高杉晋作の魅力
今日12月15日は、高杉晋作が功山寺決起を挙行した日(もちろん旧暦での話だが)。彼によって、正義派は藩政を奪還した。当然、内戦終結の最大の功労者高杉へ政権の中枢入りの申し出があった。
「人間は、艱難(かんなん)は共にできるが、富貴は共にできない」
きっぱり断った高杉が向かった先は長崎。なぜか。イギリスに渡航するため。幕府と戦うために下関開港を考えていた高杉は、まず自分が西洋の事情を知る必要性を感じていた。権力の座への執着などこれっぽっちもない。しかし、彼の洋行を時代が許さない。長州藩が武備恭順に藩論を転換させたことを察知した幕府は、第二次長州征伐を決定。3500の長州軍は、33藩からなる10万の幕府軍を迎え撃つことになる。長州に戻り、獅子奮迅の活躍をする高杉。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目は駭然として正視するものなし。
これ、我らが東行高杉君に非ずや」
(高杉東行碑銘文、文は伊藤博文)
しかし、それだけでは彼の魅力を語るに十分ではない。戦場にあっても彼が手放さなかったもの、それは三味線と瓢箪。「道中三味線」と呼ばれた三味線は、棹の部分が12個に分解でき、胴の部分に収納でき、どこにでも持ち運べた。丙寅丸(へいいんまる)に乗りこみ、三味線抱えて陣頭指揮を執り、30倍以上の兵力の幕府軍を圧倒する高杉。なんとも絵になる姿。瓢箪の中身はもちろん酒。酒と歌をこよなく愛し、死後は墓前に芸者を集め、三味線を弾いてほしいと遺言した高杉晋作。享年29歳。
辞世の句とされる歌。下の句は、亡命中の高杉を危険を顧みず匿った野村望東尼(もとに)が付け加えたとされる(高杉より33歳年上のこの女性と彼の関係も、ともに勤皇家という以上の関係を感じさせ、十分小説になる)。
「面白きこともなき世に面白く すみなすものは心なりけり」
「さんざん、やりたいことをやって、遊んできた。やりたいことはやり尽くした」死を前にした高杉の脳裏をよぎったのは、そんな思いだったのではないか。
(高杉晋作 自画像【伝】)
(「道中三味線」)