【深川①001】深川佐賀町
町番号:深川①001
町名:深川佐賀町 一・二丁目
読み方:ふかがわさがちょう Fukagawa-Sagachō
区分:町丁
起立:1695(元禄8)年(江東区は1629(寛永6)年としている)
廃止:存続 「佐賀」として
冠称:1911(明治44)年5月1日から1947(昭和22)年3月14日までを除く期間と1969(昭和44)年3月31日まで「深川」
現町名:江東区佐賀一・二丁目
概要:1629(寛永6)年に開発された深川猟師町8ヶ町のうち、開発者の名を採った中之橋以南を「藤左衛門町」、上之橋の方を「次兵衛町」と呼ばれた町が前身にあたる。切絵図によると仙台堀の南に位置する。はじめ、御菜御用等を務める無年貢地であったが、1633(寛文10)年の検地後、年貢地となった。
1695(元禄8)年の検地の際、藤左衛門町と次郎兵衛町を合併し、深川佐賀町が起立。町名は地形が肥前国(現・佐賀県)の佐賀湊に似ていることによる。初期は深川上佐賀(上佐賀町)(後に一丁目)、深川中佐賀(中佐賀町)(後に一丁目)、深川下佐賀(下佐賀町)(後に二丁目)とされていた。名主役は藤左衛門が務めるが、文化年間(1804~1818年)に家は断絶。1699(元禄12)年、新しく堀割を造る際、代地が5ヶ所与えられ、うち3ヶ所を「佐賀町代地」といった。1713(正徳3)年、町奉行・代官両支配となる(備考)。
町内を3つに分け、中之橋川筋を「中之堀」、下之橋左右の河岸通りを「稲荷小路」、中之橋南の河岸通りを土蔵が8戸建っていたので「八戸前」と称した(備考)。町内には尾張家の御用菓子司船橋屋、藍玉問屋等があった(買物独案内)。また、江戸時代には金肥の主力であった干鰯の荷揚場が置かれていた。また新撰組参謀伊東甲子太郎が道場主を務めた北辰一刀流剣術伊東道場は後に吸収した深川中川町に構えられていた。江東区白河一丁目にある江戸深川資料館では、江戸時代末期、天保年間(1830~1844年)頃の深川佐賀町の町並みが想定復元され、常設展示されている。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1871(明治4)年、俗称上佐賀町と中佐賀町を深川佐賀町一丁目、下佐賀町を深川佐賀町二丁目とし、1872(明治5)年、下総国佐倉藩堀田氏邸跡、海軍所組屋敷上地跡を合併。同年の戸数317・人口1,641人(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府深川区に所属。1887(明治19)年、公開の正米市場、東京廻米問屋市場が開設され、当町近辺には米穀問屋が集中した。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市深川区に所属。
1931(昭和6)年、帝都復興計画の一環により、旧来の佐賀町が解体され、旧・佐賀町二丁目、松賀町の全部及び小松町、富吉町の各一部から佐賀町一丁目が、旧・佐賀町一丁目、西永代町、堀川町、中川町、富田町、今川町の全部から佐賀町二丁目が設置された。1943(昭和18)年7月1日、東京都深川区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都江東区に所属。嘗て一丁目と二丁目の境を東西に流れていた油堀川は深川花街への水上交通路として使われていたが、首都高速9号深川線建設のために暗渠化されてしまった。
1969(昭和44)年4月1日、住居表示の実施により、一丁目が佐賀一丁目、二丁目が佐賀二丁目となる。
※当町の一・二丁目の位置交換は、1871(明治4)年に北が一丁目、南が二丁目として起立したものを、1931(昭和6)年に北を二丁目、南を一丁目にした1回のみ。『角川日本地名大辞典』では1969(昭和44)年4月1日にも南北交換を行ったとしており、Wikipediaもそのように記述しているが、その事実はない。
撮影場所:深川佐賀町一丁目
002深川松賀町→