【深川①091】洲崎弁天町
町番号:深川①091
町名:洲崎弁天町 一・二丁目
読み方:すざきべんてんちょう Suzaki-Bentenchō
区分:町丁
起立:1887(明治20)年
廃止:1967(昭和42)年6月30日
冠称:1947(昭和22)年3月15日から1967(昭和42)年6月30日まで「深川」
現町名:江東区東陽一丁目
概要:江戸時代初期頃、江戸城への運搬船を通すための水路として、小名木川等の河川を整備し、その河口付近の湿地帯(現在の洲崎付近)をならした。この付近はまだ満潮で冠水する状態であったため、逆に水路と畦を配して養魚場が発達していった。1791年10月1日(寛政3年9月4日)、洲崎一帯を台風による高潮が襲い、周辺家屋を呑み込み、多数の死者を出す大惨事が発生。幕府は以後、高潮に備えて洲崎一帯に家屋の建築を禁止した。その後も養殖業は依然として盛んに行われ、また潮干狩りの名所として発展していく。江戸後期には「東に房総半島、西は芝浦まで東京湾をぐるりと手に取るように眺められる景勝地」として発展し、初日の出の名所として人気を集めた。
1887(明治20)年までに富坂に東京帝国大学校舎が新築される計画が策定されたため、風紀上の観点から直近に存在した根津遊廓の移転計画が発足。しかし最大の歓楽街だった新吉原に受け入れの余裕がなく、1886(明治19)年6月に洲崎弁天の東側の広大な湿地(平井新田東南地先)を埋立て整備して移転することとなり、1887(明治20)年、深川区洲崎弁天町が誕生した。これは深川区初の大規模な埋立事業であった。1888(明治21)年、一・二丁目に分かれる。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市深川区に所属。
1893年(明治26)年に大火に遭ったものの、1902(明治35)年には妓楼110軒、引手茶屋44軒を数えた。大正時代末期には300軒前後の遊郭が犇めき、新吉原と双璧をなす規模の大歓楽街(吉原の『北国』(ほっこく)と同様に、『辰巳』(たつみ)の異名を持つほど)に発展した。しかし洲崎遊郭は度々水害や火災に遭い、深川浄心寺内にはそのときの犠牲者の供養碑がある。
第二次世界大戦により深川地区は激しい空襲に晒されるようになり、1943(昭和18)年には洲崎遊廓の閉鎖令が下され、跡地は軍需工場等となった。1943(昭和18)年7月1日、東京都深川区に所属。1945(昭和20)年3月の東京大空襲で洲崎はほぼ完全に灰燼に帰し、壊滅した。第二次世界大戦終結後から僅か半年で洲崎遊廓は、「洲崎パラダイス」の愛称で復興。その規模と海の直近という風情から、新吉原以上の人気を誇る歓楽街として隆盛を誇った。
1947(昭和22)年3月15日、東京都江東区に所属。1956(昭和31)年製作の映画「洲崎パラダイス赤信号」(原作『洲崎パラダイス』芝木好子著)には、ロケにより往事の華やかな洲崎の様子が記録されている。その後、1958(昭和33)年4月1日に施行された売春防止法により、洲崎パラダイスは70余年の歴史に幕を引き、静かな住宅街へと変遷していった。
1967(昭和42)年7月1日、住居表示の実施により、東陽一丁目に編入となり消滅。
撮影場所:洲崎弁天町一丁目