春告花は恋繋ぐ
珍しく明るいうちに用事を済ませて帰宅する際、ルイスはたまたま目に付いた花屋で色鮮やかなそれに心を奪われた。
英国ならばどこにでも咲く、珍しさもなければ高貴さもないありふれた黄色い花だ。
けれどこれはルイスにとってほんの少しだけ特別な意味を持つ、紛れもない春の花だった。
「まるでルイス君のようだね」
過去を捨ててボンドと名乗り生きることを決めた彼は、春の訪れを体現するその花を見てそう言った。
ルイスがふと我に帰ったときには、花屋からそれを買い取り持ち帰っていた。
そうして埃を被っていた花瓶を取り出して、昔を懐かしむように丁寧に茎の処理をしてから花を活ける。
生活をともにする他の人間の目にも付くよう敢えて目立つ場所に飾ってみれば、帰宅した彼らの険しい表情がどことなく穏やかなものへと変化したように思う。
その様子にルイスが人知れず心を落ち着けていると、黄色い花弁に触れたボンドがそう言ったのだ。
花に例えられたことがないとは言わないが、それでもこの花に例えられたことはない。
「どういう意味ですか?」
「ふふ。綺麗な花だね、心も温かくなるようだ」
間違いなくルイスの声は届いているだろうに、ボンドは構うことなく口説くように花へと顔を寄せて甘く囁いた。
良い香りだ、と続く言葉を聞いたルイスは同じようにその花へと視線を移す。
英国では春の訪れを象徴する、水仙の花。
華やかな明るさを見せる淡い黄が自分に似合うなど、ルイスは到底思えない。
かといって、自分が春を予感させる存在だなんて自惚れることもない。
似ても似つかないだろうと確信し、ルイスは水仙からボンドへと視線を戻した。
「ルイス君が活けてくれたのかい?それともフレッド君?」
「僕が用意しました。花屋の前を通ったとき、ちょうど目に付いたので」
「そう。お似合いだね」
「…ダファディルの花、気に入っていただけたのなら良かった」
深く尋ねたところで、ボンドに答えるつもりなどないのだろう。
そう確信したルイスはこれ以上この話題を広げることを諦める。
自分から注意が逸れたことに気付いたボンドは花瓶の中の水仙を一輪手に取り、指で軽く水を拭ってからルイスへと手渡した。
反射的にそれを受け取ったルイスは怪訝な顔をしてボンドを見やる。
「大丈夫。きっと叶うよ」
ボンドの表情はどこか寂しそうで、悲しそうで、それでいて何かの自信に満ちた暖かな笑顔だった。
そのやりとりがきっかけではないけれど、ルイスは春になって花が咲き誇る頃になると必ず水仙を飾るのが習慣になった。
ロンドンのビルで同志達と生活する中、鮮やかな黄色が部屋を彩るのは今年で四度目になる。
かつてのルイスにはなかったはずのそんな習慣を、今のアルバートが知らないのも無理はない。
朝にはなかったはずの水仙の花。
目に優しくも鮮やかなその色を見たアルバートは、不意にささやかな過去の記憶が蘇った。
ーーアルバート兄様は、まるでダファディルのようですーー
ルイスから届けられたその言葉は、そう古くもない過去の記憶だ。
花に例えられることは珍しくもなかったけれど、どこにでも咲いているありふれた花に例えられたのはあのときが初めてだった。
その後に続いた言葉と合わせて、一連のことはアルバートの心に奥深く存在している。
「…この花は」
アルバートは窓の近くに飾られていた水仙の花に指を近付ける。
けれど触れることを躊躇うように、宙に浮いた手はしばらく彷徨ってから下ろされてしまった。
「僕が用意しました」
「ルイス」
アルバートが静かに思い浮かべていた人物の声が現実から耳に響く。
水仙から目を逸らすことを惜しく思いながらゆっくりと振り返れば、ようやく過去ではなく現在の姿に見慣れた弟がそこにいた。
華奢な印象が強かったはずの弟が、今は随分と逞しく綺麗になった。
「何年か前にたまたま目に付いて飾って以来、なんとなくこの時期になると飾るのが習慣になっているんです」
「…そうか」
「綺麗でしょう?」
動揺するアルバートに気付いているのかいないのか、ルイスは彼の隣に立って鮮やかな色を魅せている水仙へと視線を落とす。
その表情はとてもやわらかで穏やかな、春の陽だまりのようだった。
「綺麗だよ、とても」
「そうでしょう」
花だけではなく、ルイスと水仙を目にしたアルバートは心からの賛辞を送る。
触れることを躊躇したアルバートとは違い、ルイスは未だ細い指先をその花弁へと伸ばして撫でるように触れていった。
ルイスが春を慈しむ姿は言葉にした通りとても綺麗で、どこか神聖な雰囲気すら感じさせる。
「…ルイス」
「なんですか?」
ルイスは、何年か前からの習慣だと言った。
けれど、アルバートはその習慣を知らない。
離れて生きていた間に出来た習慣だということは明白で、習慣というからにはこれが二度目ではないのだろう。
水仙の花を飾るのはこれが三度目、もしくは四度目になると仮定すれば、ルイスを一人にしてしまって最初の春から習慣化したものだと推察するのは容易かった。
言葉を濁したのは敢えてなのか、もしくは無意識のうちにアルバートの罪悪感を刺激しないための配慮なのか。
どちらにせよ、察しの良いアルバートはこれがルイスを一人きりにした影響なのだと気付いてしまった。
「……春を感じさせて、良い習慣だね」
過ぎる罪悪感に謝るような無粋な真似はせず、アルバートはもう一つの感想を静かに伝える。
それが嬉しかったのか、ルイスは大きな瞳を細めて嬉しそうに笑顔を見せた。
かつて、アルバートは自身が水仙の花のようだとルイスに伝えられたことがある。
大した手入れも必要ない身近すぎるその花はあまりにも陳腐で、薔薇やダリアなど大輪で華美な花に例えられることばかりだったアルバートは驚いた。
安価な花に例えられたことを不快に思ったのではない。
ただ純粋に、疑問に思ったのだ。
自分と水仙は似ても似つかないだろうという思考が顔に出ていたようで、ルイスは懸命にその理由をアルバートへと説明してくれた。
ーーダファディルは春のシンボルです。寒くつらい冬を終えて、温かく実りのある春を連れてきてくれる花です。僕達兄弟を明るいところに連れていってくれたアルバート兄様は、ダファディルのように温かい人だと思いますーー
物静かなルイスが珍しくも饒舌に語ってくれた理由に、アルバートはまたも驚いてしまった。
父も母も弟も、皆汚らわしい生き物だと見放した冷淡な自分のことを、ルイスは春のようだと表現している。
それがどれだけ衝撃で、予想すらしていない考えだということを、ルイスはきっと知らないのだろう。
ーー兄様が僕達に春をもたらしてくださいましたーー
だから僕にとってアルバート兄様は春そのものだと、ルイスは言った。
果たしてそうなのだろうかとより一層疑問に思ったけれど、それを伝えたことはない。
アルバートはルイスに春を与えたつもりなどなかった。
アルバートはただ、環境を変えるきっかけが欲しかっただけだ。
ルイスとウィリアムという綺麗な兄弟を手元に置いておきたくて、それなのにその二人に背負わなくても良い罪を背負わせて、春どころか更に冷たく暗い闇の中に突き落とすきっかけを与えただけに過ぎないと、そう考えなかった夜はない。
自分こそが二人を巻き込んだのだ。
そんな自分が春であるはずがないと、アルバートはルイスの言葉を何度も反芻しては何度も自嘲したものである。
アルバートはルイスの思慮が浅いなどとは思っていない。
ルイスが過去よりも今の方が恵まれていると、心からそう信じていることも知っている。
ゆえにアルバートがどう考えようと、ルイスにとってアルバートに拾われる前は冬で、アルバートに拾われてからは春なのだ。
そしてルイスはその春を気に入っている。
ウィリアムと二人きりで生きていた頃よりも、アルバートが加わった世界こそを好んでいるのだ。
それがどうにも眩しくて、アルバートは目の前に存在する己に例えられた水仙の花に触れることが出来なかった。
どれだけルイスが大切に感じていようと、ルイスを罪人へと落とすきっかけを与えた人物こそがアルバートなのに、そんな自分が実りある春だなんて到底おかしな話なのだから。
「…ずっと昔、この花がアルバート兄さんのようだと伝えた僕の言葉を、覚えておいでですか?」
アルバートが僅かに過去へと想いを馳せていると、それを察したのかもしくはただの偶然か、ルイスがそう問いかけてきた。
思わず鳴った心臓に気付かないふりをして、アルバートは動揺を悟られないよう息を止める。
自分は春ではない。
そんな否定を悟られないよう、つとめて過去を懐かしむだけの兄を演じてみせる。
「覚えているよ。ルイスは私のことを、まるで春のようだと言ってくれたね」
「はい」
同意を返せばルイスはますます嬉しそうに笑みを深め、花に向けていた顔をアルバートへ見せてくれた。
逞しくなったけれど、どうやら身長差は変わらないらしい。
見知った高さの瞳にアルバートが安堵して笑みをこぼせば、ルイスは揺らがない声で言葉を紡ぐ。
「アルバート兄さんを思い出したから、この季節にはこの花を飾るようにしたんです」
他のみんなには内緒ですよと、ルイスは小さな声でとびきりの秘密を教えてくれた。
ルイスにとって、今もアルバートは自分に春をもたらしてくれた確かな存在だと、そう言っているのだ。
罪に落とされたことを恨むのではなく、最愛の兄を奪われたことを恨むのでもなく、一人きりにされたことを恨むのでもなく。
ルイスはただ自分が感じたことに素直なままここにいる。
「今でも兄さんはこのダファディルのように、僕にとっての春そのものですよ」
淡白と言われがちなはずのルイスだというのに、その表情は感謝の気持ちに満ちていた。
自分は決して春ではないのに、ルイスから見た自分は今も尚揺るぎない春だという。
アルバートは昔よりもずっとやわらかな笑みを浮かべるようになったルイスを見て、続けて水仙の花を目に焼き付ける。
「…私よりも、よほどルイスの方がダファディルのようだ」
「え?」
彼こそが水仙の花で、そして何より春そのものだと確信した。
アルバートの沈んだ心を救い出してくれたのは確かにウィリアムだ。
しかし、凍てついた心の希望となってくれたのはいつだってルイスだった。
なんとも身勝手なことに、アルバートはルイスがいてくれたからこそ、心置きなく己の罪とだけ向き合うことが出来たのだから。
一人きりで暗く冷たい感情を持て余す中、きっと真っ直ぐ生きているだろうと期待を寄せていたルイスがいなければ、アルバートはあの牢獄で気を狂わせていたかもしれない。
ルイスがルイスでいてくれたからこそ、アルバートもアルバートとして存在することが出来た。
自業自得の冬を生きている中、自ら春を纏わせ生きていたルイスが迎えてくれたあの日。
希望だったはずのルイスが凍てついた心を溶かしてくれたのだと、そんな事実に今更気付いてしまった。
「ルイスの方がよほど春らしい。…私の冬は、ルイスによって終わりを迎えたよ」
「……そう、ですか?」
「よく似合っている。ルイスは私の、いや、私とウィリアムにとっての春そのものだ」
水仙の花は自分ではなく、愛しい弟の分身だ。
終わりの見えない闇を生きる中、それでも正しく在ろうと懸命だった温かな春。
ルイスこそがアルバートとウィリアムを冷たい冬から連れ出し、心地良い陽だまりの元へと案内してくれた。
そう確信してしまえば、ルイスたる水仙に触れることを躊躇う方がおかしな話である。
アルバートは活けられた中でも特別艶の良い水仙を手に取り、流麗な仕草でルイスの頬を飾るように近付ける。
白い頬と淡い黄色はとてもよく馴染んでいた。
「私の春は君だよ、ルイス」
「僕の春は、アルバート兄さんです」
「ふ…それぞれの春がお互いというのも運命的だな」
「えぇ、そうですね」
ふっと笑うルイスの笑顔はまるで本物の陽だまりのようで、春そのものだった。
ルイスを救いのない世界から拾い上げてくれたのはアルバートで、アルバートを暗い闇の中から照らし続けていたのはルイスである。
自覚はなくともそれは事実で、自らを春と思えずとも相手がそう思っているのならば否定することもないだろう。
実に心地良い季節だと、アルバートは持っていた水仙をそのままルイスの頬に押し当てる。
そうして上向いたその唇を、自らのそれで覆っていった。
(…そういえば以前、ボンドさんにダファディルのようだと言われたことがあります)
(そうなのかい?)
(はい。そのときはあまり気にしていなかったのですが、今年の花を用意するときにたまたまダファディルの花言葉を知りました。兄さんは知っていますか?ダファディルの花言葉)
(いや…花言葉には明るくないな)
(ダファディルの花言葉は「私の元へ帰って」だそうです。他にも「もう一度愛してほしい」という意味もあるそうですね。…ボンドさんが僕をダファディルに例えた気持ち、悔しいけれどよく分かります)
(ルイス、私は決してそのような意味で君をダファディルに例えた訳ではない。私は本当に君のことを、)
(僕もそうですよ。僕にとってのダファディルは春のシンボルで、それ以上の意味はありません。…でも、帰ってきてほしかったし、また愛してほしかった。間違ってはいないんです、兄さん)
(…ルイス)
(改めて、おかえりなさい、アルバート兄さん)
(……ただいま、ルイス。私の春のシンボル)
(ふふ、僕の春にそう言われると照れてしまいますね)