Stand Alone,Stand Together
ひとりで立ち、一緒に立つことが私たちの仕事だと考えている。
悔しい思いは幾度もしたし、泣いたことも泣き寝入りも一度や二度ではない。私の姿はいつも痛そうに見えたと同情してくれた恋人たちが私をアートの世界に引き摺り込んだ。
「君がプライベートでやっていることを世の中に知らしめたい」
知らしめたかったのだそうだ。それはある種の自慢であり、ある種の宣戦布告だったように思う。
私は自分のアートを信じきれない。いまだに。不安定な仕事を仕事と呼ぶことさえできないお堅い性格だからだ。恋人たちが褒めてくれるたびに新しい作品を作り、創作が仕事へと昇華していく。
知らしめた事になるの?と聞くことが最近なくなっている。
ひとりで立つことができるようになったから、彼らの手を離れて私はひとりのアーティストとして自信を持てるようになってきた。
彼らは私のペースを最優先する。書くためなら恋人たちと呼ばれることも厭わない。
不幸にもそれぞれがそれぞれの場面で私と出会った。誰の紹介でもなかった。誰の元カノでもなかったから、彼らは私を同時に「世に知らしめたい」と思っていた。
地元で、キリストのもとで、そしてテクノロジーを介して。
どこで出会っても私を見て、人生を決めてしまったと言う。
他方、私はといえば同じようなものだった。ぼんやりと憧れていたことが彼らといるだけで形になっていく、現実に現実の材質のみを使って形成されていくような気がしている。
アートを仕事に昇華するためにはプライドが必要だった。不確かなものを自信だけで固めていく。精神力は削れる神経を補修しながらの歩みとなっている。ひとりの恋人では持ち堪えられない。ひとりの感性では脆弱な概念を固めることができない。
道半ば、ひとりで歩むその只中に共に立つ恋人たちが削がれる神経を適宜補修する手伝いをしてくれる。誉めそやされることにさえも神経を尖らせている。
アートを仕事にするというのは実に精神的な消耗が激しい。
私には自信がないし、私には絶対的な概念もない。倒れそうな日々を強がって生きることでしか、仕事を仕事として認知できない。
彼らは仕事の先人として私を文句なく全肯定してくれる。
「それでいい」「素晴らしい」「完璧だ」と。
多くの女性は私を羨ましがるだろう。僻み、仄暗く私を潰そうと試みるかもしれない。
強気に言えば、
「彼らはあなたのことは世に知らしめたいとは思わなかったの。そこが大きな違いよ」と啖呵を切るだろう。
喧嘩腰にならなければ、まだ柔らかな新芽の職業概念はたちまち萎れてしまう。
彼らは恋人たちであり、私は彼らの恋人である。だから何?と言い切ることもまた職業概念を強く育てるための方法だから、もう迷うことさえも馬鹿げているのだと思う。
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