【浅草①064】浅草馬道町
町番号:浅草①064
町名:浅草馬道町 一~八丁目
読み方:あさくさうまみちちょう Asakusa-Umamichichō
区分:町丁
起立:1877(明治10)年
廃止:1934(昭和9)年の再編で一~三丁目までとなり、(浅草)馬道として一丁目は1965(昭和40)年7月31日まで、二・三丁目は1966(昭和41)年9月30日まで
冠称:1911(明治44)年5月1日から1947(昭和22)年3月14日までを除く期間と1966(昭和41)年9月30日まで「浅草」
現町名:台東区浅草一~四、六丁目、花川戸一・二丁目
概要:1877(明治10)年起立、江戸期には浅草寺子院群の門前町を総称して浅草寺中借地(或いは上地)町屋といい、本堂からの方角によって南谷・東谷・北谷(いずれも通称)に分かれ、その間を縫って浅草南馬道町、浅草北馬道町、浅草宮戸町、浅草医王町等の小区域の町屋が散在していた。それらを整理統合し、一~八丁目に分けて起立。
『角川日本地名大辞典』では、一丁目は南谷西側、二丁目は南谷東側、浅草南馬道町の一部、三丁目は浅草南馬道新町の全域、四丁目は東谷西側、浅草南馬道町、浅草北馬道町の各一部、五丁目は浅草南馬道町、浅草北馬道町の各一部、六丁目は東谷北側、浅草医王町の全域、七丁目は北谷西側、八丁目は北谷東側、浅草檜久間町の全域から成る。
なお、『Wikipedhia』では、一丁目は南谷東側(浅草宮戸町→浅草寺地中借地町屋)、二丁目は南谷東側(浅草宮戸町→浅草寺地中借地町屋)、浅草南馬道町の一部、三丁目は浅草南馬道新町、四丁目は東谷南側(浅草三社町一・二丁目→浅草寺地中上地町屋)、五丁目は浅草南馬道町の一部、浅草北馬道町の一部、六丁目は東谷北側(浅草三社町一・二丁目→浅草寺地中上地町屋)、浅草医王町、七丁目は北谷西側(浅草吾妻町→浅草寺地中上地町屋)、八丁目は北谷東側(浅草吾妻町→浅草寺地中上地町屋)、浅草檜久間町となっている。
1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。馬道通りは日本堤に達する道路で、この付近では当時最も繁華な通りであった。明治40年頃、東側には菓子舗すみや、弁当翁や、しるこや東月、蒲鉾商高野、瓦せんべいのむさしや、寄席の松根亭、第一商業補習学校、西側にはきぬかつぎ団子谷塚屋、くず餅製造藤本、そばや春木、水飴問屋伊勢屋等が建ち並んでいた。
1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、馬道一・二丁目、花川戸一・二丁目、雷門二丁目に分割される。一・二丁目が雷門二丁目の一部に、三丁目が雷門二丁目の一部、馬道一丁目の一部に、四丁目が花川戸一丁目の一部、馬道一丁目の一部に、五丁目は馬道一・二丁目の各一部に、六丁目が花川戸一・二丁目、馬道一丁目の各一部、七丁目が馬道二丁目の一部に、八丁目が馬道一・二丁目の各一部に編入となる。
馬道の構成は、馬道町三~六、八丁目、花川戸町、浅草公園地(五号地)の各一部が合併して一丁目、馬道町五、七・八丁目、聖天横町、田町一丁目の各一部が合併して二丁目、それまでは馬道と全く無関係であった田町一丁目、千束町三丁目、地方今戸町の各一部が合併して三丁目。
1943(昭和18)年7月1日、東京都浅草区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。
住居表示の実施により、1965(昭和40)年8月1日に一丁目が花川戸一・二丁目、浅草二丁目に、1966(昭和41)年10月1日には二丁目が浅草三・四、六丁目に、三丁目が浅草五・六丁目に編入となり消滅。
なお、そもそもの「馬道」について以下に詳述する。
地名の由来については諸説あり、新吉原の遊客が馬に乗って通う道筋であったため(江戸志、砂子)とも、武士が馬に乗って通う街道沿いであったため(事蹟合考)とも、1804(文化元)年まで南部駒市が開かれていたため(武蔵名勝)とも、平安期(794(延暦13)年~1185(文治元)年又は1192(建久3)年頃)に馬牧があったため(地名辞書)とも。なお、一般的な見方とされているのは、浅草寺境内の馬道に因む(天正日記)という説である。江戸期には浅草寺に隣接して浅草北馬道町、浅草南馬道町があった。現在、「馬道」の名は道路、交差点に残すだけとなった。
撮影場所:浅草馬道町二丁目
撮影地:台東区浅草二丁目3番1号(雷門)