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yoyo

現実と物語

2022.04.22 14:28

今週の仕事が終わった。それはつまり朝ドラの終わり。月曜に起こった事件は金曜にヤマを終え次週へのヒキへとつながる。朝ドラは生活の伴走者。


観賞後はツイッターで感想を検索する。「おじさんおばさん許せん!」ほんまに。「到着する時にはなかったバスのナンバープレートが次のシーンでは表示されている」ほんまや。共感したり、気づかなかったことを知ったり。楽しくみている。

しかし今週、気になる動きがあった。それはいじめっ子島袋くんのことだ。


現在放映中の「ちむどんどん」はアメリカ統治下の沖縄を舞台にした物語。父親を亡くし経済的に困窮する主人公兄妹に追い打ちをかけるように現れたのが島袋くん。「ボロボロ兄妹」「お前のお母ちゃん工事現場で働いて格好悪い」島袋くんは貧乏であることを理由に主人公たちをいじめる。

この島袋くんについてツイッターには「兄妹をいじめる理由がわからない」「いじめる彼にも何か背景があるはずだ」「単純な悪役を背負わされてかわいそう」そして「彼の背景も描かなければ作品として不完全だ」というような声が見られた。


なるほどこの「本当は悪役はいないのだ」と考える傾向は一見やさしい。社会がやさしくなってきているとも思える。しかしその理由を想像せず、あらかじめすべて説明せよ、というのはそれとはまったく逆だと思う。なぜならその行為は「解釈されるべき一つの真実がある」という前提に基づいているから。答えは一つと決めつけ、想像を手間と捉え省く。そうした余裕のない考え方はきっと現実の「悪役」であろう人間を苦しめる。

「本当は悪役はいないのだ」というやさしさを持ち合わせた上で「悪役の理由を説明せよ」と言う、余裕のなさからくる残酷さ。このねじれが現在と思う。


現実と物語を一緒にするなと言われるかもしれない。けれどもこうした物語に説明を求める行為は、社会の経済的な余裕のなさ、そこからくる不寛容と繋がっているように思う。余裕がないのは現実だけで十分なのに、物語にまでその余裕のなさが及んでいくようで私は悲しく、怖い。


理解に及ぶ、及ばない。どちらにせよ理解しようとする過程には対話が不可欠であり、対話には想像が不可欠だ。人も、作品も。そして作品の場合、対話の相手は作品を通した自分自身でもある。だから作品の解釈は一人ひとりの内にある。


私は想像を楽しむ。出会うことのない沖縄の兄妹たちが、何を考え何をしてどう過ごしていたか。物語は私を楽しませてくれるものではない。物語は物語として私の手の及ばぬ場所にただあるだけで、私自身がそれを楽しむかどうかだ。そしてその想像は私の過ごしている場所にも影響を与えていく。物語と私の世界はそういう風にして繋がっている。


月曜日、大きくなった兄妹は何に笑い何に悩むのだろうか。想像する。金曜の夜。