【南豊島】千駄ヶ谷一丁目
町名:千駄ヶ谷一丁目
読み方:せんだがや Sendagaya
区分:町丁
起立:1872(明治5)年7月
廃止:1879(明治12)年9月26日
冠称:なし
現町名:新宿区霞岳町、霞ヶ丘町
概要:1872(明治5)年7月、千駄ヶ谷町は紀伊和歌山藩徳川氏等の武家地及び開墾地を併せ、千駄ヶ谷一~三丁目となる。当時の戸数159・人口745(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府四谷区に所属。1879(明治12)年9月27日(4月22日か。また、渋谷区立図書館の「渋谷区年表」では、1880(明治13)年9月となっている)、四谷区から分離して千駄ヶ谷村と合併し、新しい千駄ヶ谷村を起立。これに伴い千駄ヶ谷一~三丁目は、千駄ヶ谷仲町一・二丁目とともに消滅。なお、大番町、甲賀町、西信濃町は千駄ヶ谷村の字名となった。
1889(明治22)年5月1日の市制町村制施行時、四谷区と南豊島郡の境界を再度変更。千駄ヶ谷村の7字(大番町・西信濃町・甲賀町・池尻・霞岳・川向・火薬庫前)が再度四谷区(東京府東京市)に編入され、同村の残余は原宿村、隠田村と合併して新たな東京府南豊島郡千駄ヶ谷村となった(現・渋谷区のうち)。
1889(明治22)年に千駄ヶ谷村から四谷区に再編入された7字は大部分が陸軍練兵場敷地で、1878(明治11)年時点の千駄ヶ谷一丁目、千駄ヶ谷大番町、千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町に相当する。1891(明治24)年3月18日、字霞岳・川向・甲賀町の区域をもって四谷霞岳町が成立、字西信濃町・火薬庫前の区域をもって四谷西信濃町が成立、字大番町・池尻は四谷大番町に編入された。これらは現行の霞ヶ丘町・霞岳町、信濃町(西部)、大京町(南部)にあたる。
なお、1878(明治11)年時点の千駄ヶ谷二・三丁目及び千駄ヶ谷仲町一・二丁目に該当する区域は千駄ヶ谷村のうちにとどまり、現行の渋谷区千駄ヶ谷一~六丁目、代々木一丁目等になっている。
撮影場所:千駄ヶ谷一丁目