俳句の実作と批評
http://hiro1961.art.coocan.jp/hyoron/ss.html 【誠実な語り-大辻隆弘評論集『子規への遡行』】より
批評は実作よりもむなしい行為かもしれない。あなたは誰に向かって、そのことばを投げているのか。この問いに応えることは、けっして容易ではない。一定の水準で短歌について思考している者たち。たとえば、こう応えてみる。しかしながら、この範疇に入る人びとを想定してみると、具体的にイメージできる人も含め、その数の少なさを思い知らされるだけだ。いいかえれば、批評という行為を真摯に受け止めてくれる人びとがあまりに少ない──そう思わせるのが、現在の短歌の状況ではないだろうか。
こうした状況でも、優れた批評家はいる。そのための条件はいくつかあるが、もっとも大切なのは誠実さではないだろうか。その意味で、『子規への遡行』の著者・大辻隆弘は、まぎれもなく優れた批評家である。
本書は、平成元年より7年にいたる7年間に、大辻の誠実さが紡ぎだした文章群である。内容は三つの章段から成り、後記によれば、Ⅰは「近現代短歌の基本的な枠組みの成立について」の考察、Ⅱは「近代歌人・現代歌人の歌人論」、Ⅲは「やや状況論的色彩の濃い」論考が収められている。
大辻は自らの感覚を信じている。たとえば、佐藤佐太郎の「文体的模索を検証」しようと試みる「あてどなさの構造」を次のように書きだす。「佐藤佐太郎の『帰潮』(昭27)を読んでいると、しばしば、自分の脚もとがふっと揺らぐようなあてどなさを感じるときがある。浮遊感といってもいい」。心地よい語りだ。この心地よさは、おそらく批評の対象や読者との適切な距離に由来している。それは、大辻の優れた資質である。
収められた論考のなかでもっとも興味探いのは、作品の〈読み〉のあり方の変化を考察した「一首の屹立性について」である。短歌という制度の輪郭を、自らの視点からくっきりと描きだそうと試みているからだ。昨今の岡井隆や小池光らの「一首の吃立性」の主張が、60年代の塚本邦雄らのそれに比べて迫力に欠けていることに着目しながら、彼らが、60年代の〈読み〉と80年代の〈読み〉とを「同時に無効化してしまうような、ひそかな、しかし確実な〈読み〉の枠組みの変化」を感じ取っていると述べる。鋭い指摘だ。そして、こうした変化を象徴する例として穂村弘歌集『シンジケート』を具体的に読み解いていく。しかし、こうした状況を「手放しで賞揚する気分にはなれない」とも述べ、「短歌という詩型を新たなかたちで賦活させるのは(略)状況を見つめ詩型の本質を見つめる、痛みをともなった誠実さであるに違いない」と結ぶ。
大辻のこの切実な発言を大切にしたいと思う。しかしこうした発言が、意識する、意識しないにかかわらず、制度によって名づけられた、異物なるものの排除に加担してしまう危険性を孕んでいることを忘れてはいけない。
大辻隆弘の今後の批評活動が期待される。
https://fragie.exblog.jp/32282809/ 【山本健吉の俳句批評への読みの検証。】より
国立・古民家の青梅。
この完璧なまでに肌理細やかな実梅の肌。
こんな肌のハリが欲しいわって、最近とみに思う。
陽の実梅うつろひ易き女の肌 鍵和田秞子
まさに、しかり、なのよねえ。。。
これは谷保天神裏の梅林。
目下6月刊行をめざして、鈴木明全句集の編集をすすめている。
こちららは主にスタッフのPさんを中心にすすめており、昨日もPさんはそのことで鈴木明邸にうかがったところである。
鈴木明氏は体調をいますこし体調をくずされておられるのだが、たいへん楽しみにされている。
編集は最終段階に入って、先週から初句索引、季語索引の読み合わせにはいっているのである。
リモートによるものなので、顔を見合わせてということはできずそれぞれがその場で時間を調整しあい、声のみで確認しあっている。
パートのIさんの手も借りて、Iさんはふらんす堂でお昼まで仕事をし、その後自宅にかえり昼をすませて、その後読み合わせに加わってもらう。その間ゲラのやりとりなども発生し、先日はIさんの大学生の息子さんに取りに来て貰ったりしたのだった。
「息子が行きまーす」っていうことでわたしたち興味津々だったのだが、残念ながら会えたのはPさんのみ。
印象を聞けば「お母さんとおなじように背が高かった」という報告。
「いい息子さんね、そんなに素直におつかいをして」などとわたしたちは言い合ったりしたのだった。わたしの子育ての記憶からすると、ます「やだよ」って言われるのがおち。そんなわけで、今日も午後は読み合わせ、今日はわたしもかり出されてお手伝いをしたのだった。
途中にわかに眠くなって、「yamaokaさん!」って声にハッとした。「どうしたんですか」って聞かれたので、「ごめん、寝てた」と言ったら爆笑された。数秒間でも寝ることができるのがyamaokaの特技である。
第11回田中裕明賞を受賞された生駒大祐さんが、同世代の若手俳人である大塚凱さんと二人で俳誌を創刊された。
ふらんす堂へもおくっていただいたのがかこれ。
俳誌「ねじまわし」第1号
いろいろと意欲的な試みがされている。
そこに岡田一実さんによる評論「山本健吉が「低調」とした大正『客観写生」俳句を読んでみた」という論考があり、興味深く読んだ。「大正「客観写生」俳人」を何人かとりあげてその作品をとおして、健吉論の是非を問うというもの。岡田さんの論考の契機となったものが、伊藤敬子著「『鈴木花蓑の百』』であるというので面白くおもったのだった。
ほんの少し抜粋したい。
山本健吉は『定本現代俳句』において「大正初期と四sとの間に、低調な無個性、無感動の時期が存在する。代表的な作家として、西に丹波の酒造業者西山泊雲と、東に大審院鈴木花蓑とがある。辛うじてこの二人を挙げうるのであった、それに続く池内たけし、野村泊月、田中王城、鈴鹿野風呂などになると、その低調さ、安易さ、月並みさは読むに堪えぬ」と記した。この六人の俳人の俳句は平井照敏編『現代の俳句』にも入集されていない。小西甚一著『発生から現代まで 俳句の世界』ではこの時代を指して、「(略)」と否定的に論じた。
『定本現代俳句』『現代の俳句』、『発生から現代まで 俳句の世界』、この三書は筆者も含め現代多くの俳人の初学の書ではないだろうか。それにここまで書かれる(あるいは無視される)と、読まずに「読まなくて良い俳句」と判断してしまうことも多いように思う。少なくとも筆者は昨年までそうであった。意識が変ったのは、伊藤敬子著『鈴木花蓑の百句』を読んでみて描いていたイメージと随分違うと感じたからである。この時代の「客観写生」が目指した高みとは何だったのだろう。個別に読んで味わいを探ろうというのが本稿の目指すおところである。
ということで、岡田一実さんは、この大正期におけるホトトギス俳人、西山泊雲、鈴木花蓑、池内たけし、野村泊月、田中王城、鈴鹿野風呂の六人の俳人の作品を十句ずつとりあげてそれぞれの個性をすくいあげながら丹念に詳細に論考している。
わたしが面白いとおもったのは、山本健吉の俳句批評への読みの検証がされたことであり、ホトトギス俳人への再評価への作業がなされたことでもあるということだ。
以下はちょっと余談。
ただ、思うにこれらのホトトギス俳人の背後にわたしは虚子の存在をおもうのである。
虚子の選句の目であり、つまるところホトトギス俳人は虚子によって育てられたのではないだろうか。
ゆえに虚子のとなえた「客観写生」をどう見るか、ということに帰着するようにおもえるのだ。
個性もそこにおける個性であって、つまり虚子に選をゆだることによって俳人として成立した、というのは言い過ぎだろうか。
岸本尚毅さんが、「ふらんす堂通信」で『ホトトギス雑詠選集』を読む」と題して、連載をされているのは、まさにその虚子の選がそれぞれのホトトギス俳人の句をどう育てかを丹念な読みをとおして検証していくものだ。
「はじめに」でこんな風に岸本さんは書く。
(略)虚子選には、作家を見出し、育てるという面もあります。季題別である選集を、作家別に並べ替えると「ホトトギス」で活躍した各作家のミニ句集が出来上がります。作家別に句を眺めることにより、虚子がそれぞれの作家の個性的な作風を見出していたことも窺われます。
この連載において、さらにわたしたちはさまざまな個性的なホトトギス俳人に出会うことになるのである。