圓・円・YEN
円安になったと世間では大騒ぎだが、1ドル360円時代に育った私からすれば、1ドル130円は、円高じゃん!とつい思ってしまう。要するに、円に限らず、何事も高い低いなんて、相対的だというこっちゃ♪
また、5月10日、財務省は、税収で将来返済する必要がある国の借金「長期債務残高」が18年連続で過去最高を更新し、初めて1千兆円の大台を超えたと発表した。
そこで、ちょうど良い機会だから、なぜ日本の通貨を「円」と言うのか、なぜ「円」の表記が「YEN」なのかについて、調べてみた。
1 なぜ日本の通貨を「円」と言うのか?
財務省は、「日本のお金は、どうして「円」というのですか」という質問に対して、「「円」は、明治4年に制定された「新貨条例」で初めて通貨の単位として定められましたが、その際の経緯を裏付ける資料が残っていないため、正確にはわかりません。」と回答している。
う〜ん、財務省が分からないのであれば、自分で調べて考えるしかない。やれやれ。。。苦笑
通貨の名称は、重さの単位に由来することが多い。金貨や銀貨で商品を購入する際に、その硬貨の重さを計ってその価値を判断し、代金として支払っていたからだ。これを秤量(ひょうりょう)貨幣という。
例えば、古代ローマ帝国では、硬貨の重さのことを「ポンド」と言い、秤(はかり)のことを「リブラ」と言うので、通貨のことを「リブラ・ポンド」と呼んでいた。
その名残りが、イギリスの通貨の「ポンド」だ。タイの「バーツ」、メキシコの「ペソ」、ドイツの「マルク」、イタリアの「リラ」も、重さや秤を語源とする。
江戸時代の「両(りょう)」・「分(ぶ)」・「朱(しゅ)」も、もとは重さの単位だ。
ところが、「円」は、重さの単位ではない。「円」は、戦前までは「圓」(えん)と書き、丸いという意味だからだ。
なお、「円」は、「圓」の略字(支那にはない日本独自の略字で、明治以前から用いられていた。)で、戦後、常用漢字となった。
では、なぜ我が国の通貨は、「圓(円)」なのだろうか?
支那(シナ。chinaの地理的呼称。)の明(ミン)国では、メキシコドル銀貨のことをその丸い形状から「銀圓」と呼んでいた。
明国では、銀貨の鋳造を行わなかったため、銀を通貨として用いる場合には、銀の固りを秤量貨幣として用いて、銀の重さがそのまま価値として認められていた。
そして、大航海時代以降、丸いメキシコドル銀貨が国際的な貿易の支払い手段となった。その結果、明国では大量のメキシコドル銀貨が流入して、明国内でも秤量貨幣として流通するようになり、「銀圓」と呼ばれるようになったわけだ。
その後の清国でも、事情はほぼ同じだった。アヘン戦争後は、この傾向がさらに強まり、1867年(日本では大政奉還が行われた年。)、イギリス領香港では、ビクトリア女王の肖像とともに「壹圓」と表記された香港ドル銀貨が鋳造された。
この点は、我が国も同様であって、メキシコドル銀貨を「銀圓」と呼んでいた。
安政5年(1858年)の日米修好通商条約第5条で、両国貨幣の金銀等価交換が認められていたが、日本の金銀比価は、金1に対し銀4.65であり、諸外国の相場(金1対銀15.3)に比べて銀の価値が高かった。
平たく言うと、外国では、金1gと銀を交換するためには銀15.3gが必要だったのに対して、日本では、金1gと銀を交換するためには銀4.65gがあれば足り、外国で交換するよりも銀の量が少なくて済んだので、アメリカから日本に銀を持って行って金と交換すれば、諸外国の約3倍の金が手に入るわけだ。
幕府も、この不条理が分かっていたので、下田協約の交渉過程で金貨基準の貨幣の交換を主張したが、アメリカ公使ハリスは、当時のアジア貿易で一般的だった銀貨基準の交換を主張して、決して譲らなかった。
その結果、少ない量の銀貨で日本の金貨である小判と交換して安く日本の金貨を手に入れることができたので、アメリカは、大量のメキシコドル銀貨を日本に持ち込んで日本の金貨と交換して巨万の利益を得ていた。これにより、日本の金が大量に海外に流失したため、日本経済に混乱が生じた。
そこで、安政7年(1860年)、遣米使節目付として渡米した小栗忠順(おぐり ただまさ)は、フィラデルフィアで、アメリカ人当局者の目の前で、小判と金貨を秤にかけて、当時の相場に基づいて、算盤を弾いて、金銀比価を割り出し、日米修好通商条約及び銀貨基準の交換の不合理性を数学的に証明して見せたものの、残念ながら比率の改定には至らなかった。
しかし、多くのアメリカの新聞は、小栗を絶賛する記事を掲載した。西洋人以外に金銀比価(=金1gの価格÷銀1gの価格)の計算ができるはずがないと思われていたからだ。日本人も随分となめられていたものだ。
万延元年(1860年)、幕府は、金貨の重さを 1/3 とすることで、国 内金銀比価を海外の金銀比価に調整した金貨(万延小判)を 発行し、ようやく金の海外流出が止まった。
しかし、幕末の動乱により幕府の財政が逼迫したため、幕府が金の含有量を減らした金貨を大量に発 行して財政赤字を賄ったことなどから、貨幣の価値が下がって物価が高騰したことにより、庶民や下級武士の不平不満に拍車をかけ、これが尊王攘夷や倒幕の経済的背景になった。
なお、小栗と言えば、バラエティー番組がしばしば取り上げる徳川埋蔵金で有名だが、それ以外のことは、一般にはほとんど知られていない。
小栗は、三河以来の徳川家の直参旗本であり、直心影流免許皆伝の文武両道に優れた天才であって、小栗が作った洋式軍隊、横須賀製鉄所、造船所、フランス語学校、西洋式火薬工場などのお陰で、日本の近代化の礎が築かれ、日露戦争に勝利することができたと言える。
もし徳川慶喜公が小栗の進言を受け入れて薩長と戦い、小栗が軍の指揮を執っていたならば、幕府軍が勝利していただろう。
小栗は、新撰組や坂本龍馬などよりも、もっと正当な評価がなされて然るべきなのだが、残念なことに、小栗にせよ、以前お話しした江藤新平にせよ、我が国では、国のために多大な功績をあげた本当に頭の切れる実務家は、大衆受けしないようだ。。。
まあ、アメリカでも、事情は同じで、天才アレクザンダー・ハミルトンなくしてアメリカ合衆国の建国はあり得なかったのに、ハミルトンは大衆受けしないようだ。。。
cf.1日本國米利堅合衆國修好通商條約(安政五年戊午六月十九日)
第五條
外國の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を以て通用すへし、(金は金銀は銀と量目を以て比較するを云)雙方の國人互に物價を償ふに日本と外國との貨幣を用ゆる妨なし
日本人外國の貨幣に慣されは開港の後凡一箇年の間各港の役所より日本の貨幣を以て亞米利加人願次第引換渡すへし向後鑄替の爲め分割を出すに及はす日本諸貨幣は(銅錢を除く)輸出する事を得並に外國の金銀は貨幣に鑄るも鑄さるも輸出すヘし
話を元に戻そう。明治元年(1868年)、貨幣司が置かれ、閉鎖されたイギリスの香港造幣局の造幣機械を、イギリス商人グラバーを通じて購入した。同年に造幣機械が到着し、明治3年(1870年)、大阪でイギリス人建築技師ウォートルスの設計による造幣工場が建設されたが、火災に遭ったため、イギ リスから機械を取り寄せて再び建 設され、明治4年(1871年)2月に大阪造幣寮が開業した。
問題は、どのような新貨幣を鋳造すべきかだ。
明治維新直後には、幕府が発行した貨幣、各藩が 発行した藩札、明治政府が発行した「両」単位の紙幣や金 銀貨など、様々な通貨が使われ、混乱を極めていた。
そこで、明治2年(1869年)に会計官(同年中に大蔵省となった。)兼務を命ぜられた大隈重信は、貨幣政策担当者の久世治作とともに、議事院に対して新貨幣について建議を行った。
すなわち、「第一の提案は、貨幣の形状であった。大隈と久世は、今までの貨幣は「方形」(四角形)だったが、外国貨幣は円形で便利であり、それにならって新貨幣は円形にすることを提案した。対して議事院の議官は、日本では貨幣は紙に包んで方形の箱におさめており、外国のように叺(袋)に入れないので貨幣も方形が適当だとして、反対した。これに大隈は、次のように反論した。
・ 日本の貨幣は方形だけではない。戦国期の甲州金は円形であり、近世の小判は楕円(だえん)である
・ 円形であれば、親指と人さし指で円を作れば幼児でも貨幣であることが分かるが、方形では老人でも分からない
・ 方形の貨幣は動かしにくく損磨(そんま)が多いが、円形の貨幣は動かしやすく損磨が少ない
・ 外国の貨幣の形が事物の道理・法則に基づいており、携帯にも便利であることは、日本の貨幣の比ではない
・ 貿易も盛んになっており、品位も量目上も優れている外国一般の制に従って円形にすべきだ
反対者の顔色の変化が目に浮かぶような弁舌である。この大隈の意見に、議官たちは納得した。
提案の第二は、貨幣の名称である。旧貨幣の名称としての両・分・朱を廃止することに、議官たちは消極的だった。今度は久世が、両・分・朱は秤量貨幣だった頃の名残りであって、繰り返された改鋳以降は無意味となった、万国一般の十進法を使う方が煩わしさがなく、民間取引の便益も倍増するだろうと主張した。これにも議官たちは納得した。」
この大隈らの建議を受けて制定されたのが明治4年(1871年)の新貨条例(明治四年五月太政官布告第二百六十七号)だ。新貨条例は、「条例」とあるが、太政官布告という現代で言えば「法律」に相当する法令だ。
この新貨条例の(別紙)新貨幣例目の一に「新貨幣ノ稱呼(しょうこ)ハ圓(えん)ヲ以(もっ)テ起票(きひょう)トシ其(その)多寡(たか)ヲ論セス都(すべ)テ圓ノ原稱ニ數字ヲ加へテ之(これ)ヲ計算スヘシ。但(ただ)シ一圓以下ハ錢(せん)(一圓の百文一(ひゃくぶんのいち))厘(りん)(一銭の十分一)トヲ以テ、少數ノ計算ニ用フへシ」とある(ルビ:久保)。
この新貨条例で、新貨幣の名前を圓と称すること、1円= 100銭=1千厘とすること、計数法は、十進法によること、硬貨の孔(あな)をなくして、その形状を西洋の洋貨に似せること、金貨本位制 (金 1.5g=1円)を採用することなどが定められた。
cf.2新貨条例(明治四年五月太政官布告第二百六十七号)
以上より、答えが明らかになった。丸い形状だったことから、支那や日本において「銀圓」と呼ばれたメキシコドル銀貨及びイギリス領香港造幣局の「壹圓」香港ドル銀貨と同様に、日本の新貨幣も丸い形状であることから、「圓」と名付けられたわけだ。
現在、通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律第2条第1項により、通貨の額面価格の単位は、「円」と定められている。
cf.3通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律(昭和六十二年法律第四十二号)
(通貨の額面価格の単位等)
第二条 通貨の額面価格の単位は円とし、その額面価格は一円の整数倍とする。
2 一円未満の金額の計算単位は、銭及び厘とする。この場合において、銭は円の百分の一をいい、厘は銭の十分の一をいう。
3 第一項に規定する通貨とは、貨幣及び日本銀行法(平成九年法律第八十九号)第四十六条第一項の規定により日本銀行が発行する銀行券をいう。
なお、ご存知の方も多いだろうが、1912年1月1日に建国された中華民国(台湾)の台湾ドルは、「圓」と表記されている。
1949年10月1日に建国された中華人民共和国(中国)の紙幣には、「圆」(「圓」の簡体字。)と表記されている。「圆」には、発音が同じ「yuán」で画数の少ない「元」をあてるのがしきたりなので、「人民元」と呼ばれるわけだ。
1948年8月15日に建国された大韓民国(韓国)の通貨も、「圓(元)」であり(公式には漢字表記をしない。)、ウォンは「圓(元)」の朝鮮語読みだそうだ。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)も、ウォンだ。
このように奇しくも日本、台湾、中国、韓国、北朝鮮のいずれの通貨も、「圓」である点で共通しているわけだ。この5か国の中で、明治4年(1871年)の新貨条例で「圓」と定めた日本が一番古い。
我が国の通貨の単位が碌でもない国々と同じだというのは片腹痛いが、同じ漢字文化圏であるベトナム社会主義共和国(ベトナム)の通貨が「銅」đồngドンであることから、偶然の一致というべきか。
もっとも、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド等が、同じ「ドル」を用いているので、世界的に見れば、別々の国が同じ通貨単位を用いることは、別段珍しくないため、我が国の通貨の単位が碌でなし国家と一緒であることに痛痒を感じる必要はないのかも知れないが。
なお、「ドル」は、16世紀ボヘミア(現在のチェコ)の「Joachimsthal(ヨアヒムスターレル。ヨアヒムの谷という意味。)」という銀山で鋳造された銀貨「ヨアヒムスターラー(Joachimsthaler)」の名に由来するそうだ。
「ヨアヒムスターラー」は、略して「ターラー(taler)」と呼ばれ、ターラー銀貨は、品質が良いため、良貨の意味を含んで一般名詞化し、ヨーロッパ各国で「ターラー=通貨名」として広まった。
この「ターラー(taler)」のオランダ語形「ドルラル(dollar)」が江戸末期に日本に入り、略されて「ドル」となった。 明治初期頃までは、日本でもアメリカの貨幣又は外国の貨幣一般を「ドルラル」と呼んでいたが、その後、省略されて「ドル」と呼ばれるようになったそうだ。
このオランダ語形「dollar」の英語発音が「ダラー」だ。
2 なぜ「円」の表記が「YEN」なのか?
日本銀行は、「円のローマ字表記が「YEN」となっているのはなぜですか?」という質問に対して、「1872年(明治5年)発行の政府紙幣「明治通宝」のほか、日本銀行が発行した銀行券(お札)についても、1885年(明治18年)の発行開始以来、円のローマ字表記はすべて「YEN」となっています。
「円」を「EN」でなく「YEN」と表記している根拠は、はっきりとしていませんが、以下のようなさまざまな説があります。
(1)発音上の理由
「EN」は外国人が発音する「エン」より「イン」に近いものになるとして、Yをつけて「YEN」としたのではないかとの説です。ちなみに、幕末日本を訪れた外国人の記録には、「江戸」を英語で「YEDO」と表現したものがあります。
(2)諸外国の語句との区別
「EN」は、オランダ語では「〜と」、「そして」の意、スペイン語、フランス語では「〜の中に」の意を持つ、よく用いられる語であるため、これらと同じ表記を回避したとの説です。
(3)中国の「圓(注)(ユアン)」からの転化
中国の「元」紙幣は、表に「〇圓」、裏に「YUAN」と表示されていました。これが「YEN」に転化したとの説もあります。
(注)「圓」は国がまえに員。」と回答している。
う〜ん、いずれの説も一見すると尤もらしいのだが、私は、いずれの説にも与しない。
明治23年(1890年)に誕生した恵比寿(ゑびす)ビール(エビスビール)が、「EBISU」の前に「Y」を付けて、現在でも「YEBISU」と表記しているように、「圓(円)」を戦前の歴史的仮名遣いで表記すると、「ゑん」であって、「ゑ」は「Ye(イェ)」と発音していたから、「YEN」なのだと考える。
ど素人の考えだから、決して鵜呑みにしないでいただきたい。
円と言えば、2024年度から新紙幣になるそうだ。早稲田大学出身の岸田文雄総理のもとで新一万円札の肖像選びが行われたら、渋沢栄一ではなく、早稲田大学の創立者で「ミスター円」である大隈重信になっただろうね。笑