【浅草①045】浅草田原町
町番号:浅草①045
町名:浅草田原町 一~三丁目
読み方:あさくさたわらまち Asakusa-Tawaramachi
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:1965(昭和40)年7月31日
冠称:1911(明治44)年5月1日から1947(昭和22)年3月14日までを除く期間と1965(昭和40)年7月31日まで「浅草」
現町名:台東区雷門一丁目、寿四丁目
概要:成立年代は不明だが、寛文江戸図に既に「田原丁一丁メ、同二丁メ、同三丁メ」という記入があり、江戸初期に開けた町と推定される。古くは浅草寺領広沢新田に属し、田畑であったので「浅草田原町」と命名したといわれる。化政期(1804~1830年)の家数889軒(町方書上)。
農民が農閑期の副業として浅草紙の名で知られる紙漉きを営んでいたので、「紙漉町」の俗称もあった。一丁目には神事舞太夫田村沢之助、菓子屋の大和屋吉兵衛、二丁目は東半部に竈職人が多く、「竃横丁」と通称され、西半部には水茶屋が多くあった。三丁目にはこぶ巻の宮戸屋、蒲焼の草加屋、御膳海苔の中島屋があり、独楽回し歯磨売り松井源水、浅草寺棟梁役鈴木太郎左衛門・同源右衛門が住んでいた(備考)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、三丁目が広小路通り(浅草通り)で南北に2分され、北半部が分立して浅草北田原町三丁目(通称「蛇骨長屋」。1911(明治44)年5月1日、「浅草北田原町」と改称)となった。同年の戸数632・人口2,206(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。
1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、一丁目の南半部が浅草寿町三丁目(現・寿四丁目)に編入となる。1943(昭和18)年7月1日、東京都浅草区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。
1965(昭和40)年8月1日、住居表示の実施により、残余の全域が現行の雷門一丁目の西半部となる。現在は地下鉄銀座線の駅名、小学校名にその名を留める。
撮影場所:浅草田原町二丁目