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何度も何度も繰り返し学習すること

2022.05.08 04:23

パーマカルチャーを学ぶまで、その辺に生えている草を食べるという習慣は、“つくし”や“フキ”くらいしかなかったけれど、何だたんぽぽも、つゆくさも、スギナも、すかんぽ(いたどり)も、カラスノエンドウも、葛も、からむしも、かんぞうも、わらびも、ぜんまいも、結構食べられる草ってあるのね~と知ってから、お散歩するときは完全に収穫eyeになっている私。


何度も何度も繰り返して収穫していると、食べれるか食べれないかがわかる。


何度も何度も繰り返していると、灰汁がどれほど強いのか、それをどうやって食べやすくしてけばいいのかが、昨年はすごいいろいろ本やネットを調べていたけれど、今年は調べなくてもどうやって灰汁を抜けばよいかがわかる。


こんな風にして繰り返していくうちに、調べなくてもいいほどに、意識もしなくてもいいほどに無意識的に自分の中に落とし込まれていく。


そのような変化を全体的に眺めてみたときに、

心の構造と同じだなということに気付く。


新しいモノやコトに意識を向けなければ、

変化というものは起きることはない。


つまり、新しいモノやコトに意識が向けば、変化は起こる。


新しいモノやコトはいつでも私たちの周りにあって、それに気づくこともできるし気づかないこともできる。そのアンテナをどのようにはるかがとても大切で、そこに必要なことは、自分の未来をどんな風にしていこうかなぁと考えるきっかけだったりする。そのきっかけもこの記事を読んでいる方には届くんだろうけれど、当然届かない人もいる。それはその人のタイミングなんだろうなぁと。


目に入るもの、もらうチャンスに対して自分はどのように振る舞いを決めるのかということはとても大切なことだと認識している。というのも、必要だからそれは起きているのであって、無意味なものなど一つもない。スルーするか、掴むかは、やはりその人のタイミングがある。


先日、友人と食事の後、デザートのお店に行く途中、あまりにも鮮やかに書店の看板が目に飛び込んできたので、入ってみた。すると、書店のスタッフが上の階で個展を開いているという。こんなことって日常にはない。だから見てみることにした。3階では、紋の個展をやっていて、6畳くらいの小さなスペースに7-8名の人がいたように思う。その中でも少し面白いアイボリーの着物を着た人がいた。ひきつけられるようにその人のそばに行くと、紋を描いた当人だった。「これ面白い紋様ですね」するとその人は言った。「もともとは、着物に紋を書く仕事をしていたのですが、私にはベジェ曲線が引けなくて、円ばかり書いていたら、その中に絵が出てくることに気付いたんですよ。これは、日本橋の麒麟です。」私は、それってすごい面白いじゃんって思った。この人は、ベジェ曲線というものが描けなくて、その場を離れたのではなく、円を描き続けることをしたのか~。

そういった一連の流れをそばで見ていた友人は、

少し驚いたように「みきさんって、面白いね」と言ってくれた。


全ては、その場にいる環境の中から可能性が広がっていく。ユニークなのは、困ったなぁというところから広がりが出てくる。たいていそうだ。一人一人に与えられている困ったなぁという環境は、そこから何かを見出すためにそこにいるんじゃないかなと思う。


私のところに来るお客さんには、気になることはメモしておいてくださいと伝えている。日常で気になることは、合図であることが多い。以前それを伝えている人からセッション中に話が出た。「とある新聞記事が目に飛び込んできて、その内容がとても興味深くて、活動に協力したいんだけれど、メンバー募集はしてなかったんだよね」と。話を聞くと、これまでセッションの中で扱ってきた彼の人生におけるネガティブな経験に直結しているような内容で、なにより本人の興味と関心が半端ない。

私の答えは「で?」だった。やりたいと思っているのにやらないの?それであきらめていいの?という後押し。長い付き合いで、関係性ができているので、(今思えば→)かなり雑な聴き方でも苦笑いしながら理解してくれた。「そうだよね」と言って帰った後、早速その活動団体に連絡して、メンバー募集は行っていないのに、自らプレゼンをして活動の一員になった。コロナ化の中、彼が持っている知識と経験が活動団体の活動を継続させることになり、しばらくしてから活動団体が総理大臣賞をもらえましたと連絡を受けた。


日常にやってくるメッセージを必要なことと受け取るか、そんな意識を持たずに過ごすのかは大きな違いを生み出すのではないかと思っている。そして、常に意識にあげている人たちは、何度も何度も意識して日常を過ごすことを繰り返しているので、無意識的にキャッチする能力が備わり、意識していない人たちは、何度も何度も意識しないことを無意識的にやっているので、スルーするのが当たり前になっている。


良いとか悪いとかではない。


何度も何度も繰り返して身に着けただけのことだ。

つまり学習してきたこと。


もし、これを読んでくださっている方がいて、日常の出来事を何気なく過ごしているならば、ちょっと意識にあげてみるということをしてみたら?という提案をしたい。


私たちの日常に不必要なことなど何もない。起きることはその人の人生にとって全部必要なこと。(もちろん、こんなん、来んでもええ!いらんのじゃー!と叫びたくなることもあるけれど、実はそういう中に最も重要なものが隠れていたりする)


困難と思える中から、大切なメッセージを見つけ新たな行動を起こすことができれば、それは重要な未来につながるきっかけとなる。


だから彼は、紋様の世界に居て、その世界で円を描き続けて、その中から独自の紋を見つけ出し、そして必要な人と出会って個展を開くことになったんだろうなと。そして、それがフルラやヨージヤマモトなどのブランドとのコラボに結びついていて、どんどん活動の場が広がっているとのことだった。


何度も何度も繰り返している心の構造に変化を見出していくことは、一人でやるには少し難しいかもしれない。けれど、少し興味と関心の矛先を変えるだけで、いろんな世界が広がっていく。


新しいモノやコトの代わりに、新しい考え方を意識するだけでも変化は訪れる。


「気になるな」とか「困ったな?」と感じるときにつぶやいてほしい言葉。

「どんな未来のために私にこれを見せている・聴かせている・させているのか?」

すると不思議なことに、それに対する答えは、近いうちにやってくる。それは、人やモノや出来事を通して。そして、やればやるほど早くなる。


なぜなら、問いがあるところにしか答えは出ないからだ。


もしかしたら、すぐに答えが出ると思っているかもしれないけれど、急がないで、ゆっくりと待ってほしい。答えがすぐに出ないことを“悪い”と思ってしまうと、自分が悪いからだと現実の解釈を歪め、むやみに自分を責めたりして、ストレスになるから、身体が緊張してますます答えが出にくくなる。常に意識にあげることをしていなかったならば、しばらく時間がかかるかもしれないと思って取り組んでもらうといいと思う。


そして、素晴らしいことに何度も何度も繰り返していくうちに、学習が繰り返されて、どんどんうまくなっていく。


何度も何度もやることで、知らず知らずのうちに学習すること。


野草の灰汁取りが、これは心の構造と同じなんだと感じたら、いろんなものが出てきて、気が付けば3000文字。この辺でやめておこうかと思う。