【本所①003】本所横網町
町番号:本所①003
町名:本所横網町 一・二丁目
読み方:ほんじょよこあみちょう Honjo-Yokoamichō
区分:町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:存続 「横網」として
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「本所」
現町名:墨田区横網一・二丁目
概要:もと南本所村の地域内。1872(明治5)年までは「南本所横網町」といった。貞享年間(1684~1687年)より無届で町屋が立ち並んでいたが、1704(宝永元)年に町並家作許可となる。1713(正徳3)年から町奉行・代官の両支配となる(備考)。化政期(1804~1830年)の家数239軒(町方書上)。検地は1697(元禄10)年で反別は7反9畝7歩、石高は9石余。当町が「本所七不思議」の1つ『落葉無き椎の木』の舞台である。
前身の南本所横網町として、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)~1873(明治6)年に伊勢津藩藤堂氏、陸奥津軽藩津軽氏、渡島国松前藩松前氏の各藩邸跡地を合併し、本所横網町一丁目と、松浦豊後守(平戸新田藩、1万石)、加納備中守(上総一宮藩、1万3,000石)、黒田豊前守(上総久留里藩、3万石)の邸地等の4邸を合併して二丁目と再編。1872(明治5)年の戸数348・人口1,531(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府本所区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市本所区に所属。一丁目の隅田川際には水除けのために多くの杭を打ち込んであったことで「百本杭」と名付けられて知られたが、現存しない。
1929(昭和4)年、帝都復興計画の一環により、一丁目は藤代町の殆ど(ごく僅かの南部は東両国一丁目に編入)を併せ、東両国一~四丁目の北部各一部に分割され、二丁目は石原町西部の極一部を併せ、横網として残る。
一丁目には陸軍被服品の調達や製造を行った陸軍被服廠があり、関東大震災では被災者が避難所として集まったが、猛火が旋風に煽られ、3万8千人の尊い命が一瞬にして失われた。これは関東大震災の死者の55%にあたる。現在の東京都立横網町公園である。
1943(昭和18)年7月1日、東京都本所区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都墨田区に所属。
1966(昭和41)年10月1日、住居表示の実施により、横網一・二丁目となる。日本国技館があるため、漢字を「よこづな」と読み間違えられることが多い。
撮影場所:本所横網町一丁目