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NO.571「今年もスープお届けします」「笑顔の時代」「バレットジャーナル」「夏のおわり、明日を思い煩いまくる。」

2019.10.12 06:56

2019.10.12.No.571

「 今年もスープお届けします 」 

なな.

季節は秋!今年も美味しいスープができました。オーガニックの写真のスープボールは下記の分量で作った量です。冷凍にしたものをお持ちします。 (配達時は保冷材などで保冷をいたしますが、解凍されてしまうかもしれません。触って冷たければ再冷凍も可能です。) 

カボチャスープの素  ¥160/120g(一人分) 

バターナッツカボチャと人参を蒸して、よく炒めた玉ねぎを加えピューレにした スープの素です。発酵調味料さごはちで味付けをいたしました。 バターナッツカボチャは繊維が少ないので滑らかなスープができるのが特徴です。 

スープの作り方

 一人分のスープに、豆乳または牛乳160mlを加えて温めればOK 簡単に美味しいカボチャスープができます。 


「 笑顔の時代 」

高 志

 藤沢市在住の吉野さんがノーベル化学賞を受賞した。同じ市内の方というだけで、妙に親近感を覚えるのだが、吉野さんの屈託のない笑顔にも惹きつけられる理由があるのだろう。

 笑顔と言えば、女子ゴルフ界の枠を超え、すっかりシンデレラになった渋野日向子さんが思い浮かべられるが、彼女の自然体の笑顔が万人に支持されている。

 それこそ一昔前には、特にスポーツ界において、笑顔はタブーとされていた。笑顔が、極度の緊張を和らげる効果があると言われても、試合中に笑顔を浮かべていた選手には、嵐のようなバッシングが浴びせられていた。

 それが、メンタルスポーツとも言われるゴルフにおいて、感情を押し殺しながらプレーすることが良しとされている世界で、それも世界のトップ選手がその頂を競い合う試合で、普段の姿のまま笑顔を浮かべ、あっけらかんとプレーする様子に、解説を務めていたゴルフ界の重鎮たちも『時代が変わったんですね!?』と認めざるをえなかった。

 朝の情報番組で、吉野さんの吉報を報じる際、コメンテーターが『ここのところ、嫌な情報ばかりお伝えしていたので、こういった嬉しいニュースをお届けできるのは、こちらも嬉しいですね!!』とコメントしていたが、まさにその通りなのだろう。

 末っ子の進が野球のクラブチームに所属しているということもあって、子供への指導について日頃から敏感になっているというのもあるのだが、ここのところ監督・コーチによるパワハラ問題が盛んに取りざたされている現状に、怒りというよりも哀しさを覚える。

 とある私立高校で、海外から指導者を招いたところ、部活が休みになった際に生徒たちが喜んだのを見て、その指導者はとても驚いたのだそうだ。

 なぜなら、本来部活動というものは本人が好きでやるものだから、その好きなものを行う機会が奪われたなら、怒るのが本筋であるはずなのに、生徒たちは嬉々として休みを受け入れているのは、自発的に行っているのではなくて、強制的にやらされている側面が強いのではないかと感じたようである。

 もちろん、その指導者が感じたことが全てではないのだろうが、そうした側面もあるのは間違いないことだろう。かくいう僕も、小・中・高校時代を思い返して”やっている”という感覚よりも”やらされている”という感覚が強かったように思う。何故なら、僕も部活が休みだと喜んだ口だからだ。

 それに反して、進は週末の試合のみならず平日の自主練習でさえ、中止になると本気で悔しがっている。特にクラブチームというのは、自らが好き好んで参加しているのだから、休みだと言って喜んでいるチームメイトに対して、訳が分からないと怒っている。そんな時は、心の中で『はい、すみません!』と小さくなっている僕がいる。

 吉野さんのインタビューの中で、子供たちに対するコメントとして、好きなことをとことんやらせて欲しいというのが耳に残っている。 子供は放っておけば、好きなことに夢中になっている。大人が余計なことをしなければ、自然と突き進むものなのだ。それを大人が、勝手に自分の型にはめようとして、その型からはみ出るものを目の敵のごとく罵倒する。そんなことが続けば、好きなものも好きでなくなってしまう。

 屈託のない、自然と心から込み上げる笑顔を、子供には浮かべて欲しいものである。少なくとも、先生同士でいじめ、いや強要・恐喝が平然と行われている教育現場では、子供たちに笑顔が浮かべられる訳がない。もし、進の通う中学校がそんな学校なら、行かなくても良いと進に進言すると僕の奥様は憤っていた。


「 バレットジャーナル 」

マナ

 バレットジャーナルという手帳術を友人のタケちゃんから教えてもらった。 

以前、タケちゃんからは、マンダラ手帳も教えてもらった。 

野球の大谷翔平が高校生のときにマンダラ表なるものに「大リーガーになる」というビジョンを描いて、そのためにすることを細分化して実現したということで話題になったそうだ。 

縦横3マスのビンゴゲームのような表の真ん中に、夢を入れる。たとえば「金持ちになる」だったら、回りの8マスに「貯蓄」「投資」「玉の輿」などできそうな方法を入れていく。

そして次にそれぞれの方法を目標として真ん中に据える。「貯蓄」を新たな9マスの真ん中に据えたら、また回りを「節約」「昇給」など8つの方法を入れていく。

そうして目標を、日々のタスクに落とし込む。 「年間120万円貯める」→「月10万円貯める」…「1日1000円で生活する」というふうに。 

「1日1000円で生活する」だと味気ないが「金持ちになる」という夢と連動していることを日々意識していると挫折しにくくなる。挫折しても、仕切り直しがしやすい。 

なるほどと思って、意気揚々と楽天で5000円ほどするマンダラ手帳セットを買った。 

何でも細分化していくのだけど、これが実に面倒くさい。 

白紙のマス目が続くと、しまいに見るのもいやになってしまった。 

そして言うまでもなく、三日いや三月坊主に終わった。 

今回のバレットジャーナルは、公式手帳は4000円ほどするんだけど、いかな私でも、もう買わない。コクヨのキャンパスノートのドット入り188円を買ってきて、ちくちく作成した。

このバレットジャーナルの素晴らしいところは、思いついたことを何でもかんでも書き込んでいって、あらかじめ作った目次にページ数を書き加えていくので、スケジュールも読んだ本も料理のレシピも一括管理できることだ。 

文章でしくみ(そんな大そうなものではないけど)を書くとややこしいので、興味ある方はググってみてください。 

作者のライダー・キャロルさんはアメリカ人で発達障害を持っていて、自分で工夫を重ねてこのバレットジャーナルを編み出した。 

私も、この手帳を使いはじめてから忘れ物や探し物がぐっと減った。

書き出したタスクをこなしていると、達成感ができてきて、雑用でも追かけていきたくなる。

ところが、こともあろうにこのバレットジャーナルを失くしたのだ。

妹とスーパーに買物に行って、買い物リストのページを見せて能書きを垂れていたら、家に帰ったら見あたらない。 

「スーパーの袋に放り込んでたで」と妹は言う。

食材といっしょに無造作に放り込んでいたらしい。個人情報にあたるものは書いてなかったが、一括管理なので青くなった。 

メモ帳も兼ねていたので、走り書きすら残っていない。

さんざん探しまわったが見つからないので、再度作成中だ。

記憶をたどって書き込んでいる。

友人に約束を確認したり、この労力といったら…。

一括管理がアダとなるとは。 バレットジャーナルを管理する方法から学ばないといけないなんて情けない。 


「 夏のおわり、明日を思い煩いまくる。 」

マリコ

 あれ?もう9月は終わりですか?誰に尋ねるでもなく、ふと周りを見回してみてもみなくても、もう10月は目前。9月、何してただろう・・・手帳をぺらりぺらと繰ってみます。

あれ?まぁそれなりにいろいろ。つーかけっこうぎっしり予定が書き込まれています。はて、と記憶を辿ってみると、それらの思い出がつらつらと脳裏に浮かびます。てことはこれ、全て済んだんだ・・・「へえ〜」と他人事のような心地で今一度手帳を眺めます。あれもこれも確かに覚えてる。でもどれもなんだか随分前のよう。昨日のことも数日前のように感じます。充実?忙殺?まぁ、瞬間瞬間を生きてるんだと前向きに捉えることにしましょう。


  明日を思い煩うな。という言葉がふと心に浮かびます。

今この瞬間を味わいながらそれが続いていくんだな〜、いいな〜そういうの。と思いますが、やれバイトのシフトがどう、とかご飯の支度だとか、風呂の修理だ、子供の習い事だ、懇談会だ検診だ運動会だ早帰りだ図書館の本の返却だ・・・などと明日どころか数日後、なんならもっと先の予定までも思い煩い、たたでさえ少ない脳のメモリーを大幅に占拠しています。

今は人生の中でそういう時期なのだと自分の脳を納得させていますが慌ただしく過ごす中、予定をこなすためにアタフタ段取って順次こなしていくわけですが、予測不能の子供相手では速やかなミッション完遂は難しく、タイミングよく完遂しようものなら快楽のように感じます。

公園からこのくらいに帰って、お風呂、ご飯がこのくらいまでに済めばこのくらいに寝られて、そしたら明日の朝こんくらいに機嫌よく起きれるかも!!!などなど経験からくる総合的判断の下、子をせかしたりいなしたりするわけですが、それがルーティン化するとルーティンをこなすことが目的となり、規則正しさとこなし仕事(?)の間で板挟みのような気持ちになってしまうことがあります。

あくまでも自戒としての私の感想ですが、ルーティンに没頭している時は子をよく見ていない。疲れているときにこれは顕著となるのです。頭も心も疲弊しているときに賢明な判断ができるはずもなく、ルーティンのロープで自分と子を自らぐるぐる巻きにして二人で泣き怒りわめいている。そんな残念な夕暮れ時がしばしば訪れます。

とはいえ幼稚園に行きだしてからルーティンはやはり必要だと感じる面もあり、お互いの調子が今ひとつの時は、速やかにルーティン外のモアベターな選択ができるようになりたいものです。 


  息子の寝顔を覗き込み、ふと私は果たして子が手元から離れた時、どんな人間として存在しているのかな。と疑問が浮かびますが今はその問いにゾッとしてしまう私なのであります。あーあ。