取り戻しましょう 大和の心を
FacebookToshihiko Wakabayashiさん投稿記事 戦後GHQが改悪した漢字シリーズ④
今回はバカ 元々あった漢字は莫迦 これは仏教用語である無知 梵語のmoha の当て字です
漢字の意味を見ると莫は茂っている 見えない 迦は出会いを意味しインスピレーションが来ない知恵が湧かないなどともとれます
人の知恵とは考えるだけでなく宇宙や天からのメッセージもあり、隔離した状況では真の
知恵は湧きません
そういう意味でも愚かという莫迦となるのでしょう大変奥の深い意味を持ちます
しっかりとした語源を持ち納得できる意味合いがあるそこに言靈が流れます
では現在はバカを漢字で表記すると馬鹿となります馬や鹿が愚かですか?
自然界における生物、草木、石愚かなものがあるでしょうか?
馬は愚かでしょうか? しかは愚かでしょうか?
人間は自然環境を壊し 核戦争をおかし 放射性物質を垂れ流し 自己が便利であるために
他の生命体に迷惑をかけています
その人間が馬や鹿などの動物を愚かと言えるでしょうか?
はい 動物虐待 生命蔑視ですね つまり驕り高ぶっているわけです
馬鹿 馬鹿は当て字と言われます 中国の故事から来ている説もありますが 中国では馬鹿はバロクと読み中国では馬鹿とは用いられていないためその説は違うと思われます
馬や鹿を当て字とは言え用いるのは愚かという言葉としておかしいですよね
実に愚かな言葉ですよね 言葉には言靈が宿りますでは馬鹿にはどんな言霊が
流れますか?
自然との乖離です 批判する者は批判の返しが きます それは自らの魂を貶める行為
こんなバカげた仕掛けをされました
大和を潰すために失った日本の心を取り戻しましょう
バカを漢字にする際莫迦とかもしくはカタカナでバカでいいでしょう
そんな呪いが隠されていました 何故に それは大和の民族が怖いから 芽を摘むため
そう思われます 大和の心を取り戻しましょう
風の時代と言われます目に見えないもの 心が大事な時代に入っています この精神性は大和の心が素晴らしいです
これからの時代大和の民に多くの期待が寄せられています さあ取り戻しましょう
大和の心を
https://ncode.syosetu.com/n0118cc/ 【極私的俳句論、super private haiku poem theory その4 俳句の奥義、】より
では、俳句の奥義とは何だろうか?それは実はきわめて日本的なものである。
わかりきったことであるが俳句でローマ風景やパリ風景をを詠ってもそれでは俳句にならない。そんなものは俳句ではありえないからだ。その意味では俳句は実に土俗的なものでもある。
日本の風景に根差した四季・自然・風俗・人情、遊行というきわめて限定的なポエム?ということになる。そこからはみ出したら単なる1行詩でしかなくなる。
自由律無季俳句ならローマ風景も歌えるがはたしてそんなものが俳句と言えるかどうか?
俳句とは、いやもっと広義の短歌やらも含めた日本の歌ごごころとは何だろうか?
歌ごごころ?それは日本人の原風景であり、万葉集の昔まで坂のぼれるようなヤマトの詩魂に根差すものなのであろうか。
こんな歌がある「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」この歌の意味を西洋人に伝えるのは至難だろう。
だが日本人なら、たとえ歌心の無い庶民でもなんとなくその意味は分かるはずだ。
また西行に有名なこの歌がある。
『願わくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」この歌も西洋人には解説が難しいだろう。
春に桜の下で死にたい、、、、、、、。西洋人は、はあ?って思うだけだろう。
だがこの歌は24歳で北面の武者を辞して出家して妻子も捨て、まさに遊行僧といえばかっこいいが乞食坊主?として風雅と歌道を求めて各地を遍歴して歌に身を任せた西行の最後の望みだと知ればその極みが理解できるだろうか。
俳句にしても短歌にしても、それは大和の詩魂が基底であり、俳人や歌人である前にまず大和歌の詩人でなければ始まらないのである。
とはいえ日本人なら誰だって生まれながらにその萌芽は持っているのだから
1億総俳人、1億総歌人でもありえるわけだが、、、。
逆説めくがだから親子代々俳句の宗家?みたいに〇〇派だとか言って継承できるのもそうした基盤が誰にでもあるからなのだということだろう。
普通なら偉大な芸術なんてその人限りだが俳句は民族の伝統的な精神基盤からの民謡?みたいな面もあるから一子相伝?できうるのである。
だからまたなかなか独り立ちした芸術としての俳句というのも成立しにくいのもそうしたことが元凶なのである。
季語を入れて、四季の風物でも適当に入れて。575に整えれば誰だって日本人ならば簡単にできちまうからである。
だが歌の道俳句の道の奥義は実は根深い。確かに作るのは簡単で誰にもできる。
しかしそれを極めるとなったら大和の歌心に触れて自分の詩魂を鍛え、修行し、その果てに見えてくるだろう 自由闊達な遊行三昧の世界まで行かなければならないからだ。
深刻な境涯俳句や社会派俳句がダメなのはまだこの遊行三昧にまで昇華しきれてない生煮え俳句モドキだからなのである。
その意味では前衛俳句も理論に勝ちすぎて遊行精神が全くないという大欠点がある。
つまり前衛俳句は、俳句ではなくて1行詩でしかないのである。
むしろ自由律俳句のほうがまだ救いがある。「咳をしてもひとり」『分け入っても分け入っても青い山」これならば遊行精神に近づいているからだ。
いわゆる現代俳句、若い人の俳句は(短歌もそうだが)トレンドな現在の生活風景を独自のアングルで切り取って軽妙に歌ったものがほとんどだがこれでは遊行精神から見ればまるで邪道でしかない。
別に俵万智に恨みもないが誰それが言ったから今日はサラダ記念日、、、、、
これでは大和の歌心の対極にある駄作でしかありえまい。
明治時代にその当時の最新流行を描いて爆発的にヒットした「魔風恋風」みたいなものだ。
今誰がこんな小説読みますか?
時代に迎合すれば時代が過ぎれば徹底的に忘却される運命が待っているばかりです。
なぜ時代に迎合してはいけないのか?なぜならそこには基盤が欠けているからです。
たとえば俳句でいえばその心は花を見れば花になり花になりきって遊ぶことです。
遊ぶといっても、それは遊行するということであって苦悩の末の軽みであり、滑稽味です。
単なる軽みでは川柳です。軽みの奥に秘められた羽化登仙というか遷化というか
そういう遊行三昧が無ければいけないのです。
ここにきて初めて俳句の極みに達したと言えるでしょう。