粗にして野だが卑ではない 石田禮助の生涯
「租にして野だが卑ではない」このタイトルが面白くて読んで見ました。
78歳にして国鉄総裁に就任した石田禮助さんを描いた評伝です。石田さんは、1886年(明治19年)、静岡県賀茂郡松崎町の漁師の家に生まれます。麻布中学校を経て、その後、東京高等商業学校(今の一橋大学)を卒業。三井物産に入社します。入社後は、取締役、 常務取締役、代表取締役社長へと順調に上り詰め、1941年(昭和16年) に退社。第四代国鉄総裁、十河信二の後任として、1963年(昭和38年)第四代国鉄総裁、第五代国鉄総裁に就任します。
「国鉄総裁」というポストは聞こえはいいですが、その実態はまったく別物。政府の指揮監督は受ける、国会の監督も受ける。従業員数は46万人と一人のトップが管理できる人数を遥かに超えた部下を統率しなければならない。給与も、運賃も自らきめることが出来ない。その上、農産物輸送は国鉄の公共性を重んじられ、採算度外視の低料金、運輸以外の副業は禁止され、新線の建設は各地から押し付けられる、、、という実質的な権限がまったくないもので、おまけに従業員46万人をバックにした巨大な労働組合も存在します。そのお飾りに過ぎないようなポストを石田さんは78歳にして引き受けたのです。
そのポストを引き受けた最初の国会で石田は、「嘘は絶対つきませんが、知らぬことは知らぬと言うから、どうかご勘弁を。」「生来、粗にして野だが卑ではないつもり。ていねいな言葉を使おうと思っても、無理に使うと、マンキー(猿)が裃を着たような、おかしなことになる。」と型破りな自己紹介をします。この時の「生来、粗にして野だが卑ではないつもり。」という発言が有名になり、本書のタイトルにもなっています。
著者は、城山 三郎さん。1927(昭和2年)名古屋生まれ。経済小説の開拓者であり、伝記小説、歴史小説も多く著している作家です。(Wikipedia) 日本の成長期を支えた男たちの人生を一種のロマンと、切れの良い語り口で描写する作家性は、白洲次郎や渋沢栄一など多数の評伝を書いた北康利さんと共通しているように感じます。城山さんは、海軍特別幹部練習生として終戦を迎え、一橋大学卒業後、1957(昭和32)年、『輸出』により文学界新人賞、1959年『総会屋錦城』で直木賞を受け、以後、作家としての活躍が始まります。
石田さんのぶっきらぼうで、型破りなものいいは、マスコミや反対勢力からの格好の批判のネタとなり、誤解や中傷を受けることもたびたびありました。例えば、前述した最初の国会でのあいさつにおいては、「国鉄が今日の様な状態になったのは、諸君(国会議員)たちにも責任がある」とストレートに心情を語り、これには怒りを通り越し、あきれかえった議員もいたようです。また、乗客の命を運ぶ運転士のいる国鉄職員の待遇が三公社並みであるのはおかしい、とたばこをつくって売ればいいだけの専売公社の仕事とはちがう、と専売公社の職員から反発を招いたこともありました。
このような言動から、著者の城山さんは、石田さんを武骨で、破天荒。時には自分の信念から発せられるストレートな物言いで誤解されやすい人間として語っていますが、同時に心の内に、ノブレス・オブリージュ(身分の高いものが、それに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務)を秘めた、正直な人間として石田さんを描いています。総裁在任中に勲一等を贈ると言われた時、「おれはマンキー(山猿)だよ。マンキーが勲章下げた姿見られるか。見られやせんよ」と言って固辞したのですが、この言葉も彼の謙虚な信念の裏返しのようにも聞こえます。。
石田さんは、「私の信念は何をするにも神がついていなければならぬということだ。それには正義の精神が必要だと思う。こんどもきっと神様がついていてくれる。そういう信念で欲得なくサービス・アンド・サクリファイスでやるつもりだ。」(P19) と、どこかの席で語ったのですが、若いころからキリスト教や仏教にも興味を持ち、宗教関連の本も多数読んでいたのです。おそらく特定の宗教というより普通の人が、思う普遍的な神様という存在をを畏敬の対象にしていたのだと思います。また、シアトルやカルカッタなどの海外支店にもいたこともあり、どこかアメリカ人的な合理主義と、日本を外から見るような考え方で客観的に日本人の長所、短所も理解していたのでしょう。もちろん、大手商社で成功を収めただけあって、大連支店長時代の大豆の取引、ニューヨーク支店長時代の錫の取引などで成功した商才も持ち合わせていました。
総裁在任中は、パブリック・サービスの概念を徹底させ、民間企業にあるような経営合理化に取り組み、赤字路線の廃止を提唱し、名神ハイウェイバス参入、また、それまでの一等車・二等車という客席の呼称をグリーン車・普通車に変更。鶴見事故後の安全対策や連絡船の近代化などに尽力。1969(昭和44)年、6年間務めた国鉄総裁を辞しますが、国鉄本社の建物を去る時には、国鉄職員だけでなく、外の道路やその先の歩道橋にも多くの人がつめかけ去り行く第五代国鉄総裁との別れを惜しんだということです。