「親子で味わう俳句」
https://www.gakken.co.jp/homestudy-support/edu-info/column/246/ 【学研の俳句おにいさんが解説 読解力が伸びる! 親子で味わう俳句 第1回】より
お子さんと「ねえねえ、こんな俳句があるんだって」と一緒に鑑賞したり、お月見をしながら、公園の花を眺めながら、季語や俳句を話題にできたりしたら素敵ですよね。自然や言葉を大切にすることで視野が広がり、世の中や周りの人が少し違って見えてくるはずです。
このコーナーでは、27歳の若さで学研の編集者と俳人、2つの顔をもつ中西亮太が、毎回オススメの季語と俳句を紹介していきます。
今日の季語「桃」(秋)
白桃や心かたむく夜の方(はくとうや こころかたむく よるのほう)
石田波郷(いしだはきょう)
桃に引き込まれた心。その先に…?
あるものを一心に見つめると、ぐぐっと引き込まれるような感覚になることはありませんか? 窓辺かどこか、ぽんと置いてある白桃に意識が引き込まれていく。一方で、周りの景色がどんどんぼんやりとしてくる……。このときの感覚を「心かたむく」と表現しているのでしょう。
ところで、心が傾いた先は「夜の方」。これにどんな意味を読むかは、読者にゆだねられています。文字どおり、窓の向こうの「夜」としてもよいでしょう。でも、私は次のように読んでみたいと思っています。桃に引き込まれていく中、日々の生活や悩み、これまでの思い出、将来……。こうしたイメージが次々と自分の脇を流れていく。まるでタイムトラベルをしながら、最後行き着く先のたとえとしての「夜」。そこには何があるのか。作者は、それを知るために桃を見ていたのだと思えるのです。
うたた寝のあとずぶずぶと桃の肉(うたたねの あとずぶずぶと もものにく)
柿本多映(かきもとたえ)
「桃の肉」を味わって読もう
この句は、うたた寝から目覚め、まだ寝ぼけたまま桃を食べる人を詠んでいます。
この句の面白さは表現にあります。「桃」や「桃の実」ではなく、「桃の肉」と詠まれることで、桃のみずみずしくジューシーな感じがリアルによみがえってきます。さらに、「ずぶずぶ」という擬音語によって、本能のままに「桃の肉」をむさぼる人の姿が連想できます。その情景は、人間の生命力や、弱肉強食に通ずる世界の「真理」を浮かび上がらせているようです。
https://www.gakken.co.jp/homestudy-support/edu-info/column/342/ 【学研の俳句おにいさんが解説 読解力が伸びる! 親子で味わう俳句 第2回】より
第2回 今日の季語 「木の実」(秋)
よろこべばしきりに落つる木の実かな(よろこべば しきりにおつる このみかな)
富安風生(とみやすふうせい)
喜びの音
この一句、素直に読んでみると、誰が喜んでいるのかがわかりませんね。木の周りにいる人? 落ちてくる木の実? これは、そのあたりの読み方を読者に任せた一句です。ここでは、作者が喜んでいると考えてみたいと思います。
何かいいことがあったのでしょう。作者は気分上々で道を歩いている。すると、その気持ちに共鳴したかのように、木の実がぼとぼとと落ちてくる。作者にとって、木の実が地面を打つ音は、自分が感じている「喜びの音」として聴こえていたのではないでしょうか。
さま〴 〵に転がしてみる木の実かな(さまざまに ころがしてみる このみかな)
初代中村吉右衛門(しょだいなかむらきちえもん)
いろいろに試してみる
立てて回してみたり、横に倒して回してみたり、あるいは、指先でちょんと机に転がしてみたり……。退屈そうにどんぐりを回す人の姿が思い浮かびます。
もう少し想像を広げてみましょう。この木の実、きれいには回ってくれなかったのだと思います。ごつごつとした不格好な木の実。だからこそ、「さま〴 〵に」=いろいろに試しているのではないでしょうか。
私はこの木の実の描かれ方に、絶妙なリアリティーを感じています。上手に回っても、転がってもくれない木の実が、人間の思いどおりにはならない自然を映しているかのようだからです。作者が見た、少しもどかしい秋の姿だったのかもしれませんね。
https://www.gakken.co.jp/homestudy-support/edu-info/column/746/ 【学研の俳句おにいさんが解説 読解力が伸びる! 親子で味わう俳句 第3回】より
第3回 今日の季語 「彼岸花」(秋)
岩蔭に瘦せてまたたく彼岸花(いわかげに やせてまたたく ひがんばな)
福田甲子雄(ふくだきねお)
情感をとらえる
彼岸花は、別名を曼殊沙華といって、真っ赤な花びらや〝しべ〟が反り返った個性的な植物です。この句は、そんな彼岸花を岩かげで見つけたときの一句です。
日に当たらないせいか、彼岸花がやせ細って見えたのかもしれません。あるいは、もう枯れ始めていたのかも……。けれど、どこからか吹いてくる風に、まるでまばたきをするように、それがそよいでいたのでしょう。弱っているものが放つ、情感たっぷりな美しさが伝わってきます。
ところで、「彼岸」とは仏の世界のこと。形から名前から、彼岸花は本当に幻想的な植物です。この作品は、そんな彼岸花が「またたく」様子を描くことで、確かに存在し、命のある「生きもの」であることを改めて知らせてくれるような気がします。
つきぬけて天上の紺曼珠沙華(つきぬけて てんじょうのこん まんじゅしゃげ)
山口誓子(やまぐちせいし)
つきぬけているのは?
広々とした空のもと、彼岸花(曼殊沙華)が咲いていることを詠んだ句です。空の青と、彼岸花の赤のコントラストが効いた、色彩豊かな作品ですね。この句を読むポイントは、「つきぬけて」をどう考えるかというところにあります(諸説あります)。
まず、注目したいのが「天上の紺」という言葉です。青みは残りつつも、夜に近づいているような空を私は想像します。そんな空が、高く突きぬけるように奥へ奥へと広がっている。一方の彼岸花は、空に向かうように、地面から突き出て、上へ上へと伸びている。
暮れてゆく空と、生命力あふれる彼岸花が触れ合うところ、言ってみれば、天と地が触れ合うところ。ここに美しさを見出した作者は、思わず俳句を作ってしまったはずだと、私は思うのです。
https://www.gakken.co.jp/homestudy-support/edu-info/column/997/ 【学研の俳句おにいさんが解説 読解力が伸びる! 親子で味わう俳句 第4回】より
第4回 今日の季語「月」(秋)
月を待つみんな同じ顔をして
(つきをまつ みんなおんなじ かおをして)山口昭男(やまぐちあきお)
同じ顔で月を待つ
わくわくした顔がいくつも並んでいる様子が思い浮かびます。大人も子どもも関係なく、ただ一心に月を待つ様子に、どこか温かい印象を受ける一句です。
「同じ顔」という表現には、皆が同じ気持ちになって、月が出るまでの宵闇(よいやみ)を見上げていることを想像させる力があります。シンプルでわかりやすい一句ですが、読者に作中人物の内面までを想像させるしかけがある作品だと思います。
ところで、俳句では単に「月」という場合は、秋の季語になります。でも、月は年中見られるもの。そういう場合は、「春の月」「夏の月」「冬の月」と工夫することもできます。
半分は絵の外にあり望の月(はんぶんは えのそとにあり もちのつき)
武藤紀子(むとうのりこ)
月のもう半分
実際の月を詠まない大胆な一句です。でかでかと月を描きながら、あえて部分的にしか描かないという手法は、絵画や屏風など、いろいろな美術品に見ることができます。この句は、そんな月の絵を見たときの作品です。
「望の月」とは秋の満月のこと。この句を読んだ読者は、欠けたもう半分の月を頭の中で想像するように誘われていきます。このとき、絵のすぐ横には、いっそうリアルで力強い月の姿が思い浮かんでくるのではないでしょうか。あえて絵の中の月を持ち出すことで、逆に本当の月をありありと感じることができる作品だと思います。
https://www.gakken.co.jp/homestudy-support/edu-info/column/1218/ 【学研の俳句おにいさんが解説 読解力が伸びる! 親子で味わう俳句 第5回】より
第5回 今日の季語「紅葉」(秋)
初紅葉といひて面をあげにける(はつもみじと いいておもてを あげにける)
川崎展宏(かわさきてんこう)
季節を楽しむ
「あ、もみじ」と、つぶやく人が顔を上げた瞬間を詠んだ一句です。意味がはっきりしていて、わかりやすい作品ですね。でもこの句、シンプルに見えて、とても豊かな景色を想像させてくれます。
まずは、紅葉の様子です。「初紅葉」とあるので、まばらに染まりつつあるのでしょう。作者がいる周辺が想像できます。次に「人」。この句は、作者自身を詠んだというより、別の誰かを見て詠んでいるような感じがしますね。すると、作者の周辺には、友達や妻、あるいはまったく別の人か、誰かがいることが想像できます。さらに、この句の雰囲気はどうでしょう。顔を上げるという描写には、どこか前向きで明るい感じがあります。
一見シンプルに見える作品ですが、深まる秋を誰かと楽しむ、そんな幸福感に満ちた句として読むことができるのではないでしょうか。
https://www.gakken.co.jp/homestudy-support/1763/【学研の俳句おにいさんが解説 読解力が伸びる! 親子で味わう俳句 第8回】より
第8回 今日の季語「冬の星」(冬)
ことごとく未踏なりけり冬の星(ことごとく みとうなりけり ふゆのほし)
髙柳克弘(たかやなぎかつひろ)
ロマンのまま楽しむ
空気が澄むと、星が見えやすくなります。一面に広がる星空を見上げ、作者はそのほとんどの星に人間が足を踏み入れたことがないという事実に思いをはせます。この句を読む読者も、同じように未知の世界へと誘われていくのではないでしょうか?
宇宙への疑問は、夢や冒険心に満ちあふれたロマン的な雰囲気を持っています。知りえないあの星には何があるのか? 宇宙人はいるのか? 寒いのか、暑いのか? どれくらい遠くにあるのか? などなど。
一方で、この句には、こうした疑問に答えるという積極的な姿勢はありません。「いま見ている星のことって、ほとんどわかってないんだよなぁ」と言っているだけ。ですが、私はこうした作者の態度に、ロマンをロマンとして楽しむ心を感じます。謎のままにしておくからこそ、宇宙は魅力的であり、遠くの星がもつきらめきに特別な感情を重ねることができるのかもしれません。
俳句のキーワード 「季語」
「季語」とは、俳句の中の季節を決めるための言葉です。多くの俳句は、季語を一つ入れて、作品となっていきます。
四季がある日本では、人々が季語のイメージを共有しています。例えば「桜」。桜と言われると、冬から春へ移った暖かい雰囲気、満開のときの華やかさ、散りゆくときのはかなさなど、様々なイメージを思い浮かべます。俳句は、こうした共通のイメージを手がかりにして、短いながらに豊かな作品世界を作り出しています。
地域には特有の季語があります。また、昨今の温暖化はいずれ「夏」を長くさせるかもしれません。これまで季語とされていたものの実感がなくなったり、新しい季語が発見されたりすることもあります。
季語とは、私たちの「あたりまえ」に依存しながら、「あたりまえ」の違いやその変化を映し出すものとして捉えることもできます。さらに言えば、季語の使い方を工夫することによって、「あたりまえ」を揺さぶることができることさえあるのです。
https://www.gakken.co.jp/homestudy-support/edu-info/column/4606/ 【学研の俳句おにいさんが解説 読解力が伸びる! 親子で味わう俳句 第18回】より
今回から、季語は夏に変わります。
第18回 今日の季語「牡丹(ぼたん)」(夏)
ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに(ぼうたんの ひゃくのゆるるは ゆのように)
森澄雄(もりすみお)
幻想の世界
たくさんの牡丹(ぼたん)が揺れているさまは、まるで湯のようだ、と詠(よ)んでいる作品です。
「湯のやうに(ゆのように)」というとき、みなさんはどんなイメージを思い浮かべるでしょうか? 例えば、波打つお湯、湯気が立ち込める空間、独特の温かさ、湿気などが想像できますね。たくさんの牡丹がいっせいに揺れ、それが波のように伝わっていく様子は、揺れるお湯やもうもうとする湯気を思わせたのでしょう。
牡丹は甘いほのかな香りをもっています。揺れ動くたくさんの牡丹は、その空間を甘い香りで満たしたに違いありません。牡丹が華やかに揺れ、甘い匂いに満ちた空間はどこか幻想的で、異世界のようにも感じられます。こうした幻想性にひたってみると、呪文(じゅもん)のような口なじみの良い句のリズムも楽しめるような気がしませんか?
俳句のキーワード「無季俳句」
俳句の基本のルールは十七音であることと季語を一つ入れることです。
季語を入れるというルールから外れた俳句のことを「無季俳句(むきはいく)」と言います。それに対して、基本のルールに従った俳句は「有季定型(ゆうきていけい)」と呼ばれます。
無季俳句をいくつか取り上げてみましょう。
しんしんと肺碧きまで海の旅(しんしんと はいあおきまで うみのたび)
篠原鳳作(しのはらほうさく)
見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く(みえぬめのほうの めがねの たまもふく)
日野草城(ひのそうじょう)
広島や卵食ふ時口ひらく(ひろしまや たまごくうとき くちひらく)
西東三鬼(さいとうさんき)
新しい俳句として無季俳句が積極的に取り組まれていたころは、テーマとして労働や戦争がよく詠まれていました。もちろん、無季俳句は現在でも取り組まれている句作法の一つです。季語にとらわれない自由な発想で表現するときや、強いメッセージを込めるときに無季俳句がしばしば登場します。