Okinawa 沖縄 #2 Day 180 (10/05/22) 旧宜野湾間切 (3) Uchidomari Hamlet 宇地泊集落
旧宜野湾間切 宇地泊集落 (ウチドゥマイ、うちどまり)
- キャンプ・ブーン (Camp Boone) 跡
- 南部整備大隊跡
- 大謝名特飲街
- 宇地泊公民館
- 共同拝所、宇魂之塔
- 兼久原遺跡群
- 西原丘陵古墓群
- 龍宮神
- ナークガマ
- マヤーガマ
- ヒートゥージー
- ウグワンシー山
- ジャナマガヤー
- クンカー
- 奥間ノロ墓
- 宜野湾マリーナ海浜公園
- 真砂の碑
- 宇地泊港
- 宇地泊の入江
- A&W 牧港店
大謝名集落巡りに続き、隣の宇地泊集落に移る。
旧宜野湾間切 宇地泊集落 (ウチドゥマイ、うちどまり)
国道58号線 (旧軍用1号線) の大謝名三叉路を海岸側に越えた地域に密集していた集落が宇地泊 (ウチドゥマイ) で、1671年に宜野湾間切が成立するまでは浦添間切に属し、絵図郷村帳には、浦添間切内みな村と記載され、 琉球国由来記では宇地泊村、琉球国旧記では内港邑とある。 「みな」は「内みなと」の略で、 内港、内泊と書いたのを、ウチトマリと読むようになった。宇地泊集落は北側は真志喜部落、東側は大謝名部落に接し、小字は兼久原 (カニクバル)、瀉原 (カタバル)、浜原 (ハマバル)、西原 (イリバル)、東原 (アガリバル)、宇地泊原 (ウチドゥマイバル) があり、集落の大半は東原と西原に形成されている。 戦前の集落は宇地泊原にあり、南西側は牧港の入江に面していた。
琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: 宇池泊之嶽 神名: 不伝、ウグァンシー山?、ヒートゥジー?)
- 殿: 記載なし
年中の祭祀では、正月と2月、3月には麦のウマチー、5月、6月には稲のウマチーの農耕儀礼としての御祭があり、ウマチーの拝みの順序は大屋 (ウフヤ) から始まって、クガニナー、クンカーそして牧港のテラガマを拝したという。この日は綱引もあったそうだ。それに加えて、4月1日の海ヌ御願はタクグッークェーとも称して、戦前には漁夫を中心に拝所となっているヒートウジーと集落の根屋である大屋 (ウフヤ) を航海安全、豊漁を祈して拝し、タクグワークェー毛で、盛大に海神祭を催していたといた。ヒートゥジーで、た。その日の収穫物は、 真志喜大山へ供した。集落の聖地は、ウグァンシー山、ヒートゥジー、クンカー、大屋 (ウフヤ) である。その他に、三月遊びが3月3日にあり、青年男女は適当な家を一戸借り、一晩中歌い踊り楽しく過ごした。8月10日はカンカーで、部落の西側、西毛で牛をつぶし、肉は集落民に分配された。 シマクサラシという部落への厄除けを行い、各家では柴差が行われた。現在では、宇地泊集落自治会では、4月1日の海神祭だけを村の御願行事として行なっている。
公民館前に集落マップが置かれていた。事前に調べたものとこのマップに沿って、集落を巡る。
宇地泊集落訪問ログ
キャンプ・ブーン (Camp Boone) 跡
戦後は米軍がこの地を接収し、キャンプ・ブーン (牧港J地区 Machinato J Areaともよばれた) を設立して憲兵隊司令部、陸軍中央パス発行所、野外集積場、陸軍中央パス発行所、陸軍民間人事部などを敷設し、主に基地の治安維持、保全を図るための施設を集約し、1974年まで使用されていた。当時、大謝名には兵舎、真志喜にはキャンプ・マーシー、宇地泊にはキャンプ・ブーンがあり、普天間飛行場、キャンプズケランと合わせて、宜野湾市の46%余りが軍用地だった。下図は戦後の米軍基地として接収された地図になる。比較的平坦な土地は普天間飛行場として利用され、耕作地として最も適した土地は奪われていた。集落住民は帰還しても、元の耕作地はなく、どのように生活をしていくのかは課題だった。
沖縄戦では壕や墓の中に避難していた宇地泊住民は、1945年 (昭和20年) 4月に捕虜となり、米軍により、既に4月4日に開設された野嵩に収容された。その後、大山に移り、1951年 (昭和26年) 東原に居住が許された。帰還まで5年かかっている。1969年に返還が始まるのだが、この時に返還されたのはキャンプ・ブーン (Camp Boone) 敷地の僅か1.3%だった。全面返還されたのは、本土復帰2年後の1974年で、戦後約30年たってからだ。
宇地泊集落の変遷を時期ごとの地図で見ると、それがよくわかる。1919年 (大正8年) の地図に元々の集落がある。戦後、1945年に米軍作成の地図には集落は消滅している。キャンプ・ブーンが返還された1974年の翌年の地図には、1951年に帰還が許され住み始めた東原地区に民家が集中し、西側の元々集落があった西原地区にはまだ民家は少ない。
宇地泊が発展し始めたのは、海岸が埋め立てられ、2000年に宜野湾バイパス道路が造られ、合わせて公園や大型商業施設 (宜野湾コンベンションシティ 2012年開設、写真左下)、ホテル建設 (ムーンオーシャン宜野湾 ホテル&レジデンス 2010年開業、写真右下) が進んだ頃の様だ。現在は元々集落があった西原地区にもぎっしりと民家が密集している。
この集落変遷は宇地泊の人口推移にも表れている。沖縄戦で人口は減少し、その後のだか収容所、大山での居住していた時代に人口は自然増となっている。1951年に東原への帰還許可以降は人口が激減している。この理由は見当たらなかったが、多くの住民が住んでいた西原は米軍基地となり帰還が叶わず、この時点で帰還をあきらめ転出していった住民が多くいたのではと推測する。それ以降1963年にかけて人口が激増している。これも理由は見当たらなかったが、他の集落と同様に、米軍基地殿仕事を求めて、外部から転入してくる多くの人がいたことによるだろう。(沖縄ではこのような外から転入してきた移住者を寄留民と呼んでいた。この言葉には、よそ者という少し差別的意味合いもある。) その後、人口が増えるきっかけは、キャンプ・ブーンが返還された1974年以降と海岸埋め立てで開発が進んだ2000年以降になっている。
この宇地泊を取り巻く時代による環境により、宜野湾市の中での位置が異なっている。宇地泊の発展の時期は二つあるように思える。一つは米軍基地による雇用が創出された時期と、海岸埋め立てにより総合開発が進んだ時期にあたる。
南部整備大隊跡
元の宇地泊集落があった場所にガジュマル児童公園があるのだが、この付近には、本土復帰前までは、米軍施設等の警備を担当する軍雇用員が働いていた南部整備大隊が置かれていた。南部整備大隊は当時の軍道30号線以南の米軍施設等の警備を管轄していた。また、米人住宅がとなりあわせのため、子供らも少々の英語を話し、米人と遊んでいるのが見受けられたという。
大謝名特飲街
キャンプ・ブーン (Camp Boone) の南側は国道58号線に隣接し、三叉路となっている大謝名交差点を中心に、東側にキャンプ・マーシー、そして南側に普天間基地があり、米兵向けの歓楽街として大謝名特飲街が形成されていた。(字大謝名地区内にある)
宇地泊公民館
公民館の場所をGoogle Mapで調べると、見つかったのだが、その航空写真には公民館は写っていない。調べると、この公民館は2017年9月に完成したとある。以前の村屋がどこにあったのかは見つからなかったが、以前の合祀所はここより、国道58号線との間ぐらいにあった様で、そこに以前の公民館があったと思われる。また、元々の集落は宇地泊原にあったので、村屋もその地域にあったと思われる。
共同拝所、宇魂之塔
公民館の敷地内にかつて村にあった拝所を集めた合祀所の祠があり、その中に移してきた香炉が置かれている。中は二つに仕切られており、向かって左側には香炉が六個あり、西ヌ御嶽、大屋 (ウフヤ) の火ヌ神、宇地泊の火ヌ神が、 右側には香炉が四個置かれ、東ヌ御嶽、宮里 (ナーザト) の海神様が祀られている。公民館の東に「合祀祠」がある。その中には 香炉が六個安置されている。 西ヌ御嶽、東ヌ御嶽については詳細は見つからず、また琉球国由来記にはこの二つの御嶽については見当たらず、宇地泊の御嶽としては「宇地泊之嶽」が記載され、ウグァンシー山、ヒートゥジーに相当するとなっていた。位置関係から西ヌ御嶽が西原にあるヒートゥジー、東ヌ御嶽が東原にあるウグァンシー山の事と思う。村の根屋とされる大屋 (ウフヤ) は公民館の近くにあったようだ。
共同拝所の隣には宇魂之塔が置かれ、戦争で犠牲になった集落住民115柱 (内沖縄戦戦没者46柱) が祀られている。宇魂之塔は1956年 (昭和31年) に建立され、集落の戦没者93名が刻銘されている。1989年 (平成元年)、公民館の建設に伴い、西原丘陵古墳群墓地の一角に移されたが、2017年に真公民館が完成した際に、再度この地に移されて現在に至る。毎年、8月15日に慰霊祭が行われている。沖縄戦では集落住民の約20%にあたる132人が犠牲になっている。
兼久原遺跡群
現在の公民館の北側の兼久原 (カニクバル) には、約6,000年前から琉球王府時代までの遺構が見つかった兼久原遺跡群遺跡がある。当時の人々の住居跡や埋葬した跡などが見つかっている。
西原丘陵古墓群
宇地泊集落の北側の丘にも古墳群が見つかっている。西原丘陵古墓群と呼ばれ、宇地泊集落の墓域で、多くの亀甲墓がある。
龍宮神
西原丘陵古墓群の丘は、西之御嶽と思われ、その丘の北側麓に、龍宮神を祀る拝所があり、鳥居と祠が置かれている。祠の中には、いくつもの供え物があり、今での集落で拝まれていることが判る。宇地泊集落は戦前までは、半農半漁で生計を立てていた部落で、戦前には漁夫を中心に旧暦4月1日にはタクグッークェーと呼ばれる海ヌ御願が行われており、関連拝所を拝んでいた。この龍宮神も、現在でも海神祭 (ウミノウグワン) においても拝まれている。
ナークガマ
資料には「宇地泊西原丘陵古墳群があり、このキャンプ内にはナークガマがあり、浜下りや屋敷の厄払いの時に利用したところと伝わっている。」とあり、龍宮神の側にあるように地図には記載されていた。この辺りにガマを探すと、龍宮神の隣にそれらしきものがある、洞窟の中にも拝所が置かれ、「御先龍宮神」が祀られている。洞窟の上にも拝所と思われる石が置かれている。資料にはこの洞窟で御願が行われていたとあるので、この場所がナークガマだろう。個人的推測では、御先龍宮神ともあるので、元々はここが御願所で、先ほどの龍宮神は後に造られたと思われる。
マヤーガマ
宇地泊西原丘陵古墳群の丘の崖の斜面には、洞窟墓や岩陰墓がある。古い形式の墓で、マヤーガマ、またはマクジャーガマとも呼ばれており、昔の墓として利用された洞窟になる。もう墓を管理する子孫も絶えてしまったのだろう、墓は入り口が開いており、中には壊れた骨甕、骨壺が散らばっている。人骨も散在していた。
ヒートゥージー
復帰後返還された基地内にあった宇地泊西原丘陵古墳群の丘の上からは宇地泊一帯が見晴らせ、この高台に大岩があり、その前に香炉が設置され、ヒートゥージーと呼ばれる拝所となっている。資料によっては、ここが宇池泊之嶽としているものもある。漁夫等が中心に、旧暦4月1 日のタクグヮークェーと呼ばれた海神祭 (ウミノウグワン) の際に拝まれている。このヒートゥージーの側にあるヒートゥモー (西ヌ毛、イリヌモー) と呼ばれる広場では、年の初めに獲れたヒートゥ (イルカ、ごんどうくじら) を解体し、その頭を供え、地域住民に分配しました。海神祭では、このヒートウジーと集落の根屋である大屋 (ウフヤ) を航海安全、豊漁を祈して拝し、タクグワークェー毛で、盛大に海神祭を催していた。この海神祭は集落で最も重要な祭祀だった。
ウグワンシー山
宇地泊のかつての重要な聖地がもうひとつある。国道58号線沿いにあったのだが、現在は影も形も無い。以前は周辺に松などの樹木が生え、真ん中に大きな岩があり、その前に3個の海石が安置されて、ウガンシーの拝所が存在していたと伝わっている。この拝所があった山をウグワンシー山と呼んでいた。ウマチーの時には、山の周囲を縄でめぐらしたという。この聖地は大正11年に土地売却によって 畑地に変わり、ウガンシーは、宗家の屋号大屋 (ウフヤ) の側に移設され、火の神も屋号大屋に移された。さらに戦後、ウガンシーは公民館敷地に移された。 公民館敷地内にある合祀祠の中には移設されて祀られている。
ジャナマガヤー
ウグワンシー山の東側には、戦前、旧県道が走り、大きく西に曲がっている場所があり、ジャナマガヤーと呼ばれていた。
クンカー
大謝名にあるのだが、宇地泊の産井 (ウブガー) で、 若水 (ワカミジ) や産水 (ウブミジ)、死水 (シニミジ) に使っていた湧水。
奥間ノロ墓
国道58号線が牧港川を通過する所、川沿いに立派な墓がある。この地域を管轄していた謝名ノロを葬っている墓。資料によっては宜野湾ノロの墓となっていたものもあるが、この二人のノロは別人なので、何かの間違いと思える。
謝名ノロの墓は、元々はハンタヌシチャーと呼ばれる崖地にあったが、崖地も無くなり、 現在地へ移されている。
宜野湾マリーナ海浜公園
宇地泊の海岸は2000年ごろに埋め立てられて、そこには宜野湾マリーナ海浜公園になっている。綺麗に整備された公園で宜野湾マリーナとの間には水路が走っている。
真砂の碑
宜野湾マリーナ海浜公園内に真砂の碑が置かれている。「うちどまり 真砂子 てぃーだる 粉らしゅる 御月 粉さしゅる 浜の真砂子」と琉歌の宇地泊節が刻まれている。昔はこの様に謳われる美しい 真砂の浜の情景が伸びていたのだ。
この地域は埋め立てられて、かつての砂浜は失われてしまったが、宜野湾マリーナ海浜公園を北に進むと砂浜のビーチがある。沖縄では既に夏で、海水浴を楽しんでいた。
宇地泊港
宜野湾マリーナ海浜公園の入り口の所に宇地泊港がある。小さな港だ。戦前の宇地泊集落は宇地泊原にあり、南西側は牧港の入江に面し、宜野湾村唯一、半農半漁の部落で糸満漁夫の出入も多かった。この港は埋め立て後に造られたもので、元々、宇地泊集落の漁港ではなかった。ここで、人見知りをしない野良猫の相手をしながら休憩。この猫以外にも、多くの猫が、我が物顔で闊歩している。
宇地泊の入江
前述したように、 宇地泊と牧港に挟まれた「ンナトゥ」 は古くから港として利用され、河口が大きく湾入するために波が静かである上、水深が深く大型船も入港できる三角江を形成していた。そのため、近世には中国船や日本船が来航して交易が盛んであったという。 宇地泊は、このような地形に恵まれたことから、 宜野湾村で唯一、半農半漁を生業とした部落で、漁撈と無縁な世帯は皆無であったという。
下の写真は昭和10年頃の宇地泊の入江を撮影したもの。 山原船の後ろに牧港橋が見える。ちょうど写真をとった場所は、バジルホールのスケッチにも描かれている。
これで宇地泊集落巡りは終了し、そろそろ帰る時間となった。家に向かい出発した所でレトロ調のA&Wが目にとまった。
A&W 牧港店
集落巡りの途中に、沖縄ではよく見かけるツマグロヒョウモン蝶を見かけ、写真を撮った。かなり接近しても逃げず、しかも羽をちゃんと開いてくれた。今までで一番よく撮れた写真だ。
参考文献
- 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
- ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
- 宜野湾 戦後のはじまり (1009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
- 宜野湾市 地理学実習現地調査報告書 2019年度 (2020 京都府立大学文学部歴史学科文化遺産学コース)
- 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
- 宇地泊西原丘陵古墓群 (2008 宜野湾市教育委員会)