【本所①020】本所錦糸町
町番号:本所①020
町名:本所錦糸町
読み方:ほんじょきんしちょう Honjo-Kinshichō
区分:町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:存続 「錦糸」として
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「本所」
現町名:墨田区錦糸一~四丁目、江東橋四丁目
概要:江戸期は「錦糸堀」と俗称したところで、大部分が武家地。
1872(明治5)年、播磨竜野藩脇坂家中屋敷、越前鞠山藩下屋敷、越前黒川藩柳沢家下屋敷、旗本武家地、亀戸村、柳島村、八右衛門新田、小梅代地町、堀通りの御材木蔵を併せ、本所錦糸町起立。町名の由来は、現在の錦糸町駅の北側にあった本所南割下水の、大横川の長崎橋以東が「錦糸堀」と呼ばれたことから。錦糸堀の由来は「岸堀が訛った」、「この辺りで琴糸を作っていた」、「朝日夕日に煌めくお堀の水面が金糸のようだから」と諸説あり。
明治期には商家はなく、大半を総武鉄道が所有していた。大横川の東部に位置し、東西に長い。
江戸末期から明治にかけて活躍した歌舞伎作家・河竹黙阿弥の『孝女お竹』の舞台として有名。これが『錦糸掘』を記録する唯一の文献だそうだ。また、江戸時代の怪談「本所七不思議」の1つである『置行堀』はとくに有名で、錦糸町の代名詞ともなっている。また、置行堀伝説は墨田区立錦糸堀公園や江東区立亀戸第三中学校、JR両国駅の北西側も「当地である」と名乗っているが、錦糸堀公園には置行堀伝承河童像も建てられており、一番気合いが入っている。
1878(明治11)年11月2日、東京府本所区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市本所区に所属。1891(明治24)年、亀戸村字矢場耕地を合併。1894(明治27)年12月9日、総武鉄道の本所駅開業。1915(大正4)年5月1日、「錦糸町駅」に改称。
帝都復興計画の一環により、1930(昭和5)年に一部が江東橋一、四丁目に編入、1932(昭和7)年には残余に太平町一・二丁目、柳島町の各一部を加え、錦糸町一~四丁目、江東橋四丁目に再編された。
一般に町のイメージとしての「錦糸町」はJR総武線の線路の南側を想像する人が多いと思うが、行政による「錦糸町」はこのとき、北側のみに限られた。1943(昭和18)年7月1日、東京都本所区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都墨田区に所属。
1967(昭和42)年5月1日、住居表示の実施により、錦糸一~四丁目となる。
※『角川日本地名大辞典』には「同(明治)22年より墨田区に所属」とあるが間違い。
撮影場所:本所錦糸町