【本所①007】本所相生町
町番号:本所①007
町名:本所相生町 一~五丁目
読み方:ほんじょあいおいちょう Honjo-Aioichō
区分:町丁
起立:1688(元禄元)年~1697(元禄10)年
廃止:1929(昭和4)年
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「本所」
現町名:墨田区両国二~四丁目、緑一丁目
概要:古くは葛飾郡西葛西領のうち。竪川の北岸に位置する。1688(元禄元)年~1697(元禄10)年にかけて、本因坊拝領屋敷、川筋常設請負者の助成地等となり、一~五丁目を起立。町名は祝賀の意をもって付けられた(備考)。化政期(1804~1830年)の家数381(町方書上)。一・二丁目を「一つ目」、三~五丁目を「二つ目」と俗称した。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。西隣の本所尾上町とはペアであったが、1869(明治2)~1871(明治4)年、本所尾上町は南本所元町に吸収されて消滅してしまった。これにより、能の演目や結婚式の謡としても有名な『高砂』の「高砂の尾上の松の相生に立ち並びて」という祝詞からの洒落が通じなくなってしまった。なお、「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」で有名な塩原太助も当町の話(炭屋跡は二丁目。現在の両国三丁目)。初代は私費を投じて架けたといわれる竪川の塩原橋もある(現在は墨田区管理)。
1872(明治5)年の戸数546・人口2,372(府志料)。1872(明治5)年、第6大区68小区邏卒屯所(1893(明治26)年、本所警察署となる)が両国橋際から移転。
1878(明治11)年11月2日、東京府本所区に所属。同年、五丁目には本所区役所が置かれた。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市本所区に所属。
1929(昭和4)年、帝都復興計画の一環により、一~四丁目が東両国二~四丁目の一部に、五丁目が緑町一丁目の一部に編入となり消滅。現行の両国二~四丁目、緑一丁目のうち。
撮影場所:本所相生町一丁目