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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

フレデリック・ショパン、産業革命の過渡期、ショパンの夢は何処へゆく…、三代目は物理学者になったブレゲ、時計職人は電信技術の開発者となりエッフェル塔に名を刻む

2022.05.06 10:02

ブレゲとショパン🎶イメージ🎶

ショパンはとうとう夏の居場所を失い、8月に入ってもまだシャイヨに居た。

親しい人々はショパンをパリに残して避暑へ、ひとりふたりと行ってしまう。

グシマーワもまだショパンに会いに来ない…仕方なくグシマーワにまた書簡を書くショパンだった…

「私はあなたに一時間だけでも会いたくてたまらないのだ、貴君には想像できぬであろうが。彼ら[政府]が追放したのは、200人ではなく、数人のポーランド人です。

ですから、私は貴君にあなたの隠れ家から出て来るように頼むことはできません。

ポーランド民主主義協会のメンバー(私も知らなかった)、貴君が慎重に考えるなら、それは巧妙な取り引きです。」

パリから追放されたポーランド人は200人と政府は発表したが

実は数人なのだ、と、ショパンはグシマーワに伝えた。しかし、用心深いグシマーワはパリに出て来てショパンに面会になかなか来なかった。そして、

スターリング姉妹のことで振り回されていたショパンは再び、霊媒師の事件をグシマーワに話さなければならなかった。

「私の並外れた冒険に関してはたくさんあります。

私がスピリチュアリズム(霊媒術)の、半分は嘘であると思う、だから、霊媒師とは和解できないのだ。」ショパンは霊媒師が誰の髪の毛だと言い当てたことや、大金の隠し場所を言い当てたことなどは信じていないのだ。

「スターリング嬢の側の明晰さ、そして、エティエンヌ夫人正直さは、後から

すべてが演出された可能性があります。」

実は、あれは、みんながグルでショパンを騙す演技だったのだとショパンは思っていた。

「…その書簡について、私は例えば、私が個人的に彼らに手渡した別の種類の手紙、今回は匿名の手紙を受け取りました。

私はこのすべてについてエティエンヌ夫人に一言も言いませんでした、そして私はそれが今日一週間前に起こったけれども、私はそうするつもりはありません。その小包は3日前に彼女に渡された可能性があります。私は[オルレアン]のアパルトマンにいなかったし、彼女はここにいたので、霊媒師と同様に取り返せたのかもしれません。

さまざまな会話の一致を考慮に入れると、なおさらそう思うのです! !彼女達は、優しさはありますが、[スターリング嬢とアースキン夫人の側で]それは彼女たちの誇示なのです!

貴君に会いたいです。」

ショパンはスターリング嬢の姉アースキン夫人からの贈与は一部受け取ったが、そのやり方がどうにもこうにも好きになれなかった。

スターリング姉妹もエティエンヌも霊媒師も皆んなで口裏を合わせて、ショパンへの贈与などと言いながら、大袈裟に演出し、ショパンに恩を着せ言うことを聞かせようという算段がショパンには見えていた。だから、

ショパンはたとえお金を貰っても、スターリング姉妹のやり方が腹が立つのだ。

それから、ショパンが、あれほど可愛がっていたクレサンジュとソランジュは…

「クレサンジュは、この暑さの中、子供と看護師と一緒に、お金なしで、そして誰もがパリから逃げているちょうどその時に、

ソランジュをパリに連れてきました! 

クレサンジュの脳みそはいったいどこにあるのだろうか?彼は脳なしなの愚か者か、 

ロゼール嬢とベーゼン夫人は一緒にベルギーの温泉にいる。」

ショパンの馬車でソランジュはクレサンジュと子供の3人で夏のパリに出て来た…ショパンは呆れ返っていた。音信不通だったロゼールは楽しくやっているようだ…

ソランジュはパリで住む場所を探して走り回っているというのだ。それも、ショパンの居るシャイヨ城の近くだと言うから、ショパンはうんざりなのだ。

「クレサンジュの馬鹿さかげんには恐ろしくなるよ。」ショパンは二人の無謀さに呆れ返り、今まで自分が身を削り二人に助言してきたたことは、いったいなんだったのか、と、イライラせずにいられなかった。 

「フランショームとエルボーを除いて、誰もがパリを離れているのだ。

オブレスコフ夫人はサンジェルマンに居て 、毎週月曜日に私を見舞ってくれます。姉はまだ許可証を受け取っていませんが、夫の休暇が終わるので役に立たなくなります。

…割愛…私は何もせず、何も望んでいません。アレクシスを頭から離れることができません。」ロンドンの時もそうであったように、オブレスコフ夫人は毎週のように献身的に見舞いに来てくれていた…。

ショパンはまだ自分に会いに来ない人、

パリから自分を置いて離れて行く人、

恩知らずな無謀な二人、それぞれのことを思い、

姉ルドヴィカが来てくれることだけを望む、と少し前までは言っていたショパンだったが、今は「もう何も望まない」と言った。

それからグシマーワにまだ追伸があるショパンは、グシマーワがパンフレットで何かを販売していることに触れた。

「チチョウスキーとは2週間も会っていない。バージニアのことは何も知らない。オルダはあなたの時計を売っていません。チチョウスキーに渡したのだ。

彼がそれを提供した最後の人々は、それが本物かどうかを疑問に思った。

オルダが最後に渡した人たちは、その時計の真偽を疑っていました。 

ブレゲ(有名な時計職人)の本で調べたのですが、それについては掲載はありませんでした。それ以来、あなたの他の不安は解消されたのでしょう。サピエハ老公爵と妃殿下が昨日の夕刻にいらっしゃいました。

妃殿下、イザベラ、ウラジスラフはディエップ(フランスのノルマンディ地域)に滞在しており、元気です。」グシマーワは時計を売っていた。イギリスから輸入していたかもしれない。それが本物かをショパンはカタログで調べたが載っていなかったのだ。

その時計は人に渡しただけでまだ売り買いはしていない。グシマーワは2月革命以来どこかに隠れて暮らしていてお金がないのだ。ブレゲはこの頃三代目のルイス・フランソワ・クレメント・ブレゲ(1804年12月11日 パリ−1883年10月27日パリ、フランスの物理学者で時計職人)だった。一代目はパリでナポレオンボナパルトに仕えていた、二代はマリーアントワネットに仕えていたた、一代目の父親は革命から二代目の息子を逃して、ロンドンで時計職人の修行をさせた。だから、三代目のこの頃、イギリスにブレゲのような時計は既にあったのだ。グシマーワはスターリング姉妹から時計を輸入していたかもしれなかった。それとも、これは仮説だが、グシマーワにはショパンは作曲の出版の事でも世話になってきた。グシマーワには、ワルシャワ時代にショパンは評論も書いてもらっていた。ショパンはグシマーワにも何か

恩返しをしたかったし、古い親友としてショパンはグシマーワのことを心配していた。

ショパンは昔から時計にはかなりの執着があった。子供の頃から貴族の高価な懐中時計を見ていたし、カタラー二夫人から高価な懐中時計を贈与されたこともあった、ルドヴィカからも最新の目覚まし時計を貰ったりした。19歳だったかドレスデンの旅ではからくり時計を二回も観察しに行き、職人さんと親しくなったこともあった。この時、三代目のブレゲはショパンと知り合いだった可能性が高い。ショパンは絵がとにかく素晴らしく得意だった、自分の理想の時計をデザインしたかもしれない、何でも身につける物は特注だった時代から大量生産への過渡期である。

もしや、ショパンがデザインした時計をロンドンで安く作り、パリで売ることをグシマーワに提案したのか、ブレゲは二代目で会社が傾きかけ生産も減少していた。今までのカタログに載っていないショパンがデザインした時計なら売れるかもしれない、ということなのか。ショパンはロンドンではまだ、絵を書く元気があった、その時から考えていたのか、試作品があったということなのか…。

グシマーワが、これでうまくいき、家族を養っていければとショパン思っていた。

ショパンは、現実を生きながらも常に理想とロマンを捨てていなかった。自分の理想を実現するための努力にロマンを捨てず冒険を恐れず夢を忘れなかった。だから、いつも現実と戦いながら、涙してしまうショパンは、心はいつまでも少年のようだったのだ。友人達は皆、ショパンは昔と全く変わらないのです、と口を揃えて最後まで言った。

ショパンは、病と闘いながらも、人への思いやりや関心を持ち続けた。作曲も出来なくなっていたがマズルカだけは忘れていなかった。そんなショパンの魂は誰が迎えに来るのであろうか…。


ブレゲ、三代目

ルイス・フランソワ・クレメント・ブレゲ

(1804年12月22日パリ-1883年10月27日パリ)-フランスの物理学者兼時計職人。

リセコンドルセ(1804年廃校、修道院の内の中等学校だった。パリの9区、現在フランス中の多くの中等学校 にはリセコンドルセという名が残っている。)


卒業生の中には多数の有名人がいる。中でも

写真家のナダールで知られるガスパール-フェリックス・トルナション(1820年4月5日-1910年3月20日)も、リセコンドルセの

卒業生である。


ルイスの祖父は、スイスで教育を受けた時計製造会社ブレゲの創業者であるアブラアン-ルイ・ブレゲである。腕時計と懐中時計は1801年にアブラアム・ブレゲによって発明された。 1780年の世界初の自動巻き時計、および世界初の腕時計1810年を発明した。

ルイスは、1833年、父ルイ・アントワーヌ・ブレゲの引退に伴い、ブレゲ・エ・フィスの時計製造責任者となる。

1835年から1840年にかけて、当時年間350本生産していた時計の製品ラインを標準化し、科学機器、電気機器、記録装置、電気温度計、電信機、電気同期式時計など多角的に事業を展開しました。

1842年にはアルフォンス・フォイとともに、当時使われていた光電信に代わる電気針式電信機「フォイ・ブレゲ電信」を開発した。

1843年には、経度局の職員に任命されました。1845年にはレジオンドヌール勲章を授与された。

後の段階的電信機(1847年)はフランス鉄道に適用されて日本へ輸出された。

彼は1847年に、電信設備を雷から守るために小さなワイヤーを使用できることを観察し、ヒューズの先祖となった。

また、レオン・フーコーとイポリット・フィゾーが光速を測定するために使用した回転鏡フィゾー=フーコー装置を製作した(1850年)。

1856年には、リヨンの中心部に設置する同期式電気時計の公共ネットワークを設計した。

1866年には、100Hzの音叉で制御する電気時計の特許を取得。

1870年、彼は会社の経営権をエドワード・ブラウンに移した。

ブレゲはその後、電信と新興の電気通信の分野に全面的に力を注ぎました。

彼は、後にハインリッヒ・ルムコルフが改良した誘導コイルの開発に協力しました。

1874年にはフランス科学アカデミーの会員となり、1877年にはレジオンドヌール勲章のオフィシエに昇格した。

エッフェル塔の基部に名前が書かれている72人のフランスの科学者の一人である。

ブレゲは結婚し、一人の息子アントワーヌ(1851-1882)をもうけ、彼もまた家業の電気事業に加わった。

 息子とともにアレクサンダー・グラハム・ベルと出会い、フランス市場向けにベルの電話を製造するライセンスを得た。

 ルイ・シャルル・ブレゲの祖父、ソフィー・ベルテローの叔父であった。