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江戸町巡り

【南豊島】日陰町

2017.12.18 14:54

町名:日陰町

読み方:ひかげちょう Hikagechō

区分:俗称

起立:江戸期

廃止:1868(慶應4・明治元)年

冠称:なし

現町名:渋谷区千駄ヶ谷五丁目

概要:千駄ヶ谷仲町は広大であった。大体で表すと、JR千駄ヶ谷駅からJR代々木駅までが一丁目、そこから内藤新宿南町の天龍寺の手前辺りまでが二丁目。そのように書かれている地図が多い中、『東亰明細圖:新撰區分』(1876(明治9)年)のみが他では一丁目の範囲までに一・二丁目を収め、二丁目の範囲の一部を「ヒカケ丁」としている。「ヒカケ丁」というのは、『江戸切繪圖:俚俗:千駄ケ谷辺』においては「ヒカゲ甼」と書かれているところと一致する。JRの線路敷と新宿御苑に挟まれた、ほぼ中央を明治通りが貫いている辺りだ。『大江戸今昔めぐり』には「内藤新宿新屋敷」とある。

漢字表記ではないのでどういう意味かは不明だが、新橋の日蔭町と同様に陽当たりの悪い場所だったのではないか。そうなると町名の由来はそこからやや離れるが、南西に位置する日陰坂ではないかと推測される。『渋谷の坂』によると、日陰坂は「市中から甲州街道へつながる裏街道で、樹木が生い茂り薄暗い日陰の坂だった。江戸幕府の煙硝蔵(火薬庫)から煙硝を運ぶ荷車がこの坂を通って甲州街道へと往復していた」とのこと。住民が爆発を恐れたことで裏道を通らざるを得なかったという話もある。

幕末、幕府は軍事上の必要から三田村の新富士辺より一軒茶屋上、広尾水車道までの約4万坪の地域に、それまで千駄ヶ谷にあった煙硝蔵を移転させた。その後、千駄ヶ谷の住民が恐れていた事態が起きた。1863(文久3)年9月、三田村に移転した煙硝蔵が大爆発を起こしたのだ。「同時二十六日昼、四半時頃、荏原郡目黒在三田村、合薬(鉄炮に用ふる所の品なり)の製所に、過って火を発す。其響四、五里に聞えたり。即死・怪瑕の者七十余人といふ」(『武江年表』)。

場所は黒鍬町御切手町と続き地であることから、煙硝を運ぶ下級武士の宅地であったのではないかと推測される。ただし、当町及び黒鍬町御切手町は維新後において公式町名に昇格しておらず、どこも千駄ヶ谷仲町のうちとなった。したがって『東亰明細圖:新撰區分』は江戸期までの武家地俗称を記し、千駄ヶ谷仲町の範囲を誤認しているようである。

※新宿御苑・玉川上水も近いので「樋懸町」「樋掛町」も考慮に入れたが、日陰坂由来を採ってみた。

撮影場所:日陰町

撮影地:渋谷区千駄ヶ谷五丁目20番10号(ほぼ新宿のれん街)

与力町 御切手町