感じる俳句
Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
目覚め
見たものを見たとおりに描くのは「模写」です。芸術ではありません。「花がきれい」と言うだけでは詩にはならないように。
見えないものを感じたとおりに描くのが芸術です。
私は焼き物の画家ですが、絵描きになると決めた不思議な体験があります。私が26歳の時のことです。夜中、二階の寝室からトイレに向かいました。階段をおり、リビングを抜け、襖を開け、座敷の障子のむこうにトイレはあるのですが、何気なく目を送った床の間の漆喰の壁に、まるで3Dの映像をみているように、一体の龍がゆっくり、ゆっくり動いてる姿と出逢ったのです。
驚いたというより、固まってしまい、ただ茫然とその姿に見入りました。龍の鱗の一枚一枚、とげや毛の一本一本までがはっきりと見えるのです。白黒(モノクロ)でしたが、それは、そこに「存在」していました。
龍が床の間の左側の壁をゆっくりと通りぬけていなくなったあと寝室にもどり、整理もつかないまま寝入ってしまったのですが、その日を境に私はたびたび龍に出逢うことになりました。
潜在意識と言われる領域が顕在化したのかも知れません。次元を越えた世界があることを教えられたのかも知れません。なにかを求めていた私に、大いなる力が手を貸してくれたのかも知れません。こたえは出ませんが、「見える」世界にだけ居続けていては見つからないものがあると、私の中の芸術を目覚めさせ、私の魂を導いてくれるためにあらわれたのだと思っています。
魂の発露、生のエネルギー、善(善悪の善ではなく、調和や徳性)を象徴するものとして、龍を描いていますが、大いなる力が私という人間を用いて描いているという感覚があります。言い換えると、「感じる」というシンプルなことですが、龍の制作過程では、私自身、驚くほどのパワーにあふれているのです。
人の目覚めとは、世界を限りなく愛すること(=大調和とも言えますし、宇宙意識とも言えます)ではないかと思います。それを認識し、実践するために、肉体や五感が与えられているのではないでしょうか。
http://circus-magazine.net/posts/1367 【俳句をよむからだ 第1句 身体で感じる俳句 その1】より
今回から、「身体で感じる俳句」というテーマで、あなたを俳句の世界にご招待いたします。
といっても、別に怪しげな勧誘をしようというわけではありませんので、ご安心ください。それに招待する、などというと、なんだか偉そうですが、じつは私自身も俳句初心者なのです。
私は、自分自身が俳句の世界に入ろうとしたとき、正直どうしたらよいのか、よくわかりませんでした。
どのように読んだらよいのか、読んで何をどう感じたらよいのか。句作云々の前に、俳句というものをどう扱ったらよいのかが分かりませんでした。
その時、もしかしたら、同じように俳句に興味はあってもその入り口で難渋している人は、ほかにもいるのかもしれないと思ったのです。
その後、正岡子規の随筆を読んで、わたしは心のつかえが解かれるような思いがしました。じつに、一句一句の情景がありありと目の前に浮かんでくるのです。句を詠むときの背景や心の動きなどが丁寧に説明されるためにその句の奥行が明らかになるのでしょう。
このように考えると、俳句はただ5・7・5の17文字を読んで終わるものではなく、むしろその17文字はどちらかといえば暗号のようなものなのだと気づきました。
あとになって知ったことですが、俳句は連想の文学なのだそうです。この連想があればこそ、俳句は生きてくるのだといいます。
ここでは、俳句のことはよく知らないけど、少し興味はあるというような、いわば俳句の門前で躊躇をしているような人向けにお話しできればと考えています。
幾つかの俳句を引き合いに、どんな連想ができるのか、身体感覚つまり五感にどう作用するのか、といったことを考えることにします。わずか17文字の俳句が、連想によってどんな世界にまで深化しうるのか、考えてみたいと思います。
行く秋や 奈良の小寺の 鐘を突く (子規)
試みにウォーミングアップとして、子規のこの俳句を選んでみました。ごくシンプルな内容になっています。
季語は「行く秋」すなわち晩秋です。行く秋や、と切っているので、秋が行ってしまうなぁとまずひと区切りをしています。
この「や」は「けり」「かな」と同じように俳句の中を分断する≪切れ字≫としての効果を持っています。なぜ17文字しかない俳句をさらに細切れにするのか、不思議な気もします。
これは切ることにより生じる余韻を生かすためだと言われています。俳句の中を切るときには「や」が、俳句の終いを切るときには「けり」「かな」が多用されます。
「行く秋や」の後を「奈良の小寺の鐘を突く」とつづけています。
さあ、ここからが本題です。想像力をたくましくして、この句の世界を深く見てみましょう。
奈良というと興福寺、東大寺など大きな寺院のイメージが強いですね。そこをあえて小寺の鐘と詠んでいます。
地元の人間ならともかく、観光で奈良に行った者がわざわざ小寺に行くことはちょっと想像できませんので、おそらくはたまたま、偶然に通りかかったということでしょう。
そこで思いがけず鐘の音を聞いた、という俳句です。「鐘を突く」と結んでいるので、実際に鐘を突く場面を目の当たりにしたのではないかと思います。
晩秋ですから、秋の乾いた空気が天高くまで満ちていて、よく晴れた日の午後だったと思います。陽は少し西に傾いてきていて、なにか用事を済ませた帰り道だったのかもしれません。
あなたは、なぜそんなことが分かるのか、と思うかもしれませんが、なんとなくそんな風に思うだけです。つまりは、連想です。
一人の読み手である私の連想なので、別の読み手はもう少し違う連想をするかもしれませんし、何より詠み手(作者)の意思や真実はさらに別のところにあるかもしれません。
けれども、それでいいのです。
俳句以外の文学も同じことでしょう。作者の執筆にいたる動機などとはかかわりなく、書かれたものだけが読者の目にさらされ、読者はそれを読み、物語の世界に没入・感情移入をするわけです。俳句だからといって、ことさらに難しく考えることはありません。
こうした連想を通して考えると、この句は、一読するだけで大いに聴覚を刺激する句だと言えると思います。
「鐘を突く」とただ目の前の光景を写したにすぎませんが、この句からは小寺の寂寥とした鐘の音がありありと聞こえてくるからです。
最後に改めて、俳句を眺めてみるとします。できれば、ゆっくり、声に出して読んでみるとより一層俳句の呼吸や間合いといったものを感じることができると思います。
連想の目をもって読む俳句は、きっとはじめの印象とはかなり異なって見えるはずです。
行く秋や 奈良の小寺の 鐘を突く
鋸に 炭切る妹の 手ぞ黒き (子規)
冬の句で、季語は「炭」です。現在では薪や炭を使う生活は縁遠いものとなってしまいました。季語としては冬でも、現代では逆に夏のキャンプやバーベキューでお世話になることの方が多いかもしれません。
そういう意味では、季語の季節移動があってもいいような気はします。しかし、長年の積み重ねでなかなかそうはなっていません。
これが良いか悪いか、という議論をはじめてしまうのは、ここでは適切でないので措いておきます。
俳句に戻って観察をはじめてみましょう。
鋸で炭を切っている妹の手が黒かったという、うっかりすればそのまま散文のなかの一節でもおかしくないような、自然な言い方をしています。
こんなに自然なのに俳句になるのか、という見方もできるでしょう。
子規のつくるものは、短歌にしても俳句にしても、たまたま口をついて出てきた言葉が五七五や五七五七七の定型になっていた、というものも少なくありません。
子規の短歌や俳句に対する態度がよく分かる傾向ではないでしょうか。子規は文字通り、息をするように歌をつくり、句を作ったのです。
そうした句や歌は、一見、何でもない風に見えていながら、考えればとても奥深い詩情を含んでいたりするものです。
見た目だけに頼って、連想を軽んじたりすると、その深さに気づくことは難しくなってしまいます。
前置きが長くなりました。
季節は冬ですので、おそらく寒い日だったのでしょう。炭を切っているわけですから、当然戸外、庭にでもいるのでしょう。鋸を持つ妹の手は、だいぶ前から悴んでいたかもしれません。
さらに場合によると、雪が残っていたり、霜が降りていたり、吐く息は白く曇ったりしたかもしれません。
冬ざれ、などという言葉も併せて浮かんできます。野も山も冬空にどこか色あせて、眠ってしまったかのような印象です。
その中を妹が鋸を使って炭を切っている、という光景を見ていた詠み手(作者)は、その妹の手が真っ黒なことに気づきます。
色彩の乏しい冬の庭にあって、妹の真っ黒な手だけが鮮明です。手「の」黒き、ではなくて、手「ぞ」黒き、と言っていることからも、作者として強調しているのは紛れもなく「妹の手」です。
しかし、この句においても、黙示的に聴覚を刺激されます。それは冒頭に置かれている「鋸」の一語があるためです。
作者が見ている妹の一連の動作を思い浮かべれば、それは自ずと明らかになるはずです。
おそらく、はじめ作者は鋸を曳く音を聞いたのです。
(なんだろう、と思って目を向けると、妹が冬の庭にあって炭切りをしている。おやまあ、手もとを見ればなんだか真っ黒じゃないか。)作者はそんな風に思ったのではないでしょうか。いずれにしても、この鋸の音によってこの句を作る機を捕らえたはずです。
われわれ読者も、また、この鋸の一語によって、その音を容易に連想することができます。
では、最後にもう一度、句を眺めてみましょう。
鋸に 炭切る妹の 手ぞ黒き (子規)
赤飯の 湯気あたゝかに 野の小店 (子規)
この句を所収している『子規句集』(岩波文庫)によると、季語は「暖か」で季節は春です。
ところが句中は「あたゝか」とひらがな表記です。これは暖かと温かをかけあわせたものかと想像できます。というのも、区切りがいま一つ明瞭でなく、「赤飯の湯気」が温かいのか、「赤飯の湯気」で切れて暖かな野の小店と言っているのかがよくわからないためです。
いずれにしても大意に影響がありませんので、ひとまず全体を把握することに努めたいと思います。
野の小店というのは茶屋のようなものでしょうか。赤飯の湯気が蒸篭からもうもうと立っているわけですね。
野の小店はどこにあるのか、分かりませんがおそらく旅の途中で見つけたのだろうと推測されます。峠の茶屋のようなイメージでよいのではないでしょうか。偶然そこへ通りかかったものだから、少し休憩をすることにしたのでしょう。
店では蒸篭で赤飯を蒸しています。この蒸している場所について、店頭なのか、店の奥なのかという大きく二通りが考えられるわけですが、私は店頭だろうと思います。
なぜなら、店の奥で蒸している場合、それが赤飯である、ということが気づきにくいであろうこと。そして、店頭であればその湯気につられてふらふらと店に立ち寄る客が多いであろうこと。といった点が根拠です。
(春の旅路を行くと、茶屋が見えてきた。遠目にも湯気が見える。近づくと、それは赤飯の湯気なのであった。丁度小腹も空いてきたところだし、ひと休みすることにしよう。)
作者はおそらく、そんなことを考えたのではないでしょうか。
さて、それでは私から質問をします。
この句は、五感のどこを刺激するでしょうか。ここまで読み進めてくださったあなたなら、きっともうお判りでしょう。
そうです、嗅覚です。赤飯の蒸しあがる匂いが、句を読むだけで鼻腔に押し寄せてくるようです。空腹のときにこの句を読んだら、お腹の虫がなってしまうかもしれませんね。
では最後に、もう一度この句を眺めてみましょう。
赤飯の 湯気あたゝかに 野の小店 (子規)
絶えず人 いこふ夏野の 石一つ (子規)
第四句です。季語は「夏野」ですので、夏の句です。
この俳句は、これまでとり上げてきた句と変わらずシンプルな句なのですが、多少趣が異なり、連想の奥行が深い言わば複合問題です。
複合問題とはいえ、絡まったイヤホンのコードを解くように、段階を踏んで考えれば難しいことはありません。
主題はずばり「石」です。
どんな石なのか、という修飾が前後に施されています。
分解すると「絶えず人いこふ夏野の」石であって、その石は「一つ」だ、となるわけです。
前半は、人がひっきりなしにいこふ、つまり休息をするために訪れるという意味です。
後半は、夏野に一つの石がある、といった程度の意味ですが、前半との関係で石の大きさが連想できるようになります。
人がやってきて憩うわけですから、これはあるていど大きな石とみて間違いありません。石というよりは岩に近い可能性すらあるのではないでしょうか。
形はどうでしょう。テーブルのような石であれば腰かけるのも、荷物を置くのも容易です。或いは夏野に影をつくるような、ある程度高さのある石なのかもしれません。いずれにしても人が座って休めるような形と大きさは必要です。ですので、間違っても「石ころ」ではあり得ません。
さて、この句で感覚を刺激するのはどんなものでしょう。
一つには聴覚だと、私は考えます。人びとが代わるがわる石に憩う、その時に無言であることは考えられないからです。
ましてこの俳句の作られた明治という時代を考えるにつけても、なにかしらのあいさつを交わすはず、と思うからです。現代人であれば、各々自分のスマートフォンを見つつ立ち去るかもしれませんが。
さらには、嗅覚です。暑い季節で石に憩う人々は既に汗まみれのはずです。入れ替わり立ち代わりその石の周りに憩う人の汗の臭い、体臭がかならずそこにはあるはずです。
しかし、最大なのは触覚です。
夏野は、単なる原っぱではなく、広々とした草原というような趣があります。おそらく周囲に緑陰となる木陰などは少ないのでしょう。当然そこには夏の、容赦会釈ない日差しがさんさんと注がれているはずです。
石に憩うというからには、その石に腰かけて休むのだろうと思うのですが、真夏の太陽の日差しを吸い込んだ石は、うかつに触れれば手やお尻の皮膚を焼くほどに熱いに違いありません。夏の海辺の砂浜だとか、あるいは河原の砂利の上を素足であるくときをイメージすれば、それとかなり近いのではないかと思います。
はじめにこの句は複合問題だといいましたが、もともと使う視覚に加えて、連想により聴覚・嗅覚・触覚を刺激される句ということになり、実に人間の五感のうち、味覚を除くすべてを刺激されるということになります。
絶えず人 いこふ夏野の 石一つ (子規)
今回は、秋、冬、春、夏と四季の俳句をひとつずつ手にとって検討をしてきました。
連想ということによって、17文字の字面だけ追っていたのではつかみきれない部分にまで、俳句を読み込むことができるのだと、なんとなく感じていただけたのではないかと思います。
俳句もまた、ほかの文学同様に、詠み手の実感したことを表す文学的表現にほかなりません。たった17文字にその実感を閉じ込めるわけですから、それこそ一文字一文字にいのちが宿り、多くの場合、それが五感の複数を同時に刺激して読者の共感をもとめるというふうになります。
と、そんなふうに書くと、余計に小難しくなるかもしれませんね。要するに、俳句を読むときには、ほんのちょっと想像力をつかってその世界に没頭するとたのしくなりますよ、ということを申し上げて、この稿をおわることとします。
赤飯の 湯気あたゝかに 野の小店 (子規)
この句を所収している『子規句集』(岩波文庫)によると、季語は「暖か」で季節は春です。
ところが句中は「あたゝか」とひらがな表記です。これは暖かと温かをかけあわせたものかと想像できます。というのも、区切りがいま一つ明瞭でなく、「赤飯の湯気」が温かいのか、「赤飯の湯気」で切れて暖かな野の小店と言っているのかがよくわからないためです。
いずれにしても大意に影響がありませんので、ひとまず全体を把握することに努めたいと思います。
野の小店というのは茶屋のようなものでしょうか。赤飯の湯気が蒸篭からもうもうと立っているわけですね。
野の小店はどこにあるのか、分かりませんがおそらく旅の途中で見つけたのだろうと推測されます。峠の茶屋のようなイメージでよいのではないでしょうか。偶然そこへ通りかかったものだから、少し休憩をすることにしたのでしょう。
店では蒸篭で赤飯を蒸しています。この蒸している場所について、店頭なのか、店の奥なのかという大きく二通りが考えられるわけですが、私は店頭だろうと思います。
なぜなら、店の奥で蒸している場合、それが赤飯である、ということが気づきにくいであろうこと。そして、店頭であればその湯気につられてふらふらと店に立ち寄る客が多いであろうこと。といった点が根拠です。
(春の旅路を行くと、茶屋が見えてきた。遠目にも湯気が見える。近づくと、それは赤飯の湯気なのであった。丁度小腹も空いてきたところだし、ひと休みすることにしよう。)
作者はおそらく、そんなことを考えたのではないでしょうか。
さて、それでは私から質問をします。
この句は、五感のどこを刺激するでしょうか。ここまで読み進めてくださったあなたなら、きっともうお判りでしょう。
そうです、嗅覚です。赤飯の蒸しあがる匂いが、句を読むだけで鼻腔に押し寄せてくるようです。空腹のときにこの句を読んだら、お腹の虫がなってしまうかもしれませんね。
では最後に、もう一度この句を眺めてみましょう。
赤飯の 湯気あたゝかに 野の小店 (子規)
絶えず人 いこふ夏野の 石一つ (子規)
第四句です。季語は「夏野」ですので、夏の句です。
この俳句は、これまでとり上げてきた句と変わらずシンプルな句なのですが、多少趣が異なり、連想の奥行が深い言わば複合問題です。
複合問題とはいえ、絡まったイヤホンのコードを解くように、段階を踏んで考えれば難しいことはありません。
主題はずばり「石」です。
どんな石なのか、という修飾が前後に施されています。
分解すると「絶えず人いこふ夏野の」石であって、その石は「一つ」だ、となるわけです。
前半は、人がひっきりなしにいこふ、つまり休息をするために訪れるという意味です。
後半は、夏野に一つの石がある、といった程度の意味ですが、前半との関係で石の大きさが連想できるようになります。
人がやってきて憩うわけですから、これはあるていど大きな石とみて間違いありません。石というよりは岩に近い可能性すらあるのではないでしょうか。
形はどうでしょう。テーブルのような石であれば腰かけるのも、荷物を置くのも容易です。或いは夏野に影をつくるような、ある程度高さのある石なのかもしれません。いずれにしても人が座って休めるような形と大きさは必要です。ですので、間違っても「石ころ」ではあり得ません。
さて、この句で感覚を刺激するのはどんなものでしょう。
一つには聴覚だと、私は考えます。人びとが代わるがわる石に憩う、その時に無言であることは考えられないからです。
ましてこの俳句の作られた明治という時代を考えるにつけても、なにかしらのあいさつを交わすはず、と思うからです。現代人であれば、各々自分のスマートフォンを見つつ立ち去るかもしれませんが。
さらには、嗅覚です。暑い季節で石に憩う人々は既に汗まみれのはずです。入れ替わり立ち代わりその石の周りに憩う人の汗の臭い、体臭がかならずそこにはあるはずです。
しかし、最大なのは触覚です。
夏野は、単なる原っぱではなく、広々とした草原というような趣があります。おそらく周囲に緑陰となる木陰などは少ないのでしょう。当然そこには夏の、容赦会釈ない日差しがさんさんと注がれているはずです。
石に憩うというからには、その石に腰かけて休むのだろうと思うのですが、真夏の太陽の日差しを吸い込んだ石は、うかつに触れれば手やお尻の皮膚を焼くほどに熱いに違いありません。夏の海辺の砂浜だとか、あるいは河原の砂利の上を素足であるくときをイメージすれば、それとかなり近いのではないかと思います。
はじめにこの句は複合問題だといいましたが、もともと使う視覚に加えて、連想により聴覚・嗅覚・触覚を刺激される句ということになり、実に人間の五感のうち、味覚を除くすべてを刺激されるということになります。
絶えず人 いこふ夏野の 石一つ (子規)
今回は、秋、冬、春、夏と四季の俳句をひとつずつ手にとって検討をしてきました。
連想ということによって、17文字の字面だけ追っていたのではつかみきれない部分にまで、俳句を読み込むことができるのだと、なんとなく感じていただけたのではないかと思います。
俳句もまた、ほかの文学同様に、詠み手の実感したことを表す文学的表現にほかなりません。たった17文字にその実感を閉じ込めるわけですから、それこそ一文字一文字にいのちが宿り、多くの場合、それが五感の複数を同時に刺激して読者の共感をもとめるというふうになります。
と、そんなふうに書くと、余計に小難しくなるかもしれませんね。要するに、俳句を読むときには、ほんのちょっと想像力をつかってその世界に没頭するとたのしくなりますよ、ということを申し上げて、この稿をおわることとします。