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繁俊と成城の家、昭和14年新築の頃

2022.05.12 12:00

繁俊が昭和14年から昭和42年に亡くなるまでを過ごした成城の家をご紹介します。昭和初期の建築(演劇博物館を作った江口義男の設計)が面白いかと思います。

1939年、昭和14年6月に渋谷から成城に移転してから、昭和42年に亡くなるまで、繁俊はここに住みました。上は晩年です。新築祝いに弟から送られた瀬戸のブルーのテーブルと椅子に座って。これは後に登志夫が逗子に転居してからも、ずっと庭にありました。

上は、庭から喜多見方面を見渡した風景。下は雪景色の庭。

新築当時。70坪の平家なので1枚に映りません。下は西側斜面から、上の写真の左の書斎方面。

西南の角の障子を開けると富士山が見える繁俊の書斎。書庫としての大谷石の土蔵がすぐ横に建てられていました。

応接間。

お茶の間から庭をみる。ここはサンルームとして登志夫が結婚してからはその家族も使いました。

和室。

茶の間。サンルームと同じ部屋。

玄関。

お風呂。

台所。良子が嫁いだ頃、両親の手伝いにこちらの家にくると(隣の離れに住んでいた)、左のドアがお勝手口で、ご用聞きがきたりすると急いで出ようとして、この写真の手前にある低い長押で、よくおでこをガーンとぶつけたそう。

転居の頃の繁俊と家族。右はお手伝いの女性。昭和初期の、中流家庭の家族写真です。

当時の成城。お隣さんは空き地のはるか向こう。隣は田村正和さん一家、山本嘉次郎さんの家などがありました。

戦中、戦後もここで過ごし、晩年孫とともに。

庭の自然を愛した繁俊でした。