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復活節第3主日(C)

2022.04.29 20:00

2022年5月1日 復活節第3主日(C)

第1朗読 使徒言行録 5章27b~32、40b~41節

第2朗読 ヨハネの黙示録 5章11~14節

福音朗読 ヨハネによる福音書 21章1~19節

 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。

 全てをご存知の方の「私を愛しているか」という問いかけは、私たちにとって、ある意味最も厳しい問いかけかもしれません。ペトロの言う通り、「主よ、あなたは何もかもご存じです」と言いたくなります。弟子たちは、自分たちがイエスのようには生きられないということを、あの十字架の出来事を通して痛感していました。彼らは、あの最後の晩餐の時にも、どんな困難を乗り越えてでもイエスについて行く気持ちでいたことでしょう。そして、その実績をイエスから評価してもらうことを夢見て、一生懸命に頑張っていたに違いありません。しかし、自分たちの現実はあまりにも惨めなものでした。

 ペトロはどんな気持ちで漁に出ていたのでしょうか。今日の福音が三度目の出現と述べていることからすると、彼は復活の主に出会った後も、自分の普段の生活を続けていたということです。この事実からは、どこか前を向けない気持ちを引きずるペトロの葛藤が伝わってきます。そのようなペトロをイエスはさりげなく気遣います。昔を思い起こさせる奇跡を起こし、あっけらかんと朝食に招き、ペトロだけを連れ出して、親しい雰囲気の中で問いかけたのです。

 ペトロにとっては、このイエスの振る舞いの一つ一つが、きっと痛いほど心に刺さったことでしょう。自分は裏切ってしまったのに、この愛に値しない者なのに、そんな自分を一言も叱責することなく、普段と変わらずに接して下さる、これほど辛い愛があるでしょうか。このイエスを前に、ペトロは正直に答えました。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」。この応答は、原文の意味から解釈すると、「私が愛しているその愛は、あなたが求める愛には遠く及ばないものですが、それでも私が今私なりに精いっぱい愛していることを、あなたは知っていますよね」という感じになります。ペトロには、もうそう答えるしかありませんでした。また裏切るかもしれない、また逃げるかもしれない、そんな自分を知った後で、自信満々に言えることは何もなかったのです。

 イエスは、このペトロの抱える弱さには、何も答えられませんでした。ただ、そのペトロに御自分の務めを委ねられたのです。私たちは今日、この事実を深く受け止めたいと思います。イエスは、ペトロにこれから先も困難が続くことだけを知らせています。何か積極的に励ますわけでもなく、不安に陥れるわけでもなく、ただペトロに対して変わらぬ信頼を寄せながら、これから先のことをありのままに知らせた上で、「わたしに従いなさい」と招くのです。

 私たちの信仰生活も、いつもこのイエスの招きを受けています。イエスに従いきれない私たち、弱く、罪を犯す私たちであるにもかかわらず、イエスはただ「わたしを愛しているか」と聞き、「これから先も大変だよ、でもわたしに従いなさい」と言って、大切なミッションを委ねてくださるのです。このイエスの愛を深く感じれば感じるほど、私たちは悩みます。苦しみます。そして、そのプロセスの一つ一つが、信仰を深める上できっととても大切なことなのでしょう。

 私たちは通常、恐れのない状況に憧れ、失敗しないことを理想とし、自分なりの完全さを思い描き、それを生きることができるかどうかで自分の信仰を測ろうとします。しかし、今日の福音を読む限り、イエスが望んでいる信仰はそれではありません。恐れの中で、失敗の中で、不完全さの中で、それでも何を選び取ろうとするか、そこが重要なのだろうと思います。使徒たちの宣教は、この信仰の土台の上に立てられたからこそ、今日まで続いています。「自分の諸々の弱さがあろうとも、だからなんだ、失敗がなんだ、それでも愛したい、それでもあなたについていきたいんだ」という愚直な思いで、私たちもまた新たに歩んでいけますように。

(by, F. S. T)