末っ子、お友達ができる
「わんわ、わんわー」
最近のルイスはお絵描きがお気に入りらしい。
マットの上に座り、自分の顔よりも大きなスケッチブックへクレヨンをぐるぐる走らせている。
一般的には一歳を過ぎてから絵らしきものを描き始めるらしいが、賢いルイスは誕生日を迎える前にそれらを正しく使いこなしていた。
お絵描き歴は既に半年を過ぎている。
相応に使用された痕跡が残るスケッチブックとクレヨンは、ルイスが楽しく遊べることに対して前のめりなウィリアムとアルバートが早々に用意したものだ。
まだ早いわよ、という母の声を聞かなかったことにして、色の種類が多すぎます、というナニーの声も聞かなかったことにした二人は、等身大のルイスが描けそうなほど大きなスケッチブックと口に入れても問題のないクレヨン120色をルイスに与えたのである。
始めはスケッチブックをしゃぶり、クレヨンを舐めていたルイスも、ウィリアムとアルバートが手本として使い方を教えてくれたおかげで早々と使い方を覚えてしまった。
それでもまだ上手に線を引くことは難しいようで、描かれるのは点や短い線ばかりである。
「にゃあにゃ、にゃー」
ふんふんと鼻歌を歌うように、ルイスは機嫌良くクレヨンで何かを描いている。
ルイスが持つクレヨンがスケッチブックに色を乗せるたび、右隣ではウィリアムが、左隣ではアルバートが褒めていた。
「ルイス、クレヨン上手に使えるねぇ」
「綺麗な色合いだ。濃淡の表現がとても上手だね」
褒められて嬉しいのか、ルイスはますます張り切ってクレヨンをぐるぐる動かした。
「けぉ、けーろ」
スケッチブックを見ていても何を描いているのかよく分からないけれど、描きながらおしゃべりしているルイスを見れば大体の予想は付く。
以前、絵本で教えてあげた動物を描いているのだろう。
「こっちは犬さんで、こっちは猫さんだね」
「こちらは蛙かな?」
「そなの!わんわと、にゃあにゃと、けろけ!」
「とっても上手だよ、ルイス」
「ルイスは芸術面でのセンスが輝いているな」
少し前までは発音出来なかった蛙の鳴き声も、今では上手に発音出来ている。
ウィリアムはスケッチブックに描かれている点と線の集まりが、概ね三つに分けられていることに感動した。
これは明確な意思を持って描かれた、ルイスのお絵かきだ。
ただの点と線がとても可愛く尊く輝いて見えてくる。
ウィリアムはクレヨンごとルイスを抱きしめ、アルバートはスケッチブックを両手に取り一人納得したように何度も頷いていた。
「わんわ、わんわーん」
ウィリアムの腕の中でクレヨン片手に、ルイスはアルバートが持つスケッチブックへ呼びかける。
先ほど描かれたばかりのページを見せてあげれば、一番右端の点と線の集まりを見てはわんわんと犬を主張した。
ルイスは犬がすきなのだろうか。
以前生きていた世界では、とちらかといえば猫の方がすきだったように思うのだが。
アルバートはそんなことを考えながらふわふわの金髪を撫でていく。
「ルイスは犬がすきなのかい?」
「わんわ、わん!」
「そうか。わんわんがすきなんだね」
「すちー」
アルバートを見上げてにっこりと笑うルイスは穢れを知らない無垢な赤ん坊だ。
犬がすきなのだとにこにこする姿は見ていてとても癒される。
今のルイスはかつてのルイスと本質が同じだと確信していたが、どうやら細かい部分では違いがあるらしい。
ウィリアムと一緒になって犬の歌を歌っているルイスを見ながら、アルバートは良いことを思いついたとばかりに笑みを深めていた。
「兄さん、それは…?」
「ルイスは犬がすきなようだからね、作ってみたんだよ」
「へぇ、そうですか…」
ルイスが犬好きだと発覚して数日後、アルバートは手に持っていた段ボールからミルキーホワイトの塊を取り出した。
アルバートの両手の平よりも大きなサイズだが、ルイスが持てば抱えるくらいにはなるだろう。
丸みのある尖り耳がふたつあり、つぶらな瞳は見ていると吸い込まれそうだった。
「…犬」
アルバート曰くこの犬、ウィリアムには大層見覚えがあった。
これは前世でも何度か見かけた、アルバート作の謎の生命体だ。
詳細な地図を書くくらいに技術も目も肥えているはずのアルバートなのにデフォルメを描くのは苦手らしいと、以前はルイスとともに無言で頷き合ったものである。
深くは聞けなかったけれど、このキャラクターのことは勝手に妖精のような概念的猫だと思っていた。
だが実際には犬だったのだと、転生した今この瞬間にウィリアムは思いがけず理解してしまった。
「喜んでくれると良いのだが」
アルバートは謎の生命体のぬいぐるみを持って、少しばかり気恥ずかしそうにそう言った。
その瞳の奥には幼いルイスの喜ぶ姿が思い浮かべられているのだろう。
わざわざ自分でデザインしたイラストを元に発注した特別製のぬいぐるみは、アルバートなりのルイスへの愛情なのだ。
そう考えるととても嬉しくて、最愛の弟が敬愛する兄に愛されているという事実がウィリアムの胸をとても温かく照らしてくれる。
「きっと喜びますよ。ルイスのところに行きましょう」
「あぁ、そうしようか」
今日は生徒会の活動がないと聞いていたのに、委員会活動があった自分と同じ帰宅時間になったのはこのぬいぐるみを引き取りに行っていたからなのだろう。
郵送ではなく自ら取りに行くところにアルバートの浮き足だった気持ちを感じるようだ。
二人はルイスが待っているいつもの部屋へと向かうべく、急ぎ足で歩き出した。
「ルイス、ただいま」
「良い子にしていたかい?」
「にぃに、にぃ!」
ルイスは今日もお絵描きをしていたらしく、持っていたクレヨンを放り出して二人の元へとゆっくり歩き出していく。
けれどすぐにウィリアムに抱き上げられてしまい、その腕の中で二人の顔を見上げていった。
「おあーり、にぃに。おあーり、にぃ」
ウィリアムとアルバートは舌足らずな「おかえり」を聞いて、一日の疲れを癒していく。
朝ぶりに兄達と会えてルイスの機嫌はとても良いようだ。
今日も一日、良い子かつ元気でいたのだろう。
それならば何よりだと、ウィリアムはまだまだ小さな体を強く抱きしめては髪に頬を擦り寄せた。
「今日もお絵描きしてたんだね。楽しかった?」
「ん!たのちかったの、わんわ!」
「ルイスは本当に犬がすきなんだな」
「すち〜」
アルバートの問いかけににっこりと笑ったルイスは、ふと前に出された白い塊に大きな目を見開いた。
「う?」
「そんなルイスにお土産だ」
「おみあ…?」
「アルバート兄さんからルイスへのプレゼントだって」
「ぷえでんと」
大きなルイスの瞳よりも随分と小さいぬいぐるみの目。
それと視線を合わせたルイスは、ゆっくり頭の上に付いている耳の先から丸い手足のような胴体までを見ていく。
手足の先まで見終わるともう一度上に向かって視線を動かしていき、その向こうにいるアルバートを見た。
お土産とはプレゼントのことで、つまりこれはルイスのものだ。
そう認識したルイスは両手を伸ばし、ぬいぐるみの耳をぎゅうと掴む。
掴みやすかったのだろうそこはもふもふと柔らかくて、ルイスはその触り心地の良さに目を煌めかせた。
子どもに限らず、大抵の生き物は手触りの良いものを気に入る習性があるのだ。
「ふぁぁ…!」
感動したように耳をもみもみ握り込むルイスは、そのまま小さな手を広げて優しく撫でていく。
毛並みに沿って手を動かすとすべすべの感触が指先に広がって、ますますルイスを虜にした。
小動物のように忙しなく手を動かす姿はとても可愛らしく、アルバートだけでなくウィリアムも微笑ましくその様子を見守っている。
「気に入ってくれたかな?」
「あぃ!」
「それは良かった。これはルイスのすきな動物のぬいぐるみだよ、分かるかい?」
ぬいぐるみの両耳を掴んで離さないルイスにそれを預け、アルバートは気に入ってくれたらしい手触りだけではなく、そのぬいぐるみの正体もきっと気に入るはずだと尋ねてみた。
つぶらな瞳がとてもチャーミングなミルキーホワイトのこの動物。
以前読み聞かせてあげた動物の絵本に出てきた白い犬と全く同じ出来である(アルバート評)
ルイスはその白い犬を指差して「わんわん」と言っていたし、今日を含めお絵描きするときには必ず犬を描く。
犬がすきなのであればこのぬいぐるみもさぞ気に入ってくれるだろうと、アルバートは美しく垂れた瞳を細めてルイスの返事を待った。
ウィリアムは一瞬だけ肩を跳ねさせたが、腕の中にいるルイスは気にせずぬいぐるみを握りしめている。
「にゃあにゃ!」
「え?」
「……」
ルイスは期待に満ちた顔をしているアルバートに向けて、ぬいぐるみを持ち上げながら満面の笑みで猫だと言った。
驚くアルバートと凍った笑みのまま冷や汗を滲ませるウィリアムには気付かないまま、ルイスはぬいぐるみを上下に振りながら楽しそうに猫の鳴き真似をしている。
「にゃあにゃ、にゃーん」
「……」
「……」
「にゃにゃー」
まるでぬいぐるみと会話するかのように目を合わせながらにゃあにゃあ言うルイスはとても可愛かった。
両手で掴んでいた耳を離してその顔を両腕でぎゅうと抱きしめ、感触を確かめてはもふもふのそれに感動している。
アルバートからのプレゼント、こんなにももふもふで可愛い猫のぬいぐるみを貰えるなんてとても嬉しい。
そんな気持ちを全身に滲ませつつ、ルイスはぬいぐるみを抱きしめながら固まっているアルバートを見上げてこう言った。
「ルイ、にゃあにゃ、すち。ねっこ、かわいいねぇ」
「あ、あぁ。ルイスは猫はすきかい?」
「すち!」
「…犬と猫、どちらがすきかな?」
「んー…にゃあにゃ、すち」
「そ、そうか!そうかそうか、ルイスは猫がすきなんだね」
「あぃ」
「ではこの猫のぬいぐるみも大事にしてくれるかな?」
大事にする、と表情と動作で示したらしく、ルイスはぬいぐるみの顔に自分の顔を押し付けていた。
今までに見せたルイスの様子で犬がすきなのだと考えていたのはアルバートだけではない。
ウィリアムも以前とは違い、今のルイスは猫よりも犬がすきなのだと確信していた。
だが記憶のないルイスがアルバートに遠慮してお世辞を言うはずもないし、まだまだ自分本位な幼児が自分よりも誰かを優先するはずもない。
ならばきっと、ルイスはちゃんと猫がすきなのだろう。
どうにも違和感は拭えないけれど、おそらくはそうに違いない。
アルバートは安心した様子で胸を撫で下ろし、ルイスの髪を大きくかき混ぜてから鼻歌混じりに部屋を出ていった。
荷物を置いてくるのだろう、きっとすぐに帰ってくる。
今のうちだと、ウィリアムは未だぬいぐるみを機嫌良く抱きしめてにゃあにゃあ言っているルイスに呼びかけた。
「ねぇルイス。本当に犬さんより猫さんがすきなの?」
「んぅ?すち。にゃあにゃ、かわい!」
「あー…そうだね、可愛いね」
両手で持ち上げたぬいぐるみを見てはっきりすきだと言ったルイスに大方の察しが付いた。
ルイスは犬でも猫でもなく、アルバートから貰ったこのぬいぐるみがすきなのだ。
このぬいぐるみを猫だと判断したから、ルイスはアルバートの質問に犬より猫がすきだと言った。
ただそれだけのことである。
「猫さん、可愛いね」
「ね、かわいー」
アルバートはショックを受けたかもしれないが、あの様子を見るにルイスが気に入ってくれたのなら問題はないだろう。
元より犬なのか猫なのかよく分からない生命体のぬいぐるみだ。
アルバートもあまりこだわりがないか、もしくはルイス以上にこだわることがないのかもしれない。
ルイスが猫だと言ったのなら、この生命体は猫である。
ウィリアムはそう認識して、猫のぬいぐるみに懐くルイスの頭を撫でていった。
アルバートから猫のぬいぐるみをもらったルイスは、それが一番のお気に入りになった。
思えばずっと家でウィリアムとアルバートに構われ、兄が不在のときは母や使用人が常にルイスの面倒を見ている環境だ。
ナーサリーに行く予定もないし、近くに同年代の親戚や知り合いもいない。
あまり気にしたことはなかったけれど、友達がいないのはやはり寂しかったのだろう。
ルイスは起きているときも寝ているときも、必ず猫のぬいぐるみを握りしめるようになった。
「にゃあにゃ、くっきあげる」
「坊っちゃま、猫さんはクッキーを食べられませんよ」
「う?じゃあ、りんご?」
「りんごも食べられませんねぇ。坊っちゃまが猫さんの分まで食べてあげましょうか」
「ん!」
今日もぬいぐるみにおやつを分けようとしているが、食べられないのだと教えられると大人しく一人で食べている。
ぬいぐるみが物を食べられないことは分かっているけれど、どうやら次の日になれば食べられるかもしれないと考えているようで、連日欠かさずおやつを分け与える姿はとても微笑ましい。
ナニーは心優しく育っているモリアーティ家の末弟の世話係として、これ以上ないほど充実した日々を過ごしている。
穏やかで聡明な二人の兄と同じく、このルイスもさぞ優秀な人間に育つことだろう。
「にぃにとにぃ、まだ?おあーりする?」
「もう少しで帰ってきますよ。一緒におかえりをしましょうね」
「あいたいねぇ、にゃあにゃ」
ルイスはぬいぐるみの耳を掴んで勢いよく上下に振る。
少しばかり兄弟仲が深すぎるようにも思うがそれもモリアーティ家の個性なのだろうと、ナニーは子どもの割に力強いルイスを見て微笑んだ。
「ただいま、ルイス」
「ただいま」
「にぃに、にぃー!」
今日は午前中のみの授業だった二人は昼過ぎになってすぐに帰ってきた。
ルイスは早速二人を出迎えるべく、ぬいぐるみ片手にとたとたと駆け寄っていく。
駆け寄るルイスを少しでも長く見ているため、ウィリアムもアルバートも扉の先から足を動かさずにしゃがみ込んでいる。
駆ける勢いそのままにアルバートの腕の中に収まったルイスはぬいぐるみを持ち上げ、おかえりなさい、と舌足らずに出迎えた。
「ルイス、今日はご飯を食べたらお出かけしようか」
「猫さんに会いに行こう」
「にゃあにゃ?あう?」
「そうだよ。ぬいぐるみじゃなくて、動いている猫さんに会おう」
「きっと可愛い。ルイスも気に入るはずだよ」
「にゃー…」
賢いルイスはこのぬいぐるみが生きていないことを知っている。
ウィリアムに教えてもらったにゃーにゃーという声で鳴かないのだから、きっと本物はこのぬいぐるみと同じ姿でにゃーにゃー鳴いては動くのだろう。
だが今まで本物の動物というものを見たことがないルイスは思うようにイメージが付かず、首を傾げて腕の中のぬいぐるみを抱きしめた。
「ルイス、猫さんすき?」
「すち」
「そのぬいぐるみを毎日可愛がってくれてありがとう。名前は決まったのかい?」
「にゃあにゃ」
「ふふ、それは猫さんの鳴き声だよ。本物の猫さんを見て、可愛い名前が決まると良いね」
三人で昼食を取り、付き添いにナニーを連れて、三兄弟はモリアーティ家と懇意にしている家へと連れ立って歩いていく。
ルイスの片手には変わらず猫のぬいぐるみが握られており、もう片手は身長差ゆえにウィリアムとだけ繋いでいた。
近頃めっきり背が伸びているアルバートではルイスの手が届かないのだ。
ウィリアムでもルイスが腕を伸ばしてやっと届くくらいだから、きっと小さなルイスにとっては負担になっているのだろう。
だが抱っこしようとすると途端に逃げ出そうとするため、ひとまずは気遣いながら手を繋いで歩くことを選んでいた。
「ごめんください。モリアーティの者です」
しばらく歩いて着いた先はモリアーティ邸にも負けず劣らずの豪邸だ。
ここには主夫妻が可愛がっている猫が五匹の親子で飼われている。
アルバートもウィリアムも何度か訪ねたことがあり、猫がすきなルイスに本物を見せてあげようとしたため、急ではあるが訪問の許可を得たのだ。
インターホン越しにナニーの声と姿を確認され、自動で門が開いていく。
初めて来る場所にルイスは幾分か緊張した様子だが、ウィリアムの手を握りぬいぐるみを抱きしめることでやり過ごしていた。
「ようこそおいでくださいました。どうぞ、旦那様と奥様がお待ちです」
「ありがとうございます」
兄に倣って会釈をしたルイスはそのままウィリアムの後ろへと隠れてしまった。
ウィリアムもアルバートもそれをルイスらしい仕草だと温かい気持ちで見守っていたが、初めての訪問先でこの態度はあまり良くないかもしれない。
理解ある人達だとは思うがどうだろうかと、アルバートは静かに出迎えた執事を見る。
けれど彼はアルバートの懸念を他所にルイスの様子を見て朗らかに笑い、騒いだりせず良い子ですね、と自然に褒めてくれた。
夫妻に限らずよく出来た使用人達がいるようだ。
アルバートは小さく礼を言って屋敷の中に入り、続いてウィリアムとルイスも入っていった。
「こちらが猫達の部屋になります」
主夫妻に出迎えられた三兄弟は出迎えのお茶とお菓子をいただいてから、今日の目的であった猫達との対面を果たそうとしていた。
「ルイス坊ちゃん、猫がお好きなのね」
「…すち。このこ、ともだち。にゃあにゃ」
「そう、なの…?本物の猫もとっても可愛いから、お友達になってあげてね」
「ん」
初めて見るこの人間、アルバートとウィリアムが友好的に接していたから敵ではないと認識したらしい。
ルイスは持っていたぬいぐるみを盾に、顔を隠しながら猫がすきなのだと言葉にした。
ミセスは前に出されたミルキーホワイトのぬいぐるみを見て首を傾げたが、ルイスからはぬいぐるみに隠れてその様子が見えない。
戸惑った彼女の理由にアルバートは気付かず、ナニーは素知らぬ顔をして、ウィリアムだけはしかと気付いていた。
そうして進められた部屋に入ると、そこにはすぐ見える場所に猫が三匹も寝転がっている。
ふと意識を探れば部屋の隅から二匹の猫が歩き出しており、知らない人間に警戒しているのは明らかだった。
「人に慣れているからすぐに警戒も解けるわ。構いに行くより、待っていた方が猫達が寄ってくるわよ」
あの子がオリバーで、あの子がシャロン、と言ったふうに猫の紹介をする彼女の声をウィリアムとアルバートはしっかりと聞いていた。
猫の扱いは概ね理解しているが、それでも飼ったことはない。
動物は繊細なのだから注意しなければと気にかけながら、ウィリアムは握っていたルイスの手がするりと離れていくのを感じ取った。
「ルイス、猫さんだよ。可愛いね」
「……」
「ルイス?どうしたんだい?」
無言でぬいぐるみを抱きしめているルイスを見て、ウィリアムだけでなくアルバートも不思議そうに声をかけた。
この場の誰よりも小さな彼は、一番近くにいる真っ白い猫と腕の中のぬいぐるみを交互に見やる。
猫を見たかと思えば次の瞬間にはぬいぐるみを見ていて、それを無言で何度も何度も繰り返す。
「ルイス?」
「猫のところに行こうか?」
「どうかしたの?」
不思議に思ったアルバートが名前を呼び、待つのではなく猫の元へ行くことをウィリアムが提案し、ミセスは扉から動かない三兄弟を案じて部屋の中で振り返る。
三人と廊下にいるナニーと執事の視線を一身に浴びているルイスだが、普段ならば注目を集めればそわそわと落ち着かない雰囲気を醸すというのに、今はそれどころではないようだった。
両手でぎゅうとぬいぐるみを抱きしめ、混乱したような、戸惑っているような表情でじっと部屋の中の猫を見ている。
にゃーん
ルイスが熱心に見ていた猫が一際大きく鳴く。
その声を聞いたルイスは小さな肩を大きく跳ねさせ、もう一度ぬいぐるみの顔をじっと見た。
そうしてぽつりと、一言呟く。
「ち」
「ち?」
「ちがう…!」
「え?」
ちがうのー!と叫んだルイスはぬいぐるみを抱えながら部屋の外へ走り出してしまった。
すぐさま待機していたナニーと執事が捕まえようとするも、近頃のルイスは兄達を守るため強くなるのだと一生懸命に体を動かしている最中だ。
元々の素質も相待って幼児とは思えないほどの瞬発力と俊敏性を披露した結果、あっという間に廊下突き当たりの曲がり角に消えていった。
「…」
「……」
時間にすれば一分にも満たない見事な逃亡劇を目の当たりにしたウィリアムとアルバートは、言わば平和な現世に油断していたのだろう。
ルイスが走って逃げ出したという現実を処理するのに、二人らしくない長い時間を要してしまった。
「ルイス!?」
「待ちなさいルイスっ!」
状況を認識できないまま開いた扉を見ていた二人は慌ててルイスの名前を呼び、既に追いかけていたナニーと執事の後を追いかけるように慌てて走り出した。
すみませんすぐに戻ります、この無礼は後で必ず謝罪します、と言い残して消えた二人を見送ったミセスは一人のんびり猫を構う。
「どうしたのかしらね、ルイス坊ちゃん」
猫がすきだと聞いていたのに、とてもそうは思えない態度だった。
初めて見たから驚いたにしても、「違う」とは一体どういう意味なのだろうか。
物静かだとばかり思っていたアルバートとウィリアムも末弟にかかればあんなにも焦るとは、長くモリアーティ家と懇意にしているとはいえ知らなかったことである。
早く帰ってくれば良いと、ミセスは気ままに飼い猫の体を撫でていた。
「…にゃあにゃ、ねこなのに」
逃げ出したルイスは中庭へ出る通路を見つけたらしく、そのまま中庭へ出て花壇の前でしゃがみ込んでいた。
家の外に出てはいけないと言い聞かせられていたため外に出ることはなかったけれど、中庭は家の中にあるから問題ないと考えたのだ。
自宅ではそういうゾーニングだからきっとここも同じだろうと、幼いルイスは賢い判断を下していた。
おめかしした洋服を汚してもいけないと、座り込むことはせずにしゃがむことで走った体を休めている。
「ねこ、ちがうの」
腕の中にはいつも一緒にいる友達のぬいぐるみがいる。
つぶらな瞳と小さな耳、短く丸い手足、ささやかなしっぽ。
読んでもらった絵本の中にいた猫も似たような感じでデフォルメされていた。
だからルイスは猫という生き物はそういうものなのだと理解していたのだ。
それなのに実際の猫は大きな瞳をしていて手足はすらりと長く、しっぽはにょろにょろと長かった。
そもそも、想像していたよりも随分と大きかった。
アルバートに貰ったこのぬいぐるみはルイスの両腕で抱えられるくらいのサイズなのに、あの猫はルイスくらいに大きな体をしていたのだ。
思っていた猫と違うし、だいすきなぬいぐるみと全然違う。
本物を知らなかったルイスが本物の猫に戸惑うのは致し方ないけれど、ぬいぐるみと違う理由はアルバートにあることをルイスは知らなかった。
「ルイス!ここにいたのかい」
「いきなり走ってはいけないだろう!」
「にぃに…にぃ…」
隠れていなかったのだから、花壇の前に一人しゃがみ込んでいたルイスの姿を見つけるのは容易い。
敷地外に出ていなくて良かったと安堵しつつ、ウィリアムがルイスの肩を振り向かせて正面から抱きすくめる。
間のぬいぐるみが邪魔だと思ったが、奪ってはきっとルイスが悲しむだろう。
そう考えて、潰れることを気にせずぬいぐるみごと抱きしめた。
そんなウィリアムごとアルバートが弟達を抱きしめると、もぞもぞと動き出したルイスが兄達を見るように顔を上げる。
その顔には納得いかないような悔しい、もしくは悲しいような表情を浮かべていた。
「…はしって、ごめんなさぃ」
「今度は気を付けよう。ちゃんと謝ることが出来て偉いな」
「それで、どうしたのルイス。何が違ったの?」
「……ねこ…」
いきなり走り出してはいけないと言われていたのに約束を破ってごめんなさいと素直に謝ると、アルバートはすぐに許してくれた。
だがそれでおしまいにするのではなく、走り出した原因を明らかにすべくウィリアムがルイスを見て問い掛ければ、ルイスはもぞもぞと腕の中からぬいぐるみを動かしていく。
自分の顔半分が隠れるまで持ち上げると、大きな赤い瞳がしょんぼりと曇っていることに気が付いた。
「にゃあにゃ、ねこじゃなかったの」
「え?」
「さっきの、にゃあにゃじゃなかった…」
しょんぼりとぬいぐるみを抱きしめる姿は幼いながらも哀愁が漂っていて、ルイスが感じた衝撃を物語っているようだった。
つまりルイスはこのぬいぐるみと同じ生き物と会えると思っていたのに、少しも似ていなかったから「違う」と訴えているらしい。
それは仕方がない。
アルバート作の謎の生命体は相当にデフォルメされており、現実世界には存在しないのだから。
「…えっと、このぬいぐるみの猫さんとさっきの猫が違ったから、悲しかったの?」
「ぅん…ルイ、にゃあにゃにあいたかった」
「ルイス…そんなにもこのぬいぐるみを気に入ってくれていたなんて…」
「にゃあにゃ、ともだち」
ルイスにしてみれば「にゃあにゃ」というぬいぐるみに会うために来たというのに、にゃあにゃではない猫を目にしたのだからショックだろう。
にゃあにゃは猫ではなかったのだろうかと小さな頭でぐるぐる考えている。
ウィリアムも落ち込むルイスにどう声をかけるべきか頭をフル回転させており、対するアルバートはルイスが己のプレゼントを可愛がっている事実に歓喜で体を震わせていた。
こんなにも大切にしてくれている現実がとても美しいと、アルバートはあらゆるものに感謝している。
「…安心しなさい、ルイス。さっき見たのは猫だが、この子も猫だ。少し種類が違うけど、立派な猫さんだよ」
「ねこさん?」
「あぁ猫さんだ。ウィリアムはいつもこの子のことを猫さんと言っていただろう?この子は普通の猫ではない、特別な猫さんなんだ。だからさっきの猫と違っていたんだよ」
「にゃあにゃ、ねこさん?」
「そうとも。特別な猫だから"猫さん"だ。そうだな、ウィリアム?」
「え?あ、はい…そうだよ、ルイス。このぬいぐるみの猫さんはさっきの猫達とは違うんだ。特別に可愛い猫さんなんだよ」
「とくべつなねこさん…!」
特別、という単語はどの年代においても心擽られるワードである。
とうにその意味を理解しているルイスは、途端に腕の中のぬいぐるみがキラキラして見えてきた。
世界に一つだけの特別な猫さんぬいぐるみがこの子なのだ(実際アルバート作なのだから世界でルイスしか持っていないことは確かである)
猫ではない、いわばスーパーな猫こそがこの猫さんである。
そうと分かれば悲しむ必要はなく、ルイスは嬉しそうに可愛いぬいぐるみを腕に抱いた。
幼いルイスを見事に言いくるめたアルバートは満足気にそのぬいぐるみの頭を撫でており、ルイスもアルバートの真似をしてぬいぐるみのお腹を撫でている。
そんな兄と弟を見たウィリアムは、アルバートの強引ながらも機転の効いた言い回しに舌を巻いていた。
「(まさか、僕がルイスに合わせて動物にさん付けしていたのをこうも上手にこじ付けるとは)」
我が兄ながらさすがだと、ウィリアムは密かにアルバートへの評価を上げていた。
そうとは知らない、迸る芸術センスと機転の良さを持ち合わせたアルバートは無邪気に喜ぶルイスをウィリアムの腕の中から奪い、そのまま高い高いをするように抱き上げている。
高い目線に喜んだルイスはぬいぐるみ片手に笑っていた。
「にゃあにゃ、とくべつなねこさん!」
「そうだよ、ルイスの特別な友達だ」
「さっきのねこも、おとなになったらにゃあにゃみたいになる?とくべつなねこさん?」
「きっとそうなるよ。大人になったらその子と同じ姿になるはずだ」
「わぁ、たのちみ!」
いやそれはないです。
そう心の中で呟きながら、ウィリアムははしゃぐ兄と弟に混ざるべく両腕を伸ばして抱きしめた。
(あらアルバート。何を書いてるの?)
(母さん。実はルイスにぬいぐるみのプレゼントをしようと思いまして、そのデザインをしていたんです)
(そうなの、優しいわね。…ねぇアルバート。これは何?)
(犬です。どうやらルイスは犬がすきなようなので、きっと喜んでくれるはずです)
(犬…そう、犬なの…喜んでくれると良いわね)
(アルバートってば、我が息子ながら芸術センスは怪しいものがあるわね…)
(ルイス、可愛いものを持っているわね。それはなぁに?)
(にゃあにゃ!にぃがくれたの!)
(にゃあにゃって…猫なの?)
(ねこー)
(…アルバート、あなた前にこのぬいぐるみは犬だって言ってなかったかしら?)
(何を仰います母さん。ルイスが猫と言っている以上、それは猫ですよ)
(あぁそう…そうね、そうだったわ)