【深川①072】深川安宅町
町番号:深川①072
町名:深川安宅町
読み方:ふかがわあたけちょう Fukagawa-Atakechō
区分:町丁
起立:1869(明治2)年7月
廃止:1934(昭和9)年6月13日
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「深川」
現町名:江東区新大橋一丁目
概要:江戸期は幕府の御船蔵の地。1869(明治2)年7月、起立。町名は町内の御船蔵のうちに幕府最大の巨艦「安宅丸」を埋めた跡に船塚があり、安宅稲荷社があったことに因む。安宅丸は「凡長サ三十八間、胴間十八、九間」(砂子)で、慶長(1596~1615年)~宝永年間(1704~1711年)の初め、伊豆で建造された御用船で、大鎖で繋留され、蔀で囲われていた。1616(元和2)年(一説に貞享年間(1684~1688年))に腐朽したため、解体の上、埋められ、船塚が造られた。1872(明治5)年の戸数69・人口293(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府深川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市深川区に所属。1891(明治24)年、本所区本所千歳町に一部を編入。
帝都復興計画の一環により、1933(昭和8)年にも再び、本所区千歳町に一部を編入し、翌1934(昭和9)年6月14日には現行の新大橋一丁目に編入となり消滅。
なお、安宅丸は北条氏が造船したもので、その動力は400人の水夫が200本のオールを交代で漕ぎ、米4,000石(1万俵)と多くの将兵軍馬を載せることができる木造船として最大の軍船であったといわれていた。後に安宅丸は豊臣秀吉の手に渡り、さらに豊臣氏亡後は徳川氏の取得するところとなって伊豆下田港に置かれていたが、1633(寛永10)年に江戸に回航し、この御船蔵に繋がれた。1679(延宝7)年、江戸絵図には安宅丸が描かれている。その後、巨艦であるが故、補修管理が困難となり、1682(天和2)年に解体。幕末の頃には船蔵に38隻の艦船が格納されていたが明治時代となり、1隻は政府に、他は払い下げになったと記されている。なお、1905(明治38)年8月24日、西隣には隅田川の浅瀬を埋め立てた深川新安宅町が成立した。
撮影場所:深川安宅町