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石川県人 心の旅 by 石田寛人

将棋名人戦と囲碁本因坊戦

2022.04.23 15:00

 前々回に報告した2月の将棋棋王戦挑戦手合第2局の金沢対局に続いて、将棋の名人戦タイトル挑戦手合七番勝負第2局が今月19日と20日に、囲碁では本因坊戦タイトル挑戦手合七番勝負第1局が5月10日と11日に、それぞれ金沢で行われる。

 将棋の名人戦は、滝亭での対局。棋王戦の金沢での勝利のあと、結局3-1で五番勝負を制して棋王位を防衛した渡辺明名人が、順位戦A級一位の斎藤慎太郎八段の挑戦を受けており、第1局は渡辺名人が勝利した。2局目の金沢対局の2日前に、名人戦金沢招聘に尽力された佃優子さんの肝煎で記念の子供将棋や小規模人間将棋が行われる。

 囲碁の本因坊戦の方は、井山裕太本因坊に対する挑戦者は一力遼新棋聖。棋聖戦で井山裕太棋聖を降しタイトルを奪取した新棋聖が、またまた井山本因坊を相手にいかなる戦いを挑むか注目される。こちらの金沢対局も佃優子さんがお世話されているが、本因坊戦は、金沢にとても御縁の深い棋戦である。

 そもそも「本因坊」とはいかなる起源をもつ言葉なのか。それは京都の日蓮宗寺院寂光寺の塔頭本因坊に由来する。その本因坊の僧日海は囲碁と将棋の名手。織田信長に知られて、伝えられるところでは、信長の御前で鹿塩利賢(異説あり)という人と碁を打ったところ、珍しい「三コウ」ができて無勝負となった。その翌朝、本能寺の変が勃発して、信長が明智光秀に討たれたため、三コウは不吉とされてきたが、日海はその後も豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、本因坊算砂(さんさ)と名乗った。この人が近世囲碁の祖と言えようが、算砂は金沢に来て前田利常公の碁のお相手をし、本多町に本行寺を立てたのだった。

 算砂の興した本因坊家は、安井家、井上家、林家とともに江戸時代の囲碁家元四家のひとつとなり、多くの名人を輩出した。この世襲の本因坊家は明治以降も続いたが、本因坊秀哉名人は世襲制から実力制に切り替えることを提案。その実現に東京日日新聞が動いて、棋戦が成立。1939年に高段棋士による本因坊戦がはじまり、1941年に世襲制から実力制に移行した初代本因坊が誕生した。かくして、本因坊戦は最長の歴史を持つ棋戦となり、東京日日新聞の後身たる毎日新聞が主催するところとなっている。日本棋院と関西棋院も当然主催者の一角を占めるが、関西棋院の日本棋院からの分立も本因坊戦がからんでいるようだ。また、旧制第四高等学校で学んだ作家井上靖は毎日新聞学芸部長時代にこの棋戦に関わったと言われる。

 現在の各タイトル戦は、本因坊戦にならった構成になっており、リーグ戦で優勝した棋士が挑戦者となってタイトル保持者と番勝負を争う形がつくられてきた。今は棋士の数が多いので、すべての対局をリーグ戦形式にできないから、リーグ戦入りをかけたトーナメントの予選が行われたり、大きなトーナメント戦の勝者が直接タイトル挑戦者になるという形式になっている。なお、本因坊戦は、もとは2年サイクルだったが、すぐ1年サイクルに改められ、今の全てのタイトル戦は1年サイクルが基本である。本因坊位にある棋士は、算砂以来、雅号を持つこととなっており、現在の井山本因坊は本因坊文裕(もんゆう)と名乗っている。

 このように、前田家や金沢と関係深い本因坊の名を冠したタイトル戦の第1局が金沢で打たれ、その対局場所が、前田利家公とおまつの方を祀る尾山神社の金渓閣で、しかも前田家第18代御当主前田利祐名誉会長が直接観戦される予定になっているのは、とても有り難い。利家公も、さぞ名局をお楽しみになることだろう。(2022年4月15日記)


【追記】

 第80期将棋名人戦七番勝負第2局の金沢対局は渡辺明名人が勝利し、2連勝となった。私は、対局場の滝亭に駆け付けて、対局前日は開会式の末席を汚し、対局日には大盤解説を楽しみ、トップ対局の最高の雰囲気にタップリ浸った。対局者の渡辺明名人と斎藤慎太郎八段、主催者の朝日新聞社、毎日新聞社と日本将棋連盟、立会人の田中寅彦九段、副立会人の飯島栄治八段と横山泰明七段、記録の福田晴記三段、大盤解説の野月浩貴八段と聞き手の富山出身で金沢との御縁の深い野原未蘭女流初段、協賛社と地元の関係者に深く御礼申し上げる。藤井聡太竜王(五冠)の師匠の杉本昌隆八段が日本将棋連盟理事の立場で金沢にお見え頂いたのも嬉しかった。名人戦の挑戦手合はさらに続くが、これからも好勝負が展開することを期待したい。(2022年4月21日記)