赤木圭一郎とは
1958年(昭和33年)、日活第4期ニューフェイスとして日活へ入社。
石原裕次郎主演の『紅の翼』に本名の「赤塚親弘」名義で群衆の一人としてエキストラ出演。
これが映画デビュー作となった。
赤木の西洋的風貌や退廃的な雰囲気がこれまでの日本人俳優にはない個性として評判を呼び、「トニー」の愛称で主人公の弟分や準主役級として出演するようになった。
この愛称は、1950年代から1960年代にかけて人気のあったハリウッドスタートニー・カーチスにどことなく風貌が似ていたことが由来である。
1959年(昭和34年)、鈴木清順監督の『素っ裸の年令』で初主演を果たす。その後、『拳銃無頼帖』シリーズなど20本以上の無国籍アクション映画に主演し、日活のアクション俳優として
「タフガイ=石原裕次郎」
「マイトガイ=小林旭」に続く「第三の男」と呼ばれた。
『霧笛が俺を呼んでいる』(1960年)では少年時代からの憧れだったという船乗りを演じ、「マドロス姿が最もさまになる日活俳優」と評価された。
また、多忙になる中でステレオやスポーツカー、オートバイなどに趣味を広げ、カーマニアとしても知られるようになった。
ゴーカートで激突死
1961年(昭和36年)2月14日12時20分頃、映画『激流に生きる男』セット撮影中の昼休みに日活撮影所内でゴーカートを運転、咄嗟にブレーキとアクセルを踏み違え60km/h以上のスピードで大道具倉庫の鉄扉に激突した。
東京都北多摩郡狛江町(現:狛江市)にある慈恵医大病院に緊急搬送された。
一時は意識が戻ったものの、2月20日になって再び昏睡状態に陥り、2月21日午前7時50分、前頭骨亀裂骨折に伴う硬膜下出血のため、21歳の若さで死去した。
赤木の家族らと共に長門裕之も臨終に居合わせた。
事故直前に同じく『激流に生きる男』出演中で撮影所にいた子役時代の江木俊夫は、赤木からゴーカートに誘われていたが、小林旭から「一緒に行くと危ないぞ、それより飯でも食おうよ」と呼ばれたため行くのを止め、小林と共に食堂で食事をしているところに、外から大きな音と騒ぎが聞こえて赤木の事故を知ったという。
また、赤木の死に顔を見た宍戸錠は、長門など他の俳優やスタッフらと共に赤木がゴーカートを走らせる前からその場に居合わせており、弟の郷鍈冶、そして杉山俊夫共々家族同様に親しい間柄だった。
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