戦争が廊下の奧に立っていた
Facebook兼井 浩さん投稿記事 ■戦争が廊下の奧に立っていた
1939(昭和14)年、京都大学俳句会で活躍していた、渡辺白泉という学徒が詠んだものです。
1939年の日本は、第二次世界大戦に参加する2年前でした。
1938年にヨーロッパで世界大戦が始まりますが、まだ日本は対岸の火事であった時です。
白泉はとくに政治に関与していたわけではありません。
もちろん、左翼でもありませんでした。
戦争を嫌い、平和と文学を愛するごくふつうの大学生だったのです。
ところが、特高警察はこの俳句にまで目をつけ、「反戦思想の持ち主だ」
と言って、渡辺白泉に治安維持法違反の嫌疑をかけ、投獄しました。
仲間も俳句を作れないほどの言論弾圧を受けました。いまに伝わる「京大俳句事件」です。
たった一句の俳句にまで弾圧が及んだ暗黒の時代。
そのおぞましい暴力は、まだ大丈夫だろう、と思っている矢先に、突然に襲ってきたのです。
国民の目と耳と口をふさぎ、自分たちの思うがままに独裁的な政治をしようという勢力が
居丈高に振る舞っているいま、すでに不気味な圧力はあなたの背後にしのび寄っているかもしれないのです。
戦争が廊下の奧に立っていた
戦前、京大生・渡辺白泉がこの俳句を詠んだときには、もう戦争は廊下の奧どころか、茶の間に軍靴で侵入していたのです。
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【戦争が廊下の奥に立つてゐた】は、白泉が感じた大規模戦争への前触れを率直に表現した句です。
当時の日本で、大規模戦争に突入すると予想した人が何人くらいいたでしょうか?
世界中を巻き込んだ戦争になると考えた人は少なかったと言われています。そういった状況を考えると、大戦が始まると考えた人は決して多くはないことが考えられます。
その中で、白泉は遠くない将来に大規模戦争が起こると考えました。
少しずつ戦争の色が濃くなる様子を白泉は「立つてゐた」と詠み、気がつくと待ち構えていたような表現をしました。
待ち構えている様子が恐怖を感じさせます。
また、廊下の奥と表現することで、一本道で逃げられず、段々と暗くなり戦争へと突入する様子を描いています。暗い様子はぼんやりであっても戦争の姿形が分かるやりきれない気持ちも感じ取れます。
また、気づかないうちに大規模戦争になるという警戒感と回避できない無力感が伝わってきます。
この句は戦争を直接知らなくても恐怖感がひしひしと伝わってくる句となっています。
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“よくよく考えれば、「平和」の反対語は「戦争」じゃなくて「ペテン」だとわかります。ぼくらがペテンにひっかかるところから、もう戦争は始まっています"
--アーサー・ビナード(詩人)帯文より
歴史をひも解くと、ナチスドイツによるユダヤ人弾圧に当時のアメリカや世界は無関心だった !
“無関心”でいることは“共犯者”との指摘も。