アケメネス朝ペルシアー史上初の世界帝国
塩野七生さんが書いた「ギリシア人の物語」。この舞台となった時代のギリシアの東隣に位置し、常にギリシアのポリス(都市国家)を脅かし続けていたのが、今回紹介するアケメネス朝ペルシア(*1)です。2500年前、アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがる「史上初の世界帝国」として君臨。紀元前492から始まったペルシア戦争では、へレスポントス海峡(現在のダーダネルス海峡)を渡り、トラキア、マケドニアの海沿いを進攻。そこからアネテに向け南下し、20万もの大軍隊でギリシアの都市国家に脅かし、紀元前431からのペロポネソス戦争では、アテネとスパルタのギリシアの覇権国争いを横目でにらみ続け、虎視眈々とギリシアに付け入るスキを伺いながら、アテネのシケリア遠征の失敗を機にスパルタと手を組んだりと、常にギリシア都市国家の支配を画策し続けたギリシアのライバル国でした。
「ギリシア人の物語」の読後、ペルシア帝国について知りたいと思っていたところ、本書「アケメネス朝パルシア」がタイミングよく出版されました。著者は、現、京都府立大学文学部准教授の阿部 拓児さん。
史実によれば、この帝国の誕生は、イラン人の一系統であるペルシア人のアケメネス家が、前550年、キュロス2世の時、それまで服属していたメディア王国を滅ぼしてイラン高原で独立したときに始まります。本書でも引用していますが、このキュロスの出自については、ヘロドトスが「歴史」の中で次のように語っています。メディア王のアステュアゲスは、ある日、娘のマンダネがやがて生む子が己の王位を奪い取るという夢を見ます。これを不吉な予兆であるとし、彼は側近に当時妊娠中だった娘マンダネの子を殺すように指示します。しかし、赤子殺しを嫌ったこの側近は知り合いの牛飼いにこの赤子を野山に捨ててくるよう命じます。しかし、この牛飼は丁度妻が死産にあった直後であったことから、この子を育てることに決めます。この子こそがキュロスだったのです。しかし、このキュロスの出自については、このヘロドトスの伝えるものの他、いくつか言い伝えられている話も存在します。2500年以上も前のことですから当然ですが、このキュロス王の出自の他、実はこのギリシアの都市国家群のライバル国については、よくわかっていないことが多いのです。
当時のペルシア人にとって、己の国の歴史を記録に残す、という考えがないので、例えば、ペルシア戦争を戦った当時のペルシアについては、ヘロドトスが書いた「歴史」という史料が存在しますし、ペロポネソス戦争では当時のペルシアについては、トゥキュディデスが書いた「戦史(歴史)」から当時のペルシアの様子が伺えます。しかし、それらはあくまで、ギリシア側から見たペルシアであり、ペルシア人自身が語ったペルシアではないのです。このように当時のペルシア研究については、一部の史料を除いては研究に必要な文献は限られているようです。
とはいえ、ペルシア戦争で敗走したペルシア軍が戦場に残したペルシアの食料、調度品、家具などを通しギリシアはペルシア文化に憧れ(*2)、後年、東征を企てたアレクサンドロス大王もペルシア文化に憧れ、自分の征服した都市のヘレニズム化を試みます。そういった影響はやがてヨーロッパに伝えられヘレニズム文化として定着、やがては、ルネッサンスの基礎となっていきます。 うーん、、おそらく確実な研究資料が少ない分、読者や研究者の想像力や興味も大いに刺激させられるのがこのアケメネス朝ペルシアなのでしょう。。この本には、当時のいろいろなエピソードも書かれていて、例えば、ユダヤ人がパレスチナから捕囚として大都市バビロンへ連れて来れらた「バビロンの捕囚」の話なんかもあります。当時のペルシア帝国について、創造力を掻き立てられる一冊でした。
(*1)前550年~前330年、遊牧イラン人が建設し、オリエント一帯を支配した世界帝国。全盛期のダレイオス1世は前500年にギリシア遠征を開始(ペルシア戦争)したが、ギリシア征服には失敗した。アレクサンドロス大王によって前330年に滅ぼされた。(ネット/「世界史の窓」より)
(*2)当時のペルシア軍の慣習として、戦争のときは、軍隊にペルシア王を始め、その家族、従者たちも随行するのが常でした。ペルシア戦争の後の戦場には、ペルシアの豪華な宿営所、絨毯、調度品、料理人がそのまま残されていて、ギリシア兵士はその戦場に残された遺留品を奪い合ったり、料理人にペルシア料理を作らせたということです。