Okinawa 沖縄 #2 Day 177 (05/04/22) 旧浦添間切 (19) Machiminato Hamlet 牧港集落
旧浦添間切 牧港集落 (まちみなと)
- ティラブのガマ (ティランガマ)
- 牧港公民館
- 牧港合祀祠
- まちなと公園
- 牧港ガー(マチナトガー、シマヌカー)
- シチャマガー
- てだこモニュメント
- ワンペーチン屋敷跡、土帝君
- 牧港漁港
- おもろの碑 (牧港漁港緑地公園)
- 牧港 (マチナト) の大岩
- チヂフチャー洞穴遺跡
港川に続いて、浦添市の集落巡り最後となる牧港集落に移る。
旧浦添間切 牧港集落 (まちみなと)
17世紀初頭では牧港は真比湊 (まひみなと) と呼ばれ、安川真比原に点々と小集落があったとの記載している文書があるが、他の文書では真比湊の地名は見当たらず、集落と認識されてはいないほど小さな集落だったと思われる。1713年の琉球国由来記に、牧湊村が登場している。また、文書では牧那渡と書かれているものもある。
明治時代では旧浦添村の中で人口は真ん中ぐらいの集落だった。沖縄戦で一時期人口が減少しているが、その後は増加し、現在では明治時代の人口に比べ12倍になっている。米軍基地近辺の集落と同様に浦添市の中では多いグループになっている。
1919年の地図にある牧港集落は幹線道路の北側に見えるが、1973年には道路の南側にある。これは戦後元の集落が米軍に接収された事で、南側の農地であった地域に新しく村を建設したことによる。また、米軍統治時代には広い範囲にわたって埋め立てが行われていた事がわかる。埋め立て地は沖縄電力などの企業の用地となっている。
琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: なし
- 殿: 牧港之殿 (ティラブのガマ前庭)
御嶽が存在していないのだが、浦添の他のどこかの御嶽を村の守り神としていたと思うのだが、ティラブのガマが御嶽だったのではと考えられている。牧港で行われていた祭祀行事は下記の通りだが、この内、現在でも続けられている祭祀がどれだけなのかはわからなかった。
祭祀は浦添 (仲間) ノロによって執り行われていた。
牧港集落訪問ログ
ティラブのガマ (ティランガマ)
牧港には源為朝伝説が残っている。源為朝は1156年の保元の乱に敗れて、伊豆大島に流刑となるが、大島から脱出を試みたものの、嵐に遭遇し琉球の北部、今帰仁の運天港に漂着した。為朝は本島南部の大里按司の妹の思乙(おみおと) と和解森 (ワタキナー) で逢引きをし、妻に迎え、後に舜天王となる尊敦を授かる。やがて為朝は京都に戻り平氏征伐の為、妻子と共に浦添の港から船出をするが、伊江島付近で暴風が起こり進めなくなった。船頭に「女が乗っているから竜宮の神が怒っているのだ」と言われ、仕方なく妻子を港に降ろし、為朝は一人日本に帰った。為朝は4年後に八丈島で朝廷の兵に敗れ自害したが、それを知らない残された妻と幼子は、このテラブガマを住まいとして港でいつまでも為朝の帰りを待ち侘びていた。という話が為朝伝説。思乙と尊敦 (舜天) が待ちわびた港というある待港 (まちなと) が牧港 (まきみなと) となったと伝わっている。
この為朝伝説は、京都五山の僧侶 月舟寿柱(1470年~1533年) の著した鶴翁字銘井序の中に琉球渡来が記されている。沖縄の文書では琉球王府が編纂した史書の中山世鑑 (1650年) に採録されている。この時代は薩摩が琉球を支配下においた1609年から40年後になる。為朝伝説は、「日琉同祖論」という琉球の先祖は日本から渡来したと云う説の根拠とされ、薩摩侵攻の正当性を主張するために、琉球の王と薩摩は同じ源氏の血筋で、同族という政治利用の為に、薩摩の圧力で中山世鑑に収録された様にも思える。更に、江戸時代後期には、曲亭 (滝沢) 馬琴が、1807年から1811年にかけて刊行された椿説弓張月で、為朝が琉球へ逃れ、琉球国建国に関わったとする物語が江戸で大人気となり、琉球ブームが起こっている。先に訪れた城間御殿に隠居した尚灝王の時代の事だ。明治以降も為朝伝説は政治利用されて、運天には、1922年 (大正11) に、東郷平八郎の尽力で「源為朝公上陸之碑」が建てられている。
ガマの内部には幾つもの拝所が置かれている。
牧港公民館
戦後の新部落内に建てられた公民館。
牧港合祀祠
現公民館の道向いに合祀祠があった。 何を合祀してあるのか不明だそうだが、周辺の祠を移転してきたそうだ。雨水の神の拝所と御嶽が祀られていた。琉球国由来記には御嶽は記載されていないが、やはり集落として御嶽としてあがめた拝所があったのだろう。先に訪れたティラブガマにあった御嶽の事だろうか?
まちなと公園
公民館の近くにまちなと公園があったので。ここで休憩。公園内には子供の遊戯具や琉球石灰岩で橋などがあり沖縄らしい公園だ。
牧港ガー(マチナトガー、シマヌカー)
牧港テラブガマの南側に牧港ガー (マチナトガー) という井泉がある。地元ではシマヌカーやウブガーとも呼ばれる湧き水で、正月の若水や産水に使用されていた。干ばつでも枯れないほど水量が多かったと伝わっている。この牧港ガーの水は近くのクムイ (溜池) に貯められ、洗濯や馬や牛の水浴びに使われて、その排水が田畑に流れ込む仕組みになっており、湧き水の有効利用の工夫がされていた。
シチャマガー
民俗地図にはシチャマガーという井戸が記されていたので、その場所に行って見たが、井戸らしきものは無く墓が幾つかあった。南ノ佐事門中と書かれていた。
てだこモニュメント
二週間に渡って見てきた様に、浦添は沖縄県民の文化遺産とも言える古い歴史や伝説がある。 琉球初代の王である源為朝の息子との伝説がある舜天王を始め、太陽の子といわれテダコ伝説の残る英祖王、天女が母だったとの天女伝説の察度王など琉球国の中心地だった。浦添を都として約200年間続いた王統の根城である浦添城、伊祖城もある。また、ここ牧港は、琉球最古の貿易港として海外の産物や文化を受け入れる窓口で進貢船が行き交い賑わいをみせた場所でもあった。県道153号線は、かつては首里城から牧港への馬車道でもあり、尚巴志によって三山 (北山・中山・南山) が統一されたときには首里城への宿道となっていた。 この場所には、浦添が琉球の歴史の起点とも考え、「琉球史のあけぼ」として太陽 (てだこ) や貿易船をイメージしたモニュメントが置かれ、ちょっとした休憩所 (ユックイ) となっていた。暫くここで休憩とする。
ワンペーチン屋敷跡、土帝君
新部落の北東側、国道58号線近くに、牧港集落の拝所となっているワンペーチン屋敷跡 (写真右)、土帝君 (写真左) があるのだが、拝所らしきものは無く。この二つの拝所の情報も殆どなく写真は見当たらず、ここがそうなのかも自信はない。ワンペーン屋敷隅では豊作、厄払いを御願していたという。
牧港漁港
牧港川の支流が海に流れ込む所に牧港があったのだが今は埋め立てられて、かつての牧港はなくなっている。にある。牧港は、 琉球最古の貿易港として 海外貿易が盛んに行なわれた たという。島津入り後は、 冠船入港のとき 「かくれ港」 として利用された。山原船が寄港する港であった。今では橋がかかり、国道 58号の開通により昔の面影はない。
牧港は舜天時代から英祖時代まで、琉球最古の貿易港であった牧港を通して貿易で栄えていた。英祖時代末から察度時代になると、貿易の規模が拡大し、中国からの大型船には港が浅く寄港に適していないので、新しい貿易港の必要性が高まり、泊港へ貿易の中心が移り、更に那覇港へ貿易港が移った。それに伴い、察度王、武寧王は居城を浦添城から首里城に移し、次第に浦添は衰退していった。那覇に貿易港が移った後は牧港は隠れ港となりt和船の避難港、漁船、山原船の停泊に使われていた。
おもろの碑 (牧港漁港緑地公園)
牧港の漁港近くにある牧港漁港緑地公園の中にも、1531年から1623年にかけて首里王府によって編纂されたおもろそうしの中から、この地を詠んだおもろの碑が建てられていた。ここにある碑文は、1372年に明の太祖の紹諭を受けて、琉球史上初めて中国と進貢貿易をおこなった察度王の偉業を賛美したおもろといわれるもの。長い航海のすえ、琉球人が到着する泉州港がある中国泉州市と浦添市との友好都市の記念として、中国泉州市により加工、刻字され寄贈された石で建てられている。
ジャナモイ(察度王)は、どのような立派な親が生んだ子か、人々がその美しさを讃え見たいものだと謡っている。
巻一四の一
一 ぢやなもひや
たがなちやる くわが
こがきよらさ
こがみぼしや あるよな
又 もぢやらの
あぐで おちやる
こちやぐら
ぢやなもいしゆ あけたれ
又 ぢやなもいが
ぢやなうへばる のぼて
けやげたるつよは
つよからど かばしやある
ぢやなもひ (察度王の童名) は
誰が生みたる子か
こんなにも美しく
こんなにも見たくあるよ
百按司の
望んで置いたる
宝庫を
ぢやなもいこそ開けたり
じやなもいが
謝名上原に登って
蹴上げたる露は
露さえも芳しい
牧港 (マチナト) の大岩
国道58号線から牧港への道の途中に大岩の丘がある。この場所については、ペリーが来琉した際に同行したバジルホールがスケッチをし、日本遠征記 (1856年) に掲載された石版画に、その姿が残っている。今は国道の拡張工事により大岩は破壊され、大岩は半分程度の大きさになってしまい、丘の上は高級老人ホームのポート・ヒロックとなっている。崖の中腹には幾つもの洞窟墓があったそうだが、現在は埋められている。ひとつだけ洞窟が残っているのが見えている。
バジルホールのスケッチの中左奥には牧港橋も描かれている。この橋は現在の浦添市と宜野湾市の境に位置し、昔の牧港川の河口にかかっていた橋。牧港は南北をつなぐ交通の要所であったが、長いあいだ橋がなく、牧港川の上流の黄金宮の前近くを、人々は迂回し、不便だった。やがて木橋がかけられたものの、尚敬王の代になると崩壊寸前になったため、1735年 (尚敬23年) 翌年にかけて七つのアーチ (スケッチでは三連アーチ) をもつ石橋に改修された。1881~82年 (明治14~15年) ごろには靉靆橋 (あいたいばし、雲がたなびいた様な眼鏡橋の意味) と讚えられたが、沖縄戦の際に破壊され、一部残っていた石積みも1950年 (昭和25年) ごろ、米軍の軍用道路である旧1号線の工事にともなって姿を消してしまった。現在の牧港橋 (写真左上) とは位置も異なり当時の名残は残っていない。
チヂフチャー洞穴遺跡
牧港の南、伊祖インターチェンジ付近にチヂフチャー洞穴遺跡がある。ここには2019年9月11日に訪れた。写真はその時のもの。標高約50mの琉球石灰岩の台地に位置して前面の崖下には牧港川が流れている。対岸の台地にはグスク時代の遺跡、真久原遺跡がある。全長がおよそ110mある鍾乳洞になっているこの洞窟は古代人の住居として利用されたらしく、今からおよそ1500 ~ 800年前の沖縄貝塚時代後期 ~ グスク時代の土器や貝殻等の食糧残滓が洞穴の入口付近で見つかっている。又、洞穴一帯には風葬墓があり沖縄焼の壺等がみられる。さらに、去る大戦中には避難壕として利用され、入口付近に戦時品が多数ちらばっていたという。墓としても使われていたようで、洞窟内には壊れた骨壺や骨甕が散らばっていた。
これで、浦添市にある18の集落巡りが終わった。来週から二週間東京を訪問を予定している。それまでは東京訪問の準備をするため、沖縄に帰ってくるまでは、集落巡りはお休み。
参考文献
- 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第3巻 資料編 2 民話・芸能・美術・工芸 (1982 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第4巻 資料編 3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第5巻 資料編 4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
- うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)
- 牧港字誌 (1995 浦添市牧港自治会)