【深川①063】深川越中島町
町番号:深川①063
町名:深川越中島町
読み方:ふかがわえっちゅうじまちょう Fukagawa-Etchūjimachō
区分:町丁
起立:1711(正徳元)年
廃止:江戸期
復活:1874(明治7)年
廃止:存続 「越中島」として
冠称:1911(明治44)年5月1日から1947(昭和22)年3月14日までを除く期間と1969(昭和44)年3月31日まで「深川」
現町名:江東区越中島一丁目、牡丹一丁目、古石場一丁目
概要:隅田川河口部の東岸に位置する。古くは隅田川口にできた寄り洲で、小さい島の形をしていた。地名は江戸初期、久能山警衛の役を務めた榊原越中守の別邸があったことに由来する(越中島一丁目2番21号)。
江戸初期、榊原氏の別邸となったが、度重なる風浪のため、荒廃して上地となる。寛文年間(1661~1673年)、島北部は深川大島町代地となるが、海水が侵すため、家屋敷を建てる者もなく、島は石置場として利用された。
元禄年間(1688~1704年)、隅田川河口の川浚いの際、土捨場となったため築き立てられ、当初の状態に復旧し、1711(正徳元)年、旗本・御家人43人の拝領町屋敷となり、深川越中島町とした。周辺の寄り洲も次第に築き立てられ、養生所助成地、人足寄場属地等となり、1756(宝暦6)年には当町の商人平助等により、東南の寄り洲に新田が開発された(備考、新編武蔵)。享保年間(1716~1736年)以後に埋め立てられ、田畑、町地となった土地は約4万坪に及んだという(備考、画報)。当町は俗に「古石場」といわれ、料理茶屋が置かれた(備考、江東区史)。
1842(天保13)年、武家地となり、1855(安政2)年、当町をはじめ越中島新田付近一帯は幕府調練場となり、練兵、鉄砲の試射等が行われた(画報、江東区史)。その際、一時町名は抹消されたが、1874(明治7)年、江戸期の深川越中島町の一部に町名が復活した(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、深川越中島新田とともに東京府深川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市深川区に所属。1891(明治24)年、深川越中島新田を編入。調練場は1868(明治元)年に軍務官所管となり、1875(明治8)年には陸軍省用地となり、のち糧秣廠が置かれた。1902(明治35)年、高等商船学校(後の東京商船学校、東京商船大学。現・東京海洋大学)が移転する他、水産講習所、工業試験所が設置された。大正年間(1912~1926年)、当町北部の大蔵省の「汐入り」と称される湿地等が、関東大震災の瓦礫で埋め立てられ、越中島川が開鑿された。
1931(昭和6)年、帝都復興計画の一環により、一部を牡丹町、古石場一~四丁目に編入。同時に一~三丁目に分割される。1943(昭和18)年7月1日、東京都深川区に所属。終戦直後、東京商船学校に米軍が進駐。1947(昭和22)年3月15日、東京都江東区に所属。1950(昭和25)年から東京商船学校は警察予備隊本部(防衛庁の前身)となり、1956(昭和31)年に霞ヶ関に移転するまで当町は軍事地区であった。
1969(昭和44)年4月1日、牡丹町一丁目の一部を併せ、現行の越中島一~三丁目となる。
撮影場所:深川越中島町