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やわい屋

「感性と理性の間にあるもの」

2017.12.18 06:29

先日明治大学で行われた共通総合講座にお邪魔させていただきました。

タイトルは「インティマシーをデザインする」

講師はこの夏に飛騨産業さんで対話させていただいた環境人文学の鞍田崇さん、ゲスト形式で行われる講義の趣旨は以下のようになります。

 現代社会のひずみを克服し社会を変革する道筋を考えるのが、「環境人文学」のねらい。人々を社会変革へと誘う駆動力となるものとして、春学期には、地域社会に寄せられる共感の深化とともに確立される「ローカルスタンダード」に注目しましたが、本学期は、そもそもなぜいま共感なのかについて、「インティマシー」という感性を手がかりに考えます。現代では、社会にせよ個人生活にせよ、ともすると他所事・他人事になってしまいがち。それらをあらためてリアルなまなざしのもとに我が事として取り戻す契機となるのがインティマシーです。辞書的には「親密さ」と訳されますが、むしろ「いとおしさ」という方がふさわしい。そうした感性を培うにはどうすればよいのか、そもそもインティマシーとは何なのか。本講義では工芸、デザイン、アートなど、具体的な表現に携わる方々とともに考えます。

参加させていただいたのは12月13日の回です。

[必然②]不完全という完全― 福森伸― しょうぶ学園・統括施設長。


右から鞍田さん・福森さん・僕の丸眼鏡三人集です(笑)


実は以前から一度お会いしたいと思っていたしょうぶ学園の福森さんの講義でした。みなさんしょうぶ学園をご存知でしょうか?

鹿児島県にある社会福祉施設しょうぶ学園は工芸、アート、音楽活動で国内外の注目も集めている学園です。今年、ドキュメンタリー映画

「幸福は日々の中に。」

が公開されおおきな話題を呼びました。

また学園の利用者を中心に編成された民族楽器のアンサンブル・パフォーマンスバンド「otto & orabu」の楽曲はアパレルブランド「niko and...」の広末良子さん主演のCMで使われこちらも大きな話題を呼びました。

今回講義を終えての感想を書こうと思ったのですが、その前に鞍田さんんから参加者に二つ宿題が出されました。お題は「感性と理性の間にあるもの」「人間にとってに本当の意味で「障害」とは何か?」の二本です。

学びの量や質は、いかに主体性を持って打ち込んだかによっておおきく変わります。極端な話、学ぶ姿勢さえあれば日常は学びに溢れているのです。なので講義の後このようなアウトプットの機会をいただけたことがとても嬉かったです。

なので先にこちらをシェアさせていただきたいと思います。


・感性と理性の間にあるもの


 感性とは「一見異なるものごとの間に共通するなにかをじとる能」であると思います。その知性が産まれたことで、人は世界の隅々に神々や精霊を見出し、自然の一部として生きられる価値観を作りだしました。対して理性とは「集団を守るために決められたに従う能」であり、経験から導かれた答えを正解として、機械的に処理することに長けた思考法といえます。感性と理性の違いは社会システムでいえば「アニミズムと合理主義」の違いであり、理性は知識でものを見ることと、感性は心の眼で見るということともいえます。

「感性と理性の間にあるもの」という存在を端的に言い合わらしているのは、もののけ姫で主人公のアシタカが言ったセリフ「曇りなき眼で見定め決める。」という言葉だと思います。

 アシタカは北に追いやられたアテルイの子孫・縄文の末裔として描かれますが、生まれ育った村は太古の自然と人間の関係を守りながらも、自分たちが滅びゆくことを悟っています。アシタカは、いわれのない呪いを受け旅をするなかで、村以外の外界の社会を学び、怒りや憤りではなく「共生」の道を探ります。

このアシタカの目指した世界こそ、感性(アニミズム的自然)と理性(合理主義的人間)の間にある世界であると言えます。それはアシタカがけして「奪う」ことを選択せずひたすら「共存」の可能性を説く点にあわられているように思います。

 アシタカとサンは獅子神の首という(アニミズムの象徴)を「人間の手で還す」ことで禊を果たし、原生林という太古の自然を鎮魂し、自然とのあたらし関わり方を手に入れます。そしてエボシの里(合理的世界)と、サンの山(アニミズム世界)を繋ぐ間(里に暮らし山に入る暮らし)を選びます。そこにあるのはうっそうと茂った神の住まう原生林ではなく、人が交わることでバランスを保つ里山の世界です。

 そして、このプロセスは柳宗悦の民藝運動と通づる点があります。「曇りなき眼で見定め決める。」は「今 見ヨ イツ 見ルモ」と同質の言葉であり、柳の起こした運動もまた、「名もなき工人」という既存の自然観が西洋的な自然観に変わる転換の時代に、弱者(アニミズム)の側に立って合理主義社会との共生を模索した運動であったと思います。柳もまた荒れた原生林に分け入り、自らの手で切り開き、人と共生できる里山的な世界を作り出したのです。

その意味で、柳の民芸運動はもののけ姫のラストシーン原生林を里山に戻したところまでは成し遂げられましたが、そこで止まっているともいえます。90年を経て柳が撒いた芽が大きな木々に育った現代は、大切に育てた木々の間引きが必要な時期なのでしょう、柳の生み出した民芸という森は大きく育ち、大切に保護することで荒れはじめています。それがやがて原生林に戻るのを待つのも一つの価値観ですが、柳は本当にそれを望んでいるのでしょうか?僕はそうは思いません。柳はその時代を生きる名もなき者が、貧しくとも豊かである世界を望みました。それを主体的に受け止めるならば、育った森をいかに活用するか、森といかに関わるか、という話になるはずです。

そして、その答えはしょうぶ学園の取り組みの中にあります。障害を持つ者とは社会の中で「名もなき工人」と同質の存在であり、それを導くということに柳の民芸運動の意義はあります。しょうぶ学園の取り組みは民芸運動の思想を継ぐものであり、福森さんのあり方こそが感性と理性の間に立ち、弱者と社会との共生の未来を創る民芸思想を体現するものであると思います。


・人間にとってに本当の意味で「障害」とは何か?


 辞書を引くと障害とは「ものごとの妨げになる」とありますが、果たしてどのくらいの人が対象となるの「ものごと」の不確定さについて考えたうえで障害という概念を用いているのだろう?と思いました。例えば、障害者(この言葉はあまり好きではないですが)というときの「ものごと」は「社会システム」を指し「社会システムの妨げになる者」という意味で使われていることになりますが、この世の中で「社会システムの妨げにならない者」はどこにもいないはずです、もしいたとすればそれは精神的に社会に帰属していない人を指すのかもしれませんが、本人がどう考えていてもそれは社会の一部に過ぎません、社会の内側では全員が障害を持っている故に社会という仕組みが必要ということになります。

 本来、社会(集団生活)は相互依存的な形でしか存在しないので、自立した個人の集合体的なものではないはずです。真に独立的(インディペンデント)というのは、誰にも迷惑をかけない、かけられない状態ではなく、それとは正反対の「誰にでも気兼ねなく迷惑をかけられて、誰からも気軽に迷惑をかけてもらえる相互関係」を持つということで、ひと昔前の「袖すりあうの多少の縁」といった暮らしぶりこそが実は多様性を容認した独立的な暮らしであるといえるのです。

社会システムとは「弱者が生きられる」ための仕組みにほかなりません。人はみな「赤ん坊」という弱者に産まれ「高齢者」という弱者になる運命であり、いつ事故や病気で不自由な身体になるかもわかりませんし、故意でなくとも加害者となって社会のおいての関係性を失うかもわからない…社会が支えている弱者とは、どこかの知らない誰かではなく「過去の弱かった自分と、これから弱くなる未来のあなた自身」のはずです。

そして、世の中の大多数がそんなこと考えないでも生きられるという意味で、実は社会は弱者を生産しているともいえます。そしてそれを支えるのが社会…という矛盾をはらんでいると思います。しかし、そんな厄介なことを「考えなくても生きていられる状態」にするために努力してきたのですから、近代の日本は誠にゆたかな国であるといえます。しかし、そのシステムの問題に気がついてしまった以上は、そのことに対して今一度誠意をもってむきあい次なる社会の実現にむけて歩んでいかなければならないように思います。

 そのように考えたとき「考えなくても生きられる」ということこそが現代における最大の「障害」となっているように思います。本当の「障害」とは「自身で考えることを妨げるもの」や「主体性を奪う形骸化したシステム」であり、「多様性を認めずステレオタイプな人間」をよしとする社会全体の空気にあるように思います。そしてそれらの問題の根源は他者や外的な存在の中に社会の側にのみあるのでなく、様々なものごとによって自身の内面で起こる問題であるように思います。眼に映り存在している世界は主観的な「心の鏡」に映るもので、内的な状態によって曇ったりゆがんだりしています。その歪みや汚れはなにも考えていないとすぐにこびり付いていきますが、その汚れや歪みこそ「障害」の眼に見える現れではないでしょうか。

ではどのようにしたら汚れを払い、主体性を取り戻せるのかという点において「民藝運動」はひとつの指針になるように思います。民芸の元にある「白樺派」は社会問題を「制度」の問題としてではなく「個人」の問題として捉えることによって、普遍的な全人類の意思に即して生きることが出来る、と主張したからです。この転換こそ現代にも求められる思考の転換ではないでしょうか?

現代も「制度」や「仕組み」で社会を改革しようという言葉はおおくみられます。しかし、その仕組みでは、問題を遠くの誰かのことと棚上げして「主体性を失わせる障害」=「考えない生き物」を増やすばかりです。困ったことに現代をいきる我々は生死の危機に陥ることも、飢えを感じることも、TVの向こうの出来事として処理して、通常の営みは普遍であると思い込める程の「豊かな」生活が幼少期の教育の段階からすでに骨の髄までしみわたっているのです。

だからこそ、今一度「天窓を開け放ってさわやかな空気を入れた」と芥川が称した「白樺派」の思想と、多くの白樺派が戦争迎合の道へ向かってしまった中にあって、終ぞ道をあやまらなかった柳宗悦の民藝運動から、白樺派の人々が見出した、問題の所存を「制度」ではなく「個人」に発見する姿勢をもって考え直す時期ではないかと思います。

これからの時代は「問題」を「社会」のせいにするのではなく、それらをいかにして引き受けていくのかという「個人」の「問題」の時代にならなければなりません、それは「ナドテ 豊ケシ 貧シサ ナクバ」と柳がいう様に、「足らざるに足るを知る心」を持ち、他者との関係性の多様性の中から、自らの心が「汚れ」ないようにするのではなく、「汚れ」を感じとることにのみ注視して「誰にでも気兼ねなく迷惑をかけられて、誰からも気軽に迷惑をかけてもらえる相互関係」の中で自ずから磨かれるような生きかたが実現する「社会」を実現することにあると思います。

それはだれも手を入れなくても美しく見える自然に学ぶということであり、作り出す時代と作られる時代とが手を取り合うそんな世界ではないかとおもいます。