【浅草①035】浅草諏訪町
町番号:浅草①035
町名:浅草諏訪町
読み方:あさくさすわちょう Asakusa-Suwachō
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:1934(昭和9)年
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「浅草」
現町名:台東区駒形一・二丁目
概要:寛文江戸図に既に「スワ丁」の記入があるところから、江戸初期の起立と推定される。浅草駒形町の南側で、隅田川に面しての1区画、奥州街道の西側の3区画に分かれ、北部の2区画の間に諏訪神社があった。
1872(明治5)年までは浅草寺領。1716(正徳6)年に銀座御役所の焼失後、西の丸奥医師吉田松庵、目医師赤松休庵の拝領屋敷が設けられた。黒船番屋敷跡は「松次郎屋敷」と呼ばれ、「黒船町境横町近辺」は近隣の町の物揚場であった(備考)。毎年土用前から8月中旬まで、当町河岸(諏訪町河岸)に水練稽古場が12か所設置され、歩行の者が水練を行った(正保日記)。町内には看板書立をするもの、泥鰌料理屋、料理屋、鼻緒屋、提灯問屋、足袋股引問屋等があった(買物独案内)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数251・人口1,044(府志料)。夏目漱石が当町4番地(現在の駒形二丁目4番)に住んでいたのは、当町をはじめ浅草駒形町、浅草榧木町等、25町の添年寄を勤めた塩原昌之助の養子になっていた1874(明治7)年前後のことで、当時の町の様子は『道草』に詳しい。
1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。
1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、駒形一丁目に編入となり消滅。現行の駒形一・二丁目。
撮影場所:浅草諏訪町