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渋谷昌孝(Masataka shibuya)

ソラリス的

2022.04.21 14:55
理解されなければ存在になることができない。存在が確認されるとは理解されることである。存在が存在であるための条件はまず理解されることにある。人間の理解能力を超えたものは存在が確認できないのであるから存在しないことになる。興味があるのはこの理解を超越した存在についてである。このような存在と対面する場合とはどのような状況であるのか。それはまだ理解されていないどころか手掛かりすらない。それは眼の前に存在しているのだが、正式に存在として捉えることが不可能な環境にある。まずその存在の存在様式というものが分からないのであるから、その存在に接近することすらできない。存在様式が不明であるとは意味の把握が決まった形式に当てはまらないということになり、すなわち理解不可能となる。我々が理解しているものは少なくともある様式にしたがって理解されている。この場合の様式とは一般的な共通項のことである。常識とか慣習とか論理や定理などがそれである。

人の理解を超越した存在は、どのようにして我々の前に現れるのだろうか。理解不能としてであるか、何か分からない謎として現れるのだろうか。否!断じて違う!なぜならそのようにすでに対象として的を射ているということはもう存在のほうに向かってある態度をとっていることであって、何かしらその存在を「不明な」という様式ですでに捉えてしまっているからである。これではほんとうの意味で理解を超越した存在に出逢っているとは言えない。本来的に不可能な存在ならば、的すら絞ることのできないはずである。どこにあるのか予測できるのならば、たとえ理解が及ばなくともまだ解かれていない問題となってしまっている。問題になっているとは範囲が決定されていることであり、射程の範囲内に収まっているということである。だが私の関心はまだ問題にすらならない存在についてである。繰り返すと、問題になっている未解決の存在はその存在の確からしさが明かになっているということからして、絶対的に不可能な存在とは言うことができない。

ただ絶対的に不可能な(理解において)存在が、人間の理解を超越したまだ知られることのない規則によってしっかりと存在していることは容易に予測できる。理解できるものばかりが存在ではないのだから。現実に我々の眼の前にはこのような理解を超越しているが、確実に想定可能な存在で溢れていると考えるのが妥当である。問題はこの存在の量と大きさである。つまり解っている存在と解っていない存在の割合である。もし解っていない存在の割合が大きいのならば、理解に基づく行動あるいは論理的な考えに大した意味がないということになるに違いない。直感とか空想などのほうにより価値があるだろう。科学的根拠に基づく知見は恐ろしく偏狭と言わざるを得ないというべきだろう。(理解を超えた存在の存在確率はどう少なく見積もっても無限大であると予想される。)

さて主題は絶対的な不可能な存在についてであった。不可能とは人間の理解能力に比して不可能という意味である。いまのところ存在とは人間の理解可能なものに限定されているが、それはまさしく手の届く存在を選択的に選んでいることになりはしないだろうか。重要なことは、理解不可能な存在が現実の我々に影響を与えているということである。これは科学信仰の蔓延る現代においてはだいぶ異端に感じられるかもしれない。我々を取り巻いている世界はもしかすると、この絶対的に不可能な存在のほうに比重があって、影響力もあるのではないか。ここでもう一度、絶対的な不可能な存在について考えてみよう。どのようなイメージを示せばいいのだろうか。ます第一に、それがどこにどのようにして存在しているか時間的にも空間的にも意味的にもわからない(存在のあり方が不明)。第二に、理解不可能である以前に対象(問題)にすらなることができない。第三に、それでもなお理解を超越したものとして、しっかり根を張るようにこの世界に存在している。第四に、確かに存在しているけれども、その存在様式が知られていないためになきもの(存在していないもの)とされている。第五に、その存在は永久に受動的に待機したままである。(人間の知性によって理解されることはない)。