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粋なカエサル

凱旋門とパリ大改造

2017.12.20 23:47

 パリの凱旋門と言えば、普通イメージするのはシャルル・ド・ゴール広場にあるエトワール凱旋門。しかし、パリの凱旋門はそれだけではない。全部でいくつあるか?答えは5つ。「サン・ドニ凱旋門」(1672年)と「サン・マルタン凱旋門」(1674年)はフランスの威力を全ヨーロッパに及ぼす契機となったルイ14世のオランダ戦争勝利の記念。ルーヴル美術館前にあるのは「カルーゼル凱旋門」(1808年)。アウステルリッツの戦いなどナポレオンのヨーロッパ遠征の戦勝記念。その小ささに不満を抱いたナポレオンがより大きな凱旋門として計画し、その死後に完成したのが「エトワール凱旋門」(1836年)。そして最後は、1789年のフランス革命200周年記念に建設された「新凱旋門(Grande Arche)」(1989年)。

 ところで、最も有名な「エトワール凱旋門」。なぜ、「エトワール」=「星」と呼ばれるのか?地図を見るとすぐにわかる。ここから通りが放射状に延び、地図上で光り輝く「星=エトワール」のように見えるからだ。放射状に延びる通りの数は、何と12本。そのうちの8本(シャンゼリゼ通りもそのうちの1本)を造ったのが、ナポレオン3世の命を受けてパリ大改造(1853年~1870)年に取り組んだオスマン男爵。彼によって、現在のパリの開放的な街並みが築かれた。1816年、パリで初めて設置されたガス灯は、1860年に街路照明の管轄が警察からパリ市へ移行されたことで10年間で1万5千個増設 。治安は飛躍的に向上。人々は、安心して街のそぞろ歩き、ナイトライフを楽しめるようになった。日常生活の激変、それを絵にしたのが印象派の画家たちだった。

 (ヴァルター・ベンヤミン「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」)

「 街路を室内と見るところに遊民の幻像は集約されるが、この現象はガス灯の照明と切り離しがた く結びついている。・・・・・ナポレオン三世の治下で、パリのガス灯は急速に増えてゆく。これにより都市の安全度は向上し、公道上の群集は夜でもくつろげるようになった。」

(エトワール広場【現シャルル・ド・ゴール広場】 )

(「オペラ大通り」開通のために壊される建物)

  まるで空襲直後のようなパリの街

(写真家シャルル・マルヴィルが記録 した大改造前のパリ)

  排泄物、生ゴミの路上への投げ捨てが日常化し、「細長く暗いじめじめとして悪臭を放つ路地」 (バルザック)は伝染病の温床となっていた

(アンペラトリス大通り【現フォッシュ大通り】1900年)

  着飾って、ブーローニュの森までの散策を楽しむ人々

(1898 ピサロ 「オペラ大通り」)

  大改造で開放的な空間となったオペラ大通り

(1876 ルノワール 「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」)

  モンマルトルのダンスホールでナイトライフを楽しむ人々