する古河鉱業の出資は得られず資金繰りは悪化、せめて船明まで延伸すれば貨物輸送については遠州鉄道より優位に立てるはずであった…


 頼みにした観光客の輸送も、開業間もない昭和6年4月9日未明に鏡山の光明寺から出火し、奥之院以外の大小十三の伽藍を焼失するという大火となった。


 光明電氣鐵道という光明山に由来する社名を掲げ、壮大な計画に基づいて旗揚げした鉄道会社は当てにした光明山参拝客の需要も失い船明延伸を断念するばかりか昭和10年1月に料金滞納による送電停止により全線運転休止、光明寺が現在地に再建された昭和14年3月から一ヶ月後に会社は解散した。


 皮肉にも再建された光明寺は軍神奥之院三宝摩利支眞天を祀っており、戦時中には出征前の兵員が戦勝祈願に訪れ参拝客は急増したという。
 船明まで延伸し「秋葉山駅」が車道に開業していれば、光明寺の門前として旅客輸送が見込めた可能性は高く、遠州鉄道に対する優位性も得ていたかもしれない。



  遠州鉄道、光明電鉄の競争は天竜川水運で二俣まで運ばれた天竜材や鉱石の貨物輸送の需要を掴むことが明暗を分ける大きな要因だった。

 大正年間に鏡山山頂に再建された光明寺本殿。


 光明寺は明治九年にも被災し、江戸時代に徳川将軍家の寄進などで建造された「京の清水に似る」と云われた国宝級大伽藍を焼失し、明治後期から大正にかけて大小の伽藍を再建したばかりであった。

 秋葉山頂の秋葉神社も昭和18年に火災で全焼している。
 火防の神社が燃えたのは戦火の災厄から氏地を守り身代わりとなって燃えたということらしい。氏地の二俣町は工兵隊の演習所、陸軍中野学校二俣分校、軍需工場の疎開施設等(国鉄二俣線も軍事用の迂回路線として突貫で建設された)が存在したにもかかわらず空襲の被害は一切受けていない。

 火防の神、秋葉三尺坊大権現を祀る秋葉山秋葉寺。ここだけは一度も火災に遭っていない。その理由は、やはりここが唯一正真正銘の火防霊場であるからだそうだ。


 秋葉山、光明山共に戦時中までは軍神ということもあってか江戸時代同様に非常に多くの参拝客が訪れていたようである。
 遠州電氣鐵道が光明山、秋葉山を宣伝し、光明の名がつく鉄道があり秋葉山駅の開業予定もあった、そして川を渡り山を越えて光明秋葉参道までバス路線が延ばされていった事実を見れば往時の賑わいが想像できるのではないだろうか。