【南豊島】千駄ヶ谷町
町名:千駄ヶ谷町
読み方:せんだがやちょう Sendagayachō
区分:町丁
起立:1746(延享3)年
廃止:存続 「千駄ヶ谷」として
冠称:なし
現町名:渋谷区千駄ヶ谷一・二丁目、新宿区霞ヶ丘町
概要:①古くは武蔵国豊島郡千駄ヶ谷村のうち。1591(天正19)年吉祥寺領、1618(元和4)年西福寺領、1626(寛永3)年霊山寺領となり、寺社奉行支配であったが、1746(延享3)年からは町奉行支配となった。
町屋は各々吉祥寺領2ヶ所、西福寺領3ヶ所、霊山寺領3ヶ所、霊山寺領西方に飛地1ヶ所があった。玉川上水の分水が流れており、板橋3ヶ所のうち2ヶ所は、1798(寛政10)年と1821(文政4)年に石橋に改架された(備考)。
町家高は『備考』では吉祥寺領2石余、西福寺領3石余、霊山寺領2石余、『旧高旧領』ではそれぞれ122石余、155石余、92石余となっている。文政年間(1818~1831年)頃の家数は、吉祥寺領西寄分12軒、同東寄分4軒、西福寺領両側町屋分9軒、同片側分14軒、霊山寺領北側分41軒、同南側分3軒、同飛地分3軒(町方書上)。
②古くは武蔵国豊島郡野方領千駄ヶ谷村というが、同村の除地で空地だった。1699(元禄12)年6月、伊賀者市川氏等が拝領し、1700(元禄13)年に百姓町屋が許された。町内は四谷天龍寺門前続町屋と四谷大番町塩硝蔵続町屋の2ヶ所に分かれていた。1713(正徳3)年から町奉行支配となった(備考)。文政年間(1818~1831年)の家数は13軒(町方書上)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。千駄ヶ谷仲町一・二丁目が同年に分立。1872(明治5)年7月、千駄ヶ谷町は紀伊和歌山藩徳川氏等の武家地及び開墾地を併せ、千駄ヶ谷一~三丁目となる。当時の戸数159・人口745(府志料)。また、千駄ヶ谷村から千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町が分立。
1878(明治11)年11月2日、東京府四谷区に編入。しかし1879(明治12)年9月27日(4月22日か。また、渋谷区立図書館の「渋谷区年表」では、1880(明治13)年9月となっている)、これらは東京府四谷区から東京府南豊島郡千駄ヶ谷村へ再編入され、町名の一部は同村の小字となり、一部は消滅。
1889(明治22)年5月1日、町村制施行に伴い、千駄ヶ谷村、穏田村、原宿村の3村が合併して新しい千駄ヶ谷村が成立。旧3村はそのまま新しい千駄ヶ谷村の大字となった。この際、旧千駄ヶ谷村のうち字西信濃町・甲賀町・大番町・火薬庫前・川向・池尻・霞岳は分離して、再び四谷区(東京府東京市)に編入。千駄ヶ谷村から再び四谷区へ移った地域は、嘗ての千駄ヶ谷一丁目、千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町、千駄ヶ谷大番町の区域で、現行の東京都新宿区大京町の南部、信濃町の西部及び霞ヶ丘町に相当する。千駄ヶ谷町のうち、千駄ヶ谷二・三丁目についてはそのまま千駄ヶ谷村に留まることになり、南豊島郡千駄ヶ谷村大字千駄ヶ谷となった。
1896(明治29)年4月1日、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村大字千駄ヶ谷となる。1907(明治40)年4月1日に千駄ヶ谷村が町制施行し、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町大字千駄ヶ谷となる。
1932(昭和7)年10月1日、東京府東京市に渋谷区発足。渋谷区千駄ヶ谷一~五丁目となる。豊多摩郡千駄ヶ谷町大字千駄ヶ谷字内藤反甫、字北の脇、字八幡前が一丁目、字町内、字中村、字南前、字水の口が二丁目に、字向山、字宮山、字大通が三丁目に、字新屋敷、字下タ道、字小西、字大西が四丁目に、字新田、字新町裏、字新町、字厩通が五丁目となって成立。
1943(昭和18)年7月1日、東京都渋谷区に所属。1968(昭和43)年1月1日、住居表示の実施により、二丁目の南半部を神宮前二丁目に編入分離、また原宿三丁目の北半部を三丁目に編入し、千駄ヶ谷大谷戸町(新宿御苑の一部)を編入して六丁目を起立。さらに町域に代々木山谷町、代々木外輪町の一部を編入し、現行の「千駄ヶ谷」とした。
このように辺境地の地域割りが難しいのはある程度理解できるが、余りに目まぐるしい境界変更に嫌気が差す。
さらに『東亰區分全圖』(1878(明治11)年)等、地図によっては千駄ヶ谷町の南側に「新町」と書かれている。江戸期には「新町通り」という通りの名前として存在していたが、この町名は公式町名としては一度も現れないものであるし、大体にして千駄ヶ谷町は1872(明治5)年に千駄ヶ谷一~三丁目となっていてもう存在していないはずなのである。千駄ヶ谷は町域どころか町名さえ正確なものが掴めない相当な難所である。
そもそもの「千駄ヶ谷」について以下に詳述する。
新宿御苑の日本庭園の池の連なるところが嘗ては渓谷を成し、「千駄ヶ谷」と呼ばれていたことによる。「千駄萱」(田園簿)、「千駄之萱」(水帳)とも書いた。地名の由来は、日に千駄の萱(屋根材)を出す一面の茅野であった(新編武蔵、砂子)とか、或いは太田道灌が巡見の際、「この谷間の稲千駄もあるべし」といったことによる(紫の一本)など萱に因む説と、「千駄焚き」(千駄木を焚いた雨乞い)をした谷(や・やつ・やと)であるという説(渋谷区史)、米の代わりに千駄の萱を納めることになっていた
なお、1駄は2~4束、駄馬1頭の運ぶ量で36貫(135kg)という。千は数量でもあるが多いこともいうので、当時広大な萱地・湿地だったようだ。
「千駄ヶ谷」の名は戦国期に見える地名で、初見は『役帳』に島津孫四郎分の所領として、8貫640文千駄ヶ谷とある。江戸期の千駄ヶ谷村の地かと考えられる。
「千駄ヶ谷村」は、武蔵国豊島郡野方領のうち。幕府領と西福寺、吉祥寺、霊山寺の3寺領の相給地、1693(元禄6)年根生院領20石が加わった。村高は『田園簿』では、田185石余、畑219石余で計404石余、『元禄郷帳』では350石余、『天保郷帳』では473石余、『旧高旧領』では464石余。助郷は甲州街道内藤新宿に出役。桃の葉、杉の葉を上納し、また、駒場野に近く中野筋の御鷹場であった。化政期(1804~1830年)の村の状況は、家数23軒。千駄ヶ谷は自然状態で一円の野水を集めた谷沢であり、玉川上水堀が村の西北を流れ、千駄ヶ谷橋が架かり、その支川は「除水堀」と呼ばれ、石橋2、板橋1が架かっていた。なお、除水堀は天竜寺の脇に暗渠になって今も残る。江戸時代は内藤屋敷の南縁を成して内藤田圃を潤した。明治になって旧旗本屋敷や田畑は新宿御苑の敷地となり日本庭園を造成して現在の池水に拵えた。1713(正徳3)年に千駄ヶ谷町、1746(延享3)年に千駄ヶ谷大番町、千駄ヶ谷神明門前、千駄ヶ谷瑞円寺門前(町)、千駄ヶ谷聖輪寺門前が町奉行支配となる。
北寄りの1590(天正18)年以来の信濃高遠藩内藤氏の屋敷地は1683(天和3)年、1697(元禄10)年の2度に亘りその一部が上知され、新道が設けられて旗本御家人等の屋敷地となり、一帯は「内藤宿新屋敷」、「千駄ヶ谷新屋敷」と呼ばれた。この地域には与力、同心、小人、黒鍬者、御掃除役等の下級役人の大縄屋敷が散在し、百姓地と接する外れに大名屋敷があった。美濃加納藩永井氏、紀伊和歌山藩徳川氏、肥前佐賀藩鍋島氏の各抱屋敷、出雲松江藩松平氏、大和郡山藩柳沢氏、下野宇都宮藩戸田氏、遠江相良藩田沼氏の各下屋敷、三河苅谷藩土井氏の中屋敷があった。この地の拝領屋敷で晩年を過ごした新井白石は、「青麦阡々秀 紅桃樹々春 烟中聴犬吠 似有避秦人」と一面の麦畑の千駄ヶ谷風景を歌い(享保2年室鳩巣宛書状)、1725(享保10)年ここに没した。
総鎮守千駄ヶ谷八幡宮は、白鳩が多数西をさして飛び去った霊端により「鳩森八幡宮」とも呼ばれ(江戸名所)、860(貞観2)年慈覚大師の勧請。社前の南北の道は旧鎌倉街道であった。別当は曹洞宗相模国高座郡遠藤村宝泉寺末高霊山金剛院瑞円寺。1649(慶安2)年、家光が鷹狩りの際に放った鷹鈴掛の止まった松が境内にあり、近くの寂光寺の遊女の松とともに東武三十六名松に数えられたという(砂子、東京名所)。日蓮宗仙寿院の庭園は、谷中日暮里に似ていることから「新日暮里」と呼ばれ、文政(1818~1831年)・天保(1831~1845年)年間頃から桜の名所となり、参詣人に売られた「お仲団子」は「江戸百のれん」の1つとして銘菓に数えられた(東京名所)。
江戸期の千駄ヶ谷は武家屋敷で占められており、「黒鍬町」「御切手町」「日陰町」等、本来は町ではないが便宜的に用いられていた俗称地名が主流であり、町人の住む純粋な町屋はその隙間に僅かに存在していた千駄ヶ谷町と内藤新宿六軒町のみであった。当町は、千駄ヶ谷八幡(現・鳩森八幡神社)や聖輪寺の周辺、JR千駄ヶ谷駅の周辺や六道の辻等の西南側等、隠田川東西各所に点在していた。
浅草の西福寺(東光山・良雲院)は寺領のうち、千駄ヶ谷方面にある町屋を支配していた名主金兵衛を、年貢納入不行届の廉で退役させ、後任者が見付かるまで組合名主の勘四郎に事務を執らせたい旨を、町年寄に願って来た(1851(嘉永4)年正月)。千駄ヶ谷村には武家地を除いて、吉祥寺、西福寺、霊山寺の寺領が入り組んでいる。各寺領のうち、追々と町家作を建てたところは、1746(延享3)年に町奉行支配となり、千駄ヶ谷町となっていた。しかし、現実には、前記3寺の寺領が入り組んでいるので、惣名は千駄ヶ谷町であるが、それぞれの寺領ごとに、寺号を冠せて「〇〇寺領千駄ヶ谷町」と称えていたし、金兵衛は西福寺領千駄ヶ谷町の他、「霊山寺領千駄ヶ谷町」、「千駄ヶ谷神明門前」、「千駄ヶ谷瑞円寺門前」、「千駄ヶ谷聖輪寺門前」の名主を、前記勘四郎(吉祥寺領千駄ヶ谷町名主)と共に勤めていた。なお、「西福寺領千駄ヶ谷町」が24ヶ所も散在し、吉祥寺領千駄ヶ谷町は約10ヶ所、霊山寺領千駄ヶ谷町は約13ヶ所存在し、町境を接したり、武家地と隣接したりしていた。
慶応4年11月5日(1868年12月18日)、東京府に所属。東京府豊島郡に所属。1872(明治5)年、区域内から千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町、千駄ヶ谷一~三丁目、千駄ヶ谷仲町一・二丁目の各町がそれぞれ起立。同年の戸数172・人口680、米、雑穀、蔬菜、桑、生茶、素麺、楽焼物を生産していた(府志料)。1876(明治9)年6月、村立千駄ヶ谷小学校開校。
1878(明治11)年11月2日、東京府南豊島郡に所属。1879(明治12)年9月27日(4月22日か)、千駄ヶ谷一~三丁目、千駄ヶ谷仲町一・二丁目、千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町、千駄ヶ谷大番町を再び千駄ヶ谷村に合併。1889(明治22)年5月1日、原宿村、隠田村と合併して成立した千駄ヶ谷村の大字千駄ヶ谷となる。同時に1879(明治12)年に編入された千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町と字火薬庫前、字川向、字池尻、字霞岳は四谷区に編入された。
1895(明治28)年の戸数1,001・人口3,850(渋谷区史)。同年、甲武鉄道(現・JR中央線)が開通。1896(明治29)年4月1日、東京府豊多摩郡に所属。1904(明治37)年8月に千駄ヶ谷駅、1906(明治39)年10月には代々木駅が開業。この頃、急激な人口の集中により市街化がほぼ完成。1904(明治37)年には渋谷村から当村字大通549番地に移った与謝野夫妻はここで第1期『明星』を編集。
1907(明治40)年4月1日、町制施行し、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町となる。同年の戸数3,837・人口1万7,313。1928(昭和3)年5月、町営水道給水開始。1932(昭和7)年10月1日、渋谷町、代々幡町と合併し、東京市に編入。3町の区域をもって渋谷区が誕生。隠田一~三丁目、原宿一~三丁目、千駄ヶ谷一~五丁目、千駄ヶ谷大谷戸町となる。
ここまで書けば、千駄ヶ谷という地域が極めて調査困難な地域であることが解るだろう(さらに明治に入り、四谷区との境界変更があり、複雑さを極める。千駄ヶ谷は芝口や浅草馬道、麻布今井谷町に匹敵する相当な難所である)。
撮影場所:千駄ヶ谷町