【深川①087】深川海辺町
町番号:深川①087
町名:深川海辺町
読み方:ふかがわうみべまち Fukagawa-Umibemachi
区分:俗称→町丁
起立:江戸期
廃止:存続 「海辺」として
冠称:1911(明治44)年5月1日から1947(昭和22)年3月14日までを除く期間と1968(昭和43)年11月30日まで「深川」
現町名:江東区海辺、扇橋二・三丁目
概要:前身は海辺新田字蔵吹野、永代新田の一部。古くは武蔵国葛飾郡西葛西領のうち。嘗ては海岸の茅野、沼地であったところ、慶長年間(1596~1615年)、次郎左衛門等により開拓され、その開墾地は海浜に臨むので「海辺新田」と総称された。その地域は北は小名木川、東は永代新田、西は大川に至った(新編武蔵)。『田園簿』には「宝六島海辺新田」と記し、田7石余・畑1,253石余、計1,260石余と記されている。「宝六島」の名称は僅かに亀高村の小名として残った。小名木川沿いは常陸・下総等からの舟着場として発展、仙台堀が延長されて「二十間堀川」として整備されると段々町屋となり、「深川海辺新町」、「深川海辺町」と呼ばれるようになった。
1713(正徳3)年には、新田内に起立された深川海辺大工町、蛤町等5ヶ町、14町1反余の地が町奉行支配下となった。また、寺院・諸大名の抱屋敷となり、当新田の地域は狭くなり、『元禄郷帳』には「海辺新田村683石余」、『天保郷帳』には558石余とある。1797(寛政9)年には一部が一橋領となり、幕府領と一橋領の入会となった。化政期(1804~1830年)の家数15軒(新編武蔵)。松平越後守・立花豊前守・万祥寺・善徳寺等の抱屋敷・抱地であった。
前身の海辺新田として、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数35・人口142(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府南葛飾郡に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市深川区に所属。1891(明治24)年、字中道耕地を深川石島町に編入、僅かに残った字蔵吹野が東京府東京市深川区深川海辺町として正式に起立。
1936(昭和11)年、帝都復興計画の一環により、千田町の一部を編入、一部を扇橋二・三丁目に編入。1943(昭和18)年7月1日、東京都深川区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都江東区に所属。
1968(昭和43)年12月1日、住居表示の実施により、現行の海辺となる。
撮影場所:深川海辺町