過ち」を繰り返さない
Facebook湊 万徳さん投稿記事
昭和史研究の第一人者の作家半藤一利さんの若い世代の人たちに向けたメッセージです。[コチコチの愛国者ほど国をダメにする者はいない。人は忘れる、人間は誰も歴史に学ばないというのが、最大の歴史の教訓である]
(記事全文はこちらです)↓
https://www.businessinsider.jp/post-172709 【【追悼・半藤一利さん】「コチコチの愛国者ほど国をダメにする者はいない」若い世代へのメッセージ 高橋浩祐】より
『日本のいちばん長い日』『ノモンハンの夏』などの著書で知られ、幕末・明治維新からの日本の近現代史に精通する半藤一利さんが亡くなった。現代に生きる私たちに、歴史から何を学ぶべきかというメッセージを伝え続けてくれた。
半藤さんに一貫していた思いは、15歳で終戦を迎えた戦争への疑問だ。
「なぜ日本は無謀な戦争に突き進んだのか」
Business Insider Japanでは2018年夏、過去の過ち繰り返さないために歴史から何を教訓とすべきなのかを、若い世代に向けて語ってもらった。半藤さんは、当時の国際状況が「満州事変に似ている」と警告していた。
それから2年余。世界は新型コロナウイルスという未曾有の危機に見舞われている。半藤さんは「大多数に行った方が楽だからこそ、1人で冷静に考えよう」と話してくれた。私たちは今改めて半藤さんの言葉に耳を傾け、歴史に学び、自分の頭で考えてみたい。
高橋:『歴史と戦争』(半藤さんの著書)が約9万5000部になったと聞きました。これほどまでに読者が広がっている理由をどう感じられていますか?
半藤一利(以下、半藤):私は64歳まで文藝春秋に勤めておりました。だから根は編集者です。私の編集者感覚からすると、このような過去の著作の内容を細切れに1冊にまとめて出しても、たぶん売れないと思っていました。しかし、いざ手にすると、第一に読みやすい。そして、引用箇所の前後の文章がないから、読者がこの短い文章を読んで自分でいろいろと考えることができる。こういう本も意味があるのだなぁ、と改めて見直しました。
高橋:本の中に「コチコチの愛国者ほど国を害する者はいない」という半藤さんの印象的な言葉があります。この言葉を私がTwitterやFacebookで紹介したところ、若者を中心に拡散されました。
半藤:冷静に自分で考えるためには良い本だと思います。
ちなみに、その言葉はもともと勝海舟の言葉です。引用箇所の前後を語りますと、勝海舟は「周りは全部、敵の方がいい」と考えていました。そうした方がわかりやすく、あれこれ考えたり目を配ったりする必要がない。自分の目的とする方向にまっすぐに進める。また、自分の経験からしても、頑迷な愛国者こそがかえって国を滅ぼすと思ってきました。
高橋:本には「忠義の士というものがあって、国をつぶすのだ」という勝海舟の言葉が紹介されていますね。
オヤジは国を愛していたからこそ、「悪口」を言っていたんだと思います
軍服を来て敬礼する男性
終戦記念日の靖国神社には、こうした年配の男性の姿が……。
半藤:それを私が言い換えたのです。
私が子どもの頃に経験した、周りにいるコチコチの愛国者ほど、とにかく始末に負えないものはなかった。私の周りにも、たくさんのコチコチの愛国者の大人たちがいた。軍人、在郷軍人、さらには隣のオヤジだって危なかった。私はのべつ殴られていました。
高橋:どうして殴られたのですか。
半藤:私の父が変なオヤジで「この戦争は負けるよ」とか「これで日本は四等国になるよ」と言うので、私もオヤジのマネをして「『この戦争は勝つ、勝つ』と言うけれども負けるよ」なんて言っていました。それを隣のオヤジに見つかって、「この非国民めっ!」とポカポカ殴られていました。
高橋:お父様は世界情報にたけ、国際的な視野をお持ちだったのでしょうか。
半藤:それほど立派なオヤジではなかったです。あんなに「日本は戦争に負ける」と言っていたオヤジも、戦争に負けた時はとたんにガクッとしてしまいました。オヤジは国を愛していたんですね。むしろ国を愛していたからこそ、戦争中にあのような「悪口」を言っていたんだと思います。
焼死体を見ても何も思いませんでした。私自身が非人間的になっていたのです
高橋:なるほど。1945年3月10日の東京大空襲の記憶は鮮明に残っていますか。
半藤:ハッキリと覚えています。3月ですから、4月から中学3年生になるという時でした。母親と弟、妹、弟の4人は昭和18年暮れから、母親の生まれ故郷の茨城県に疎開していたので、オヤジと私の2人で現在の墨田区に住んでいました。当時は向島区吾嬬(あづま)町と呼ばれていました。
空襲時は猛火と黒煙に追われ右往左往しながら必死にかなり遠くまで逃げました。よく逃げたと思います。空襲後、自分の家に帰る途中にたくさんの焼死体を見ました。そこら中に本当に人間とは思えない真っ黒なものがゴロゴロしていた。
でもそれを見ても、何とも思いませんでした。感覚が麻痺していました。それが今でも私の中に鮮明に残っていることです。
ヒューマニズムを持てとか、人道主義的であれとか、人間愛を大事にしろ、とよく言われるけれども、私自身がもうあの時には非人間的になっていた。子ども心にそう思いました。
よく「焼け跡に立って、何を思いましたか」と聞かれるのですが、思ったのはただ一つのことだけです。「絶対」という言葉は死ぬまで使わないぞ、と。ですので、今も私は本の中でも、喋る時でも、「絶対」という言葉を使いません。人が使っている「絶対」は引用しますが、「絶対、これが正しい」といったようなことは自分では言いません。
基本的に人間は信用できないんだと思いました。特に大声で叫んでいるヤツは
高橋:人を信じたり、政府を信じたりすることもなくなったのでしょうか。
半藤:国家を信じるということはもうなくなりました。終戦後は、「何だ、人間ってこんなにインチキなんだ」とも思いました。戦争中に私をぶん殴ったような愛国者が、みんなたちまち敗戦後は「民主主義者」になっていた。学校の先生を含めて、みんな大人たちですよ。基本的に本当に人間というのは信用できないんだな、と思いましたね。特に大声で叫んでいるヤツは。
安倍晋三首相
半藤さんは「メディアも含めて、日本は世界情勢に無知である」と話す。
高橋:戦争責任は国民全体にあったのか、それとも、A級戦犯とされたような戦争指導者にあったのか。半藤さんはどう思われますか。
半藤:戦争責任と一口に言っても、何をもって「責任」とするのか。戦争に負けたことの責任と言えば、それは当時の指導者にあったと思います。ただ、戦争を始めたことの責任について言えば、指導者だけではないと思います。
負けたことの責任は、太平洋戦争の4年半を丁寧に調べるほど、やはり指導者は全く無能無責任でした。
戦争を起こすまでの過程における戦争責任は、細かく分けた方がいい。昭和6年(1931)の満州事変から昭和13年(1938年)の国家総動員法を通過させるまでは指導者には責任があります。
高橋:陸軍幹部ですか。
半藤:いや陸軍も海軍もです。国家総動員法ができてから(太平洋)戦争を起こすまでの重大な責任は軍部にあります。これは間違いない。
さらに政治家にも責任があるのが、(日独伊)三国同盟を結んだこと。その誤った判断の上に南部仏印に進駐するというバカな判断を重ねていった。この辺りは政治指導者にも責任がある。
その後、アメリカから石油の全面禁輸という痛棒をくらい、もう戦争だ、戦争だと勢いがつき、平和を求めるなんて気持ちがなくなったことから言うと、国民にも随分責任はありますね。
ジャーナリズムが健全だったのは満州事変まで。情報が欲しいから媚を売った
高橋:本の中で「ジャーナリズムが煽ることでたしかに世論が形成される。その世論が想定外といえるほど大きな勢いをもってくると、こんどはジャーナリズムそのものが世論によって引き回されるようになる」と述べられていますね。
半藤:そうです。ジャーナリズムに煽られて加速した国民世論の勢いに押されて、ジャーナリズムがさらに加速してしまう。戦争を煽る奴がいるじゃないですか。今でもたくさんいますよね。
高橋:はい、中国や北朝鮮相手に戦争になっても構わないと、軽々しく言う人がいますね。
半藤:当時もいましたよ。「アメリカ、怖るに足らず」とか言ったりしてね。「アメリカは女が強い国だから、戦争をしたってすぐに止めたがるよ。女がすぐに止めろ、止めろと言うから」なんて変なことを言う奴もたくさんいました。そういう人たちの言葉に煽られて、どんどん勢いが付いちゃうと、その人たちがかえって世論に煽られてますますハッスルする。
ジャーナリズムが健全だったのは満州事変までですね。満州事変が起きた第一報は日本放送協会なんですよ。今のNHKですね。
過熱する報道
ジャーナリズムに煽られた国民がかえってジャーナリズムを暴走させる(写真はイメージです)。
当時はテレビがないので、ラジオの方が新聞より速いんです。出征している兵隊さんがどこでどう戦っているのか、故郷の人はみんな知りたい。それを新聞はラジオよりも早く報じたいと思えば、情報がものすごく欲しい。情報は全部軍部が握っているわけです。軍部に媚を売らなければ情報はもらえない。それですっかり軍部の宣伝機関のようになっていく。
高橋:今と似ていますね。政権から情報をもらいたい余りに媚を売っている記者もいる。
半藤:今とあんまり変わらないんです。新聞も、自分たちが戦争を煽っているつもりはなかったと思いますね。新聞社同士の競争もありますから。
ただ、よく各新聞社の社史には「軍部と内務省の圧力で言論を封じられたので、新聞もそうならざるを得なかった」と書いてありますが、それは嘘ですね。みんな自分たちで煽っていますから。競争で読者の要望に応じ、読者の関心を引くためにそうせざるを得なかったわけです。
高橋:それで新聞は当時、発行部数をどんどん伸ばしましたね。
メディアが頼りなくなっている。特に世界情勢に関して無知です
半藤:戦争は一番良い商売になるというのは、新聞社の密かな鉄則なんです。日露戦争の時からそうです。
満州事変が起きてから、大阪の朝日新聞だけが頑強に軍部批判をしていました。高原操(みさお)という編集局長が戦争を煽ったりなどせず、軍部批判をずっとしたのですが、不買運動が起きました。
当時は奈良県などでは一紙も売れなくなったと聞きました。朝日も満州事変翌年の1月か2月まで頑張っていたけれども、高原氏が全部長を集めて、「やむを得ない。今までの編集方針を変える」と涙の演説をうちました。
昭和8年に日本は国際連盟から脱退します。その時は斎藤実内閣です。のちに二・二六事件で殺された人です。どちらかと言うと、穏健内閣ですから国際連盟を脱退しないという方針に踏みとどまっていました。脱退派が閣僚に山ほどいて、大論議が起きていたにも関わらずです。
その時に、政府の尻を叩いて、早く脱退しろと唱えたのは新聞社です。全国の新聞社130社余りが合同で声明を発し、「日本はもう独自の道を歩いた方がいい」「何も米英のあごに使われる必要はない」と言って、脱退を促しました。国民もこれに喝采しました。このように新聞は煽ったんです。
高橋:半藤さんの目から見て、今のメディアの本質はどう思われますか。ジャーナリズムの社会的な使命という点ではどのようにごらんになっていますか。
半藤:頼りなく危なくなっていると感じます。特に世界情勢に関して日本の新聞は無知ですね。当時も無知でした。スターリンとかヒトラーという人物について、ほとんど理解していなかった。政治家も軍人も新聞人もそうでした。今もそんなに理解していないのではないかと思います。
高橋:それはなぜでしょうか。今はネットでも情報が入ります。やはり言語の壁があったり、島国ということがあったりするのでしょうか。
半藤:関心がないのではないですか。日本にも昔は外務省にも陸軍省にもソ連通とか中国通とか、そういう人が山ほどいました。ところがあの人たちは何もわかっていなかったことが後でよくわかりました。文献を机の上に積んでいるだけで、わかった気になっていた。今も本当にわかっているでしょうか。
高橋:国際情報を必死に取ろうとせず、「アメリカ、怖るに足らず。日本は大丈夫なはずだ」とか「日本人は優秀な国民だから負けるはずがない」といったような考え方は、いったいどこからきているのでしょうか。
半藤:何なのでしょう。戦争中は「日本人は世界に冠たる民族だ」と言われ、そう信じていた人はたくさんいたと思います。軍人も官僚も政治家も民衆も、「日本は独自の歴史を築いてきた国であって、何と言ってもアジア随一の一等国である。神国なのである」という自信があったんじゃないですか。今はどうなのでしょうかね。似たようなところが最近は強いですね。
大多数の方に行くのは楽です。だからこそ冷静になって考えてみることです
高橋:今もネットではネトウヨが跋扈しています。コチコチの愛国者の問題は日本だけではなく、ドイツでもネオナチの問題など各国で見られますね。
半藤:そういう意味では、日本人だけを責める必要がないくらいに、各国で問題になっています。
昭和4年にウォール街の大暴落がありました。あの時まではアメリカはそれまでの世界のリーダーとしての役割、例えば国際連盟を作ったり、パリ不戦条約を作ったりして世界のトップを走っていた。
このウォール街の暴落をきっかけに、フーバー米大統領はアメリカオンリー、アメリカファーストに舵を切ったんです。ヨーロッパも自国ファーストになり、追随した。どの国も自国本位になった。同じことが今、現象として起きています。歴史は繰り返すのかと言いたくなりますね。
高橋:本の中で「天災は忘れたころにやってくる」との言葉がありました。やはり3世代を越えると、みんな忘れてしまうのでしょうか。
半藤:人は忘れる。そこで「人間は誰も歴史に学ばないというのが、最大の歴史の教訓である」という言葉が生まれたと思います。
就活生
マジョリティーに追随するのは楽だが冷静になって考える必要があると半藤氏(写真はイメージです)。
今は、昭和4年後の満州事変前の時代によく似ているなと思わないでもないです。世界政治全体を見て、流れがよく似ているなと思います。あの時はヒトラーとかスターリンという人物が出てきた。スターリンが天下を取ったのは大正15年の昭和元年です。ヒトラーが昭和8年。今は北朝鮮の金正恩が出てきた。習近平も何を考えているのかわからない。もちろんトランプという訳のわからない大統領が出てきた。万事にお先真っ暗です。
高橋:そのような混迷の時代に若い世代はどのように対峙していけば良いのでしょうか。
半藤:その質問は最近、非常によく聞かれます。
人はともすれば「戦争だ、戦争だ」と煽る方に行きやすい。大多数の方にいた方が楽です。1人とどまって自分で考えるのはものすごく辛いことです。それは難しいことでもあります。大多数の側に行った方が楽に暮らせる。人間は楽な方にいく。
ですので、なおさらちょっととどまって、冷静になって考えてみることが必要だと思います。そのために、歴史に学ぶことがいっそう大事だと思います。
小説を読むようには面白くないかもしれないが、歴史は流れをきちんとたどると本当は面白いんです。ヒストリーはストーリーでもあるのですよ。
(聞き手・構成、高橋浩祐)
https://www.businessinsider.jp/post-240385#cxrecs_s 【満州事変の2カ月後に死去した渋沢栄一。「日本経済の父」がラジオで語った平和への願い【戦後76年】】よりr
晩年は民間外交に尽くした渋沢栄一。鹿島茂著『渋沢栄一(論語篇)』の表紙には、日米友好を願った「青い目の人形」を抱く渋沢の姿が。知られざる「世界平和」への願いとは。
「日本資本主義の父」「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一(1840〜1931)だが、その活動は一人の実業家の枠には留まらなかった。
貧困者や孤児、老人などを救済する東京養育院の運営などの社会福祉事業に奔走し、晩年は民間外交にも尽力。日本が国際的孤立を招きつつある時代、アメリカや中国との親善にも力を注いだ。
晩年には世界平和への理想をラジオで国民に語りかけた。それでも、渋沢の願いは届かなかった。
1931年9月、日本の関東軍は満州事変を引き起こし、中国東北部を占領。その2カ月後、渋沢はこの世を去っている。
歴史が教えてくれるように、渋沢の死と前後して日本が歩み始めたのは「1945年8月15日」へと至る道だ。
渋沢は民間外交でどんな動きを見せたのか。そして、どんな言葉を紡いだのか。
その足跡を知るために國學院大學の杉山里枝教授(日本経済史)を訪ねた。(聞き手:吉川慧)
——生前の渋沢栄一は、中国を軸とした日米関係を重視していました。
渋沢は辛亥革命で中華民国の「建国の父」となった孫文、さらには袁世凱、孫文の後継者となった蔣介石とも親交がありました。
アメリカ側とも関係を結び、1879年にはグラント前大統領を歓待しています。
渋沢も日露戦争前から大正期にかけて4回アメリカを訪れています。最初は1902年、日本の国際化を目指す中での欧米視察でした。
1906年にサンフランシスコで大地震が起こった時には、渋沢が頭取をつとめる第一銀行は当時の価格で1万円という大金を義捐金として供出し、その他にも多額の義捐金を集めてアメリカに送りました。
さらに1909年、渋沢は外務省の協力を得て、約50名からなる渡米実業団の団長としてアメリカを訪れています。
ただ、アメリカ国内では19世紀末から黄禍論があり、日本人移民の排斥運動の空気も次第に生まれていった。訪米した渋沢も、これを感じ取ってはいたようですね。
——そうした中、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を口実に連合国として参戦。中国での利権拡大を狙って「二十一カ条要求」を中国側に要求しました。英・米は大戦中で大きく介入できませんでしたが、日本への警戒心が高まった事件でした。
(編注)「対華二十一カ条要求」:1915年、第2次大隈重信内閣が中国における利権拡大を狙い、中国の袁世凱政府に要求したもの。山東省の旧ドイツ権益の継承、南満州・内モンゴルの権益延長など華北地域の日本への事実上の隷属という内容だった。以降、中国内では対日感情が悪化。1919年、パリ講和会議で二十一箇条廃棄の要求が拒否され、大規模な民族運動「五・四運動」が起こった。
移民や満州をめぐる問題などで日米関係は悪化していきましたが、1916年に渋沢らは「日米関係委員会」を組織。移民問題の改善に取り組みました。
ところが1920年にはカルフォルニア州で日本人の土地所有の禁止を決めた排日土地法が成立し、日米関係は悪化へと向かいます。
それでも渋沢は、なおも努力を続けます。第一次世界大戦後、軍縮を協議した1921年のワシントン会議には民間の立場で視察。オブザーバーとして参加します。
この時すでに80歳だった渋沢ですが、太平洋地域の安定のためにも、日本を警戒するアメリカが主導した軍縮に賛同。ハーディング大統領に面会し、ニューヨークでは財界人と交流しつつ、日米親善を目指しました。
さらに1923年の関東大震災では、自身のネットワークを通じてアメリカからの復興支援も取り付けます。日米の実業界の関係は決して悪いものではなかった。
そうした中で1924年、アメリカで「排日移民法」が成立してしまうんですね。
——この「排日移民法」は、低賃金の日本人の移民がアメリカ人の雇用を妨げるとして、日本からの移民を全面禁止する内容を含んだものでした。渋沢にとって大きなショックだったようですね。それでもあきらめず、冷静に未来への望みを説いていましたが…。
まずアメリカ人の中には、善い者もあり悪い者もあるということを理解せねばならぬと思います。
アメリカの日本移民に対する関係が、私の知っている限り今の有様であって、こう申すと脈が切れたようにお感じなさるか知れませぬが、いまだそうではございませぬから、たとえ万一にこれが思うように行きませぬでも、また未来に望みないと申せぬであろうと思います。
なるべく短気を起されぬようにお願いをしとうございます。
(「米国における排日問題の沿革」1924年5月20日東京銀行倶楽部晩餐会演説)
意外かもしれませんが、渋沢としては移民には肯定的な立場だったんですね。それこそ、渋沢の頭の中にはグローバルな地球儀がいつもあったと思います。
そうなると、人が移民し、適材適所でやっていくということは必然。それでゆくゆくは日本も世界も豊かになると考えていたことでしょう。
しかし排日移民法は、こうした渋沢の考えとは相容れません。東京養育院で社会的な弱者を救済する活動をする渋沢にとって、アジア人、日本人だからという理由で排斥されることは、望ましいことではなかったはずです。
日米友情の証となるはずだった「青い目の人形」
横浜市本町小学校が所蔵する「青い目の人形」のブロッソン(左、中)とアマンダ(右)
出典:横浜市教育委員会
——渋沢自身は、第一次世界大戦での二十一カ条要求やシベリア出兵に反対論を唱えていました。ただ、中国をめぐり日米関係は悪化していった。
特に、大戦期の日本は好景気にのって輸出を強化していきましたが、そのことでも他の列強からバッシングを招くようになりました。
また、日本が対外膨張に傾倒していき、警戒される存在になっていった時期とも重なっていますね。
だからこそ、アメリカとの関係は民間外交によってなんとか改善したいという思いがベースにあったようです。ただ、それも次第に実現が難しくなっていきます。
——それでも、渋沢は日米関係を良好に保ちたいと様々な取り組みをしています。そのうちの一つが「青い目の人形」による人形外交でした。
きっかけは、アメリカで排日運動が深刻になっていた1926年に知日派の宣教師シドニー・ルイス・ギューリック博士から寄せられたある申し出でした。
アメリカの子どもたちから、日本の子どもたちへ、友情の象徴として人形を贈り、両国の親善を図りたい、と。渋沢はギューリックの求めにすぐに応じ、翌年の1927年に日本国際児童親善会を設立し会長になります。
——アメリカから約1万2000体の「友情人形」が贈られ、日本からも「答礼人形」として58体の市松人形を贈りました。ただ、友情人形は太平洋戦争下でその多くが失われた。およそ300体が現存しているそうですね。
こうした国際親善が評価されたことから、1926年と1927年には渋沢は日本の政府関係者からの推薦などを受け、ノーベル平和賞の候補にもなりました。アメリカからも推薦状が届いたとか。ただ、受賞には至りませんでしたが……。
渋沢の「戦争」への姿勢は——
(左)1931年9月、中国で発生した水害への支援を呼びかける渋沢の様子。(右)中国側が支援に謝意を表しつつ、満州事変で「折角の頂戴物も咽喉を通らぬ」と拒否したことを伝える新聞。
(左)東京朝日新聞1931年9月7日(右)東京朝日新聞1931年9月24日
——渋沢の発言をたどると、明治期の台湾出兵のころから戦争には反対の立場でした。第一次世界大戦中にも軍備拡張による対外膨張を戒めています。
「生産殖利によって武力を拡張し、これによって他国を併呑するのは、これ国際道徳を無視した野蛮の行為である」
(1918年3月「竜門雑誌 第三五八号」)
渋沢の平和への考えは、戦争が国の財政を圧迫し、市民の暮らしを苦しめることになるという経済的な側面からの意見でもありました。
ただ、渋沢が関わっていた第一国立銀行は、1876年の日朝修好条規の締結の頃から、朝鮮への侵出に関心をもっていました。
これは渋沢自身が植民地支配を志向したというより、新たなビジネスの地として見ていた向きがあります。
(編注)日清・日露戦争後の1910年、韓国併合により朝鮮半島は植民地となった。島田昌和(経営史)は、第一国立銀行の朝鮮侵出を「日本の朝鮮半島への経済進出の大きな足がかりとなり、植民地化を導くものであった」(『渋沢栄一 社会起業家の先駆者』)と指摘している。2019年4月、渋沢が新紙幣のデザインに採用されると、韓国では「日本の新紙幣の人物は経済侵奪の張本人」(ハンギョレ新聞、2019年4月10 日・朝日新聞より)などと批判的に報じられた。
——一方で渋沢は、第一次世界大戦後、その反省から国際連盟の精神を達成する目的で各国につくられた「国際聯盟協会」の会長になりました。
1926年11月11日には、第一次世界大戦の休戦から8年の記念日にラジオで世界平和を訴えています。その中でも渋沢は自らが大切にしてきた儒学の教えを引いて、道徳心からの平和を説いています。
渋沢の肉声は、東京都北区飛鳥山の渋沢史料館でその一部を聴くことが出来ます。以降1929年まで、最晩年の渋沢にとっての毎年の恒例行事となりました。
国際間の経済の協調が、連盟の精神をもって行はるるならば、決して一国の利益のみを主張することはできない。他国の利害を顧みないということは、正しい道徳ではない。
いわゆる共存共栄でなくては、国際的に国をなしていくことはできないのであります。
経済の平和が行われて、始めて各国民がその生に安んずることができる。
而(しこう)してこの経済の平和は、民心の平和に基(もとい)を置かねばならぬことは、申すまでもありません。
他に対する思いやりがあって、即ち自己に忠恕(ちゅうじょ)の心が充実してはじめてよく経済協調を遂げ得るのであります。
中庸に「誠者天之道也誠之者人之道也」という警句があります。いかにも天は昭々として公平無私で、四季寒暑みなその時を違えず、常に誠を尽して万物を生育しておりますが、人間はこれに反して互いにに相欺き相争い、この天の誠を人の道とすることを忘却しているのは、実に苦々しい限りであります。
どうぞ前に申した通り、一人一国の利益のみを主張せず、政治経済を道徳と一致せしめて、真正なる世界の平和を招来せんことを、諸君と共に努めたいのであります。
(1928年11月11日「御大礼に際して迎ふる休戦記念日に就て」)
(編注)「中庸」:儒教の経典「四書五経」のうち「四書」の一つ。
——こうした渋沢の訴えは実らず、1931年9月には満州事変が勃発。日中の対立は決定的となり、中国との十五年戦争へと突入します。
この年に中国で大洪水が発生すると、渋沢は義援金を集めました。ただ、中国側は満州事変を受けて、やむを得ず支援を断っています。
(左)渋沢の訃報を伝える新聞記事。(右)死の数日前、渋沢のために大勢の見舞客が訪れたことを紹介する記事。
(左)渋沢の訃報を伝える新聞記事。(右)死の数日前、渋沢のために大勢の見舞客が訪れたことを紹介する記事。
(左)1931年11月11日東京朝日新聞、(右)1931年11月2日読売新聞
——満州事変の2カ月後、渋沢は91歳でこの世を去りました。この後、日本は渋沢が思い描いた方向とは真逆に進んでいきます。
渋沢の没後、日本は戦時体制へと移り、国際社会からはますます孤立していきます。やがては太平洋戦争へと突入しました。
戦時下で財閥系の企業の影響力が拡大する中、渋沢の存在も戦争を通じて薄れていった面もあると思います。渋沢の『論語と算盤』のうち、「論語」である道徳も薄れていった。戦後も一般的な知名度は必ずしも高いとは言えない状態が続きましたから。
当の渋沢本人は、死の床に際して「100歳まで生きて奉公したい」と語っていました。
私は帝国民としてまた東京市民として、誠意ご奉公をして参りました、そしてなお百歳までも奉公したいと思いますが、この度の病気では最早再起は困難かと思われます。
しかしこれは病気が悪いので私が悪いのではありません。たとえ私は他界しても、皆さんの御事業と御健康とをお祈りし守護致します。どうか亡き後とも他人行儀にして下さいますな。
(1931年11月8日、「竜門雑誌 第五一八号 病状(二)」)
渋沢の葬儀の日のこと。棺を乗せた車が走った沿道は数万の人で埋め尽くされたそうです。渋沢を慕う人が、少なからずいたことを伝えるエピソードですね。
仮に100歳まで健在だったのなら、日米開戦前夜の1940年まで生存していたことになります。もしかしたら、また日本が歩んだ道は違ったかもしれない……と、つい想像してしまう。そんな不思議な魅力が、渋沢にはあったのかもしれません。
編集後記(後編):近代アジアの激動期と重なる渋沢栄一の生涯
渋沢の人生は、近代アジアの激動期と奇しくも重なる。生まれ年の1840年は中国最後の王朝・清朝がイギリスと戦って敗れた「アヘン戦争」勃発の年。亡くなった1931年には、日本の中国侵略の契機となった「満州事変」が勃発した。
列強と渡り合うため日本の富国強兵が進められた時代。先見性に優れた経済界の大御所も帝国主義・植民地主義を止めることはできなかった。こうした点を渋沢の「限界」と指摘する意見もある。
渋沢の没後、日本は大きな岐路に立った。1932年には満州国の成立、五・一五事件。33年には国際連盟を脱退。次第に国際的な孤立を深め、軍国色が強まっていく。
世界に目を向けると、1933年にドイツでナチスが政権を獲得し、アドルフ・ヒトラーが首相に就任。一方、アメリカではフランクリン=ルーズベルトが大統領に。渋沢の死から6年後の1937年、盧溝橋事件を発端に日中戦争へと突入した。
世界は刻一刻と第二次世界大戦へと近づき、渋沢が心血を注いだ経済界を中心とした民間外交は頓挫。重要視していた日本と米・中の関係はもはや修復不可能に。そうして行き着いた先が、76年前の8月15日だった。
渋沢が生きた時代をいま一度ふりかえることは、「過ち」を繰り返さないためにも大切な試みだ。
大河ドラマなどで渋沢に注目が集まる2021年。彼が晩年にラジオで人々に語りかけた平和への言葉は、今の世界にどう響くだろうか。(文・吉川慧)