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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

フレデリック・ショパン、ショパンは忘れはしなかったオペラへの情熱、ショパンの才能に嫉妬し続け欲望に狂うサンド…犠牲になったのは誰だ…

2022.04.27 12:19

マイヤベーヤとショパンとアルカンの写真から🎶イメージ🎶

田舎に引きこもり妊娠中のソランジュは、

いったいショパンを何だと思っているのか…

勿論、下僕としか見ていないのだ、だから、

お金も体力もないショパンだというのに、

ソランジュは母サンドから何かをまだ言われたからと言って、まだサンドの言いなりなのだ…。

ソランジュをなだめたはずのショパンにまだ金か!情報か!愛情か!知恵か!才能か!

ショパンを助けるどころか、ソランジュは欲深くイライラして、更にショパンに何かを要求する書簡を送ってきた、しかし、これはショパンを追い詰めるように母サンドが裏でソランジュに指図しているのだ。

ソランジュの書簡をショパンが出したのは、

前回10日程前だから、行き違いにはならない。直ぐにまた、ショパンはソランジュに

返事を書いた…

「私が走り書きしたものをすべてあなたにお送りするのは、その原因が怠惰ではなく、身体の弱さ、あるいはそれに類するものであることをお見せするためです。」

ソランジュの度重なるショパン=下僕としての酷い仕打ちに耐え兼ねたのかショパンは、

自分が書き溜めていたソランジュに出さなかった大量の下書きの書類をソランジュに送りつけた。ソランジュは母サンドからショパンを中傷し苦しめ、ショパンから何かを巻き上げるように言われていた。

だからショパンがあれほど紳士に書いても、

ソランジュからは『私達が欲しいのは、そのようなお金にならない言葉ではなく、今までのようにあなたの残りの才能も私達は欲しいのです。あなたは解っているはずです、

だから、あなたは私に対して怠慢です。だから、このようなうわべだけの書簡で私達が納得できると思っているのかしら?』

こういう意味なのだ…だから、ショパンはソランジュに書いても書いてもソランジュはまだ足りない、足りないと催促してくるのだ。

ショパンはソランジュに言いたかった『自分は怠慢ではない、身体が弱っていると何回もあなたにも申し上げました。それでも、まだ不足なのですか?いったいまだ何があなたは私から奪いたいのですか?あなたがたはそれでも人間ですか?』見え隠れどころか、

サンドの影が丸見えのショパンは悔しさを堪え、続きをソランジュに書いた。

「あなたのご主人はお元気で、昨日も私に会いに来てくれましたよ、

彼は月曜日に大統領に紹介されるように手配してもらったと言っていました。

彼は非常に毅然としていて、ドラクロワ(誰かがあなたの夫に依頼した胸像について私に話しました)にも会ったそうです。 

例えば、ラ・パリスが言うように、この世界では運が2倍になることはありませんよ。

私はあなたを慰めるような貴重なことわざしかお伝えできないことをどうかお許してください。」これは、もはやソランジュとショパンのやり取りではないことは明白だった、

ショパンはソランジュとクレサンジュにロンドン行きなら力になれるが、ロシア行きは入国の情報は持ち合わせていないから力になれない、クレサンジュもそのつもりで仕事を進めている、だが欲に駆られているサンドはソランジュを使って、ソランジュはロシア、クレサンジュはロンドンで2倍稼がせようと企んでいた。ショパンはオペラの題材にもある

人物のネタの元は実は私だとあなたがたは知っているはずですね。でも、これは、教えてないが、このように人生で2倍旨い汁を吸えることはないのですよ。と厳しくサンドをけん制した。

サンドはショパンが弱っているとポーリヌから聞き出し、早くショパンの頭の中から、

オペラの題材となるアイディアやデータを吸い出そうとしていた。ショパンはそれは、

過去の経験からサンドの悪知恵はお見通しだった。だから、ソランジュがサンドの代わりに言ってきた意味は、早くまだ持っているデータがあるなら私達が金に変えるから死ぬ前にこちらへよこせ、と言ってきたのだ。ショパンは、なぐり書した書簡の束をこんなものしかもうないですよ、とソランジュ、それはサンドへ送りつけたのだ。

ショパンは身体が弱っていたが、自尊心だけは捨ててはなかった。

ショパンは意味ありげに続けた…

さて、春の太陽は私の最良の医者であってほしいものです。

オペラ座では『プロフェット』のために、

熱帯地方のどの太陽よりも素晴らしいと言われています。太陽はただ昇るだけで、長くは続かないが、非常に強いので、音楽以外のすべてを日陰に追いやってしまう。これは電光の光線でできている。昨日は体調が悪くてリハーサルに行けなかったが、来週の月曜日に行われる初演を心待ちにしている。ローラースケートを使ったスケーターズダンスが話題になっています。

火のシーンや素晴らしい演出があります。

母親役のヴィアルドー夫人が皆を泣かせます。観客は皆泣き、そこに行きくのは全ての物事を消し去りたいからです。

あなたは時間のある時にでもあなたの近況を私に聞かせてください。

あなたは気候に恵まれますように。

パリはひどい天気ですよ。

20種類もの天候があり、泥だらけで、部屋には隙間風が入り、すべてが不快で耐え難いです。」

オペラ「預言者」は16世紀の宗教戦争を題材としている、序曲は、ショパンの弟子のアルカンがマイヤベーヤから依頼され書いたことになっているが、マイヤベーヤはサンドとも親交があるのだ。そして、ショパンはアルカンは哀れな奴だとアルカンの才能のなさを哀れんでいた。人々の心を揺さぶるような曲の始まりはやはりショパンしか書けないのだ。

だから、ショパンはサンドに人のネタをむさぼり生きるのはもう終わりにしろ、と言いたかった。残念ながらもう新しいネタはあなたがたには無償であげる理由が私にはないのですよ、そうショパンはサンドに言っているのだ。

パリは相変わらず環境が悪く天候も変わりやすく、パリの人々の表情は暗かった、

ショパンは人々が何に涙し何を求めているかを知っていた。

様々な苦難はいずれは太陽が消し去ってくれるが、私の音楽だけは消し去ることはできないとショパンはソランジュに書いた、それは、あながたの悪行は神が見ています、だから、私の音楽は誰も消し去ることはできない、とショパンは自分の人生は間違っていなかったと信じたかった。ソランジュに書いたことはサンドへ伝わることを知っていたショパン。

しかし、ソランジュやサンドには到底ショパンの言葉を理解する能力も感性もないであろうこともショパンは解っていた。

この後もショパンへのソランジュそれは、サンドから、の書簡はショパンを苦しめる無理な要求ばかりだった。

 ショパンは5年もの間会っていないワルシャワに居る姉ルドヴィカが恋しくなっていた。ショパンの友人もショパンに残された時間を感じるようになってきていた。

翌月5月ソランジュは出産した。しかし、将来この子供は6年後に亡くなることになる…。

ショパンはソランジュに書いていたようにオペラ預言者のリハーサルには行かなかった。

それは、リハーサルで序曲をカットし演奏しないことを知っていたからだった、自分の序曲が聴けないから行かなかったのだ。

初演前でまだ誰も観ていないはずだが、

ショパンはソランジュに内容を説明している、どこで観客が涙するかまで知っているショパン。予告の宣伝があったにしてもやけに詳しいショパン。それはショパンが考え努力したことだから…。

弱っていたはずのショパンだが、この作品だけは何が何でも観に行かなくては死んでも死にきれないと思っていた。

ショパンはオペラを鑑賞するのが最後になるであろうと覚悟していた、自分の作品を死ぬ前にどうしても聴いて観たかったのだ。そこには、ショパンの親友ドラクロアも来ていた。ショパンには歌うポーリヌがワルシャワに残して来たコンスタンツァアの姿に重なって見え、そして、最後に舞台に呼ばれて歌手達と手を取り合い拍手喝采のうねりな中に立っている自分の姿がショパンには見えた。そして、客席にいる弱った身体のショパンの頬に涙が流れた…。ショパンは他の観客と一緒に拍手は出来なかったし、しなかった…。

ジャック・デ・ラ・パリス(またはデ・ラ・パリッセ)(1470 – 1525年2月24日)はフランスの貴族であり軍の将校。

ジャック2世ドシャバンヌ、ラパリス卿、パシー、ショーヴェロテ、ボルトルコント、エロンでした。1511年に、彼はフランスのグランドマスターの称号を受け取った。

フランソワ1世の元帥として、彼はイタリア軍と戦い、パヴィアの戦いで亡くなった。

バイオグラフィー


オペラ(預言者) 

1849年4月16日にパリで初演。

オペラ預言者は、劇作家のオギュスタン・ウジェーヌ・スクリーブ1791年12月24日 - 1861年2月20日とエミール・デシャンの台本に、ジャコモ・マイヤベーアがヴォルテールの『民族の魂と精神』( 1756)に基づいて書いた5幕構成のグランドオペラである。

ミュンスターでのアナバプテスト(再洗礼派)の蜂起(1534年 - 1535年)を題材に16世紀の宗教戦争を描いた作品だが事実とは異なる。主人公ジャン・ド・レドはオランダ人の宗教家であるヤン・ファン・ライデンの生涯に基づき描いている。、彼は16世紀の神聖ローマ帝国で発生したミュンスターの反乱の指導者だった。ミュンスターの王に即位し、

キリスト教終末論の一つである千年帝国を作ろうとしたが敗北し処刑された。

1849年4月16日、パリ・オペラ座のサル・ル・ペルティエ(1848年の革命後に国民劇場と改称)で、✳︎ショパン、ヴェルディ、テオフィール・ゴーティエ、ドラクロワ、トゥルゲニエフ、ベルリオーズらが出席してフランス語で初演した。

7月24日にロンドンのコベントガーデンで英語、翌年にハンブルク、さらにウィーン、リスボン、アントワープ、ニューオリンズ、ブタペスト、ブラッセル、プラハ、バーゼルなどドイツ語で公演された。この作品は、マイヤベーアの名声を絶頂に導く大成功を収めた。ドイツ人として初めてレジオン・ドヌール勲章を受章した作曲家。楽譜の出版で44,000フラン(約243,500ユーロ)という多額の印税を手にしたのだ。100回目の公演は27ヵ月後、300回目の公演は273ヵ月後の1872年1月15日に行われた。1876年にガルニエ宮で再演され、1912年まで573回上演された。グランド・オペラの典型であるこの作品は、魅力的な物語であり、世紀の問題に対する驚くべき内容で当時のオペラ・パノラマにおける不可欠な要素であると同時に、比類のない声楽と演劇の情景と評されている。

マイアベーアの作品は、オペラ自体の長さが長すぎるため、リハーサル中に長い序曲をカットしていた。1世紀以上の間、序曲はシャルル=ヴァランタン・アルカンがマイアベーアの要請で作曲されたと信じられていた。そのため序曲はピアノの編曲版として残ると考えられていた。マイヤーベーヤの原稿のスコアは1990年代初頭にパリの国立図書館で再発見され、オリジナルの部分はその後パリオペラ座のアーカイブで作成され、2010年に新たに編集出版された。