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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

フレデリック・ショパン、天使ルドヴィカからワルシャワの妹イザベラへ…ショパンの魂は何処へ召されたか…最後まで献身的だったのは誰か…。

2022.05.09 13:26

フレデリック・ショパン🎶イメージ🎶

時は1849年9月17日午前2時.

 パリのルドヴィカからワルシャワの妹イザベラの夫カラサンテへ…

「私の最愛の人、彼は行ってしまった。

小さなルイーズと私は元気です。

私はあなたを優しく抱きしめます。

 お母さんとイザベラを忘れないでください。

 さようなら」

ショパンが遺した書簡は、

フランショームへ9月17日に書き、日記に10月3日書き記したのが現存するものとして、

最後である。そして、

ショパンの日記に断片の紙切れが残されていた。それは、1844年.ニコラが亡くなる直前に息子フレデリックを心配してメモ書き遺したもので、それを、イザベラの夫カラサンテが、ニコラが亡くなったときに、フレデリックに長い書簡と一緒に送って来たものであった。

「遺体を開けてほしい」という父ニコラが生前の1844年に書いたものは、

息子の死を予測していた父親ニコラは、フレデリックが亡くなったら解剖して必ず死因を調査してほしいと、遺言を遺していた。

ニコラは愛する家族のために徳と正義に生きた立派な人であったとカラサンテはショパンに伝えていた。そして、ショパンはそれを大事に保管していた。ショパンも同じ考えだった。

そして、ルドヴィカの夫とその子供はひと足先にワルシャワに帰り、ルドヴィカは、

パリにひとり残り、帰りはひとりで帰ったと

マチェリーナの書簡から読み取れる。

最後のルドヴィカの書簡には、ショパンを献身的に見舞ったマチェリーナ・チャルトリスカの書簡が同封された。

「哀れな友はこの世を去りました。

彼は最後の瞬間まで苦しみました。

奥様の看病は模範的で、天使のような忍耐と諦めでした。

神は彼女に計り知れない体力と精神的な強さを与えています。

一両日中に詳しいことをお知らせします。

どうかご心配なさらないでください。

ショパンの友人たちが、すべてを解決するのを助けてくれるでしょう。

彼女は、帰りは一人で大丈夫だと仰ってみえます。

 私はもう手紙を書く気力もありませんが、どうしても言いたいことがあります。

瀕死の友人と交わした約束は、必ずや私が果たします。

奥様を私の妹のように大切にいたします。

と申し上げます。

 敬具

 マチェリーナ・チャルトリスカ(ラジウィル家)」

彼女が書いたこの言葉

″瀕死の友人と交わした約束は、必ずや私が果たします。″これは、ショパンの心臓はワルシャワの聖十字架教会へ、遺体はパリのペールラシェーズ墓地へ、墓碑はオーギュスト・クレサンジュに造らせてくれ、というショパンの意思をマチェリーナ・チャルトリスカに託したのではなかろうか。

マルツェリーナ・ツァルトリスカはショパンをロンドンでも毎日のように見舞い、シャイヨのショパンも毎日のように見舞った人だ、

彼女はショパンの弟子でもあったがショパンは彼女に曲に関して何か託したのかは不明だ。

✳︎✳︎✳︎✳︎ 話しはまだ続きます…。✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎