IBUSKI Music STUDIO『Punks Molly』
みなさま、こんにちは!こんばんは!おはようございます!!
指宿在住で半農半音楽生活をしております、Zaiと申します。
去年から作っていたリハスタが、ついにオープン目前となりました!!
どんなスタジオになるのか、スタジオ名は何なのか、気になりますよねー?!
今日はその辺を一気に公開していきます!!
早速ですが、まずはスタジオ名!!
これー!!ババーン!!
IBUSUKI Music STUDIO『Punks Molly』
スタジオ名の由来は後ほど!!
先に、ここに至るまでの私自身の道のりを話します。
クソ程長文なので、覚悟してください!
私自身の音楽の始まりは小学生の頃。ピアノを習っていた姉の練習に付き合うために、合唱曲を歌わされていたことが最初でした。
その時は特に歌うのが好きなわけでもなく、楽器を弾きたいわけでもなく。
けど、そのうち、テレビで流れる歌謡曲は知らない曲でも歌詞を見れば一緒に歌えるようになったり、学校の先生からも天使の歌声だと言われたりw
中学校に上がって、音楽の授業でクラシックギターをやったのがきっかけで、自宅でもギターの練習をする様になりました。
負けず嫌いだった私は、姉に何か1つでも勝ちたいという思いで毎日、毎日、ギターを弾き続けました。
ちょうどその頃は、ゆずや19、コブクロを筆頭にアコースティックデュオが大流行していたので、その影響もあり、弾き語りもするように。
そんな時に始まったのが、力の限りゴーゴゴーという番組でのアカペラ企画『ハモネプ』!!
人の声の魅力にどっぷりハマりました。
いろんな曲を知るきっかけになったのもこの番組。
初めて買ったCDは、RAG FAIRの『I RAG YOU』でした。
ハモリやベース、ボイパを練習したり、アカペラ雑誌を買って、付録のCDでボイトレしたり、この時の練習が今も活きているかもしれませんねw
さらに、めちゃイケで見た武田信治のSAXに憧れて、20万円近くするSAXを新聞配達で貯めたお金で購入しました。
当時、中学校の教頭先生が音楽の専門で、SAXの購入についてアドバイスをもらってました。
そんな教頭先生がある日の昼休み、私がいつものように音楽室前でギターを弾いてたら、『お前は将来、音楽の仕事に就きなさい』というのです。今でもその時のことははっきりと覚えてて、自分に音楽の道なんて無理でしょと笑ってやり過ごしたことが頭を離れませんでした。
高校に入って、中学からやっていたバレー部も早々に辞めて、弾き語りの練習をする時間が長くなりましたが、音楽の情報源といえば、テレビやラジオ。その時の私にはそこで流れるメジャーなJ-POPしか知る術を持っていませんでした。
ギターの先生もいないし、技術や奏法も全て独学。知識の幅には限界がありました。
でも、たまたま地元のTSUTAYAでジャケット見て借りたレッチリのアルバムに、衝撃を受け、その後も文化祭での先輩達のバンド演奏を見ては影響を受け、バンドというものに興味を持つようになりました。
青春パンクやメロコアが最盛期の頃。テレビで見た175Rにハマって、よく聴いてましたね。
何か人と違うことがやりたい。そう思っていた私にバンドマンや青春パンクは、とてもキラキラして見えました。でも、同じ趣味の友達やプレイヤーとはあまり出会うことが出来ず、1人でアコギを弾くしかありませんでした。自分が踏み出せずにいただけかもしれませんが、少なくともその時はそう感じていました。
大学に入ってすぐ、軽音楽同好会に入りました。絶対に入ると決めてました。
地元指宿にはライブハウスもリハーサルスタジオも、楽器屋さんもなく、バンドやその他の音楽に触れられる場所はないと思っていたからです。
ネット通販もまだ利用できなかった頃だったので、弦が切れたままのギターを弾き続けるってこともザラでした。
こんな田舎では自分がやりたいように音楽活動が出来ない。鹿児島市内に出たら、環境がある!やれる!そんな気持ちがありました。
そこから毎日のように部室に入り浸り、音楽に触れました。バンドに触れました。憧れていたエレキギターも購入し、大きな音を鳴らしました。大声で歌いました。沢山の人や曲に出会うことが出来ました。いろんなバンドを組み、いろんな曲をコピーしました。オリジナルもやりました。ポップ、ロックンロール、パンク、メロコア、ハードロック、ハードコア、ビジュアル系、アニソン、ボカロ、、、本当に充実していたと同時にもっと早く出会えていたらなと悔しい気持ちがありました。
それから就職をして、バンドメンバーとも散り散りになり、バンドをまたやりたいなと思っていた頃、鹿児島発アイリッシュパンクバンド『The Pints』にギター&バンジョーで誘ってもらいました。
それまで、ボーカルというポジションでやってきましたが、この際、バンド組めるだけでありがたいと思い、加入を決めました。
このバンドのおかげで沢山の人と出会うことができました!本当に感謝しています。
パインツの活動をして3年目だったかな?当時、桜島溶岩グラウンドで開催されていたWALK INN FES!に呼んでもらえました。
この時のライブもめちゃくちゃ楽しくて、当日、サンプル配布で持っていったデモ音源が、ライブ後に速攻で無くなるっていう衝撃的なこともありました。
それからは毎回声を掛けてもらえるようになり、毎年楽しんでいます!
フェスを主催する、WALK INN STUDIOには本当にお世話になっていて、フェス以外の場所でもライブやイベントに声を掛けてもらったり、地元のイベントを手伝ってもらったりと、感謝しかありません。
そのウォークインを通じて出会ったイベントに、YES FUTURE!というものがありました。鹿児島のBACKSKiDと人性補欠が主体となって企画しているライブイベント。そのイベントが鹿児島のさらに地方をツアーに回りたいというのです。
Facebookでその記事を見たとき、すぐに飛びつきました。
『指宿でもやりたいです!!』
その頃の私は、前の職場を辞め、地元に帰って地方公務員になっていました。
地元でも音楽活動をしたいと思っていたので、バンドよりもフットワークの軽いソロでの活動を始めていて、地元のBarを借りて、DJの方と一緒に音楽イベントをやったり、月一で定期ライブをやったりしていました。
地元でも音が鳴らせる!表現ができる!楽しめる!そんな姿を見てほしい!
そう思って毎月ライブ活動を続けていました。
そんな時のYES FUTURE!の記事だったので、鹿児島の第一線のライブを指宿で見せられる!と、とてもテンション上がりましたね。
そのイベントを通して、イベント企画の知識や仲間の大切さ、人間関係のゴタゴタ、精神的な成長など、たくさんの経験を得ることが出来ました。
そして、やっぱりイベント当日のライブパフォーマンスは、輝いていたし、会場の熱気や一体感に胸が熱くなりました。
この空気をもっと指宿の人に知って欲しいと思ったし、身近に感じて欲しいと思いました。
そして、若い世代にも出来るだけ早くこの楽しみを伝えたいと、、、
それからも、指宿市内でライブ企画したり、イベント運営に関わったり、沢山の経験をさせてもらいました。
でも、その中で公務員と音楽活動を掛け持つことの不安を感じてしまっていたんです。どこかで誰かから何か嫌なことを言われるんじゃないか。『公務員がそんなことしてていいのか』とか、『副業じゃないのか』とか。
CD作ったり、ライブに出演するたびにそんな不安がよぎって、思ったように発信できない状態でした。
それはお客さんにも出演者にもスタッフさんにも同様に抱えていた不安でした。
そんな中でいい関係が作れるはずもありませんね。
距離感や遠慮、そんなものを感じていた方もいたかもしれません。
思春期の頃から、周りに気を遣って、あまり自分のことを話さないようになっていたので、余計に塞いで、聞き手に徹するようになっていました。
そんな状態で過ごしていた中で、ちょうど1年前、とうとう職場と自分のやりたい事のズレが大きくなり、精神的に余裕がなくなっていた頃、ある噂を聴きました。
『指宿にライブハウスができるみたいですね。』
シルクロード というアコースティックバーで遊んだ帰りの代行の中でした。
仕事から家に帰っても、うまく切り替えられなくて笑顔を作ることもできなかったんですが、その噂を聞いた時は、居ても立っても居られなくなり、すぐに情報収集を始めました。
誰がやるのか、どこにるのか、いつからなのか、内装は?機材は?もしかして従業員募集してないか?
そんなことが頭を巡りました。久しぶりにワクワクしました。高揚しました。エネルギーが湧いてくるのが分かりました。
その噂が少し大袈裟で、実際は個人で使うスタジオの延長のような場所ということが分かって、正直、落ち込みました。が、それと同時に、今の自分でもワクワクできるんだと気付きました。
やりたいことはこれだ!っていうのを教えてもらったんです。
それからは、いかにして音楽の場所を作りながら生きていくかを考える日々が続きました。
どんな風に音楽と関わっていくか。仕事はどうするか。家族は養えるのか。沢山考えました。
結論として、公務員という仕事は卒業して、音楽と両立できるフレキシブルな農業を営んで、リハーサルスタジオ経営と兼業するという半農半Xというライフスタイルを目指すことに決めたわけです。
当時、農業系の部署にいたこと、実家が農家だったことが決め手になりました。
リハスタの場所は目星がありました。学生時代に練習場として使用していた空き家。
こうしてみると、ずっと昔から、ここに行き着くための環境が準備されてきていたようで、導かれたのかなと感じます。
リハスタのことを決めていく中で、お世話になっているWALK INN STUDIOにも相談をしました。
すると、ウォークインも農業を始めたいと言ってくれたんです。
これはもはや運命。音楽と農業というライフスタイルを一緒に楽しめる仲間になれるなんて、夢のようです。
これまでライブに関わらせていただいたことの恩返しができると思いました。
そこから農業の準備を進めていくのですが、そこでもさまざまな奇跡とも思える導きがありました。その話はまたの機会に!
学生時代、不自由に感じていた地元。生きてきた環境。出会い。仲間。きっかけ。楽しみ。ストレス。不安。不満。中学での教頭先生の言葉。大学の頃抱えていた想い。ワクワク。活力。笑顔。自分の価値。動機。理想のライフスタイル。憧れ。抱いていた夢。諦めた夢。追いかけたい夢。
その全てが音楽に繋がっていると気付きました。
ここまでが、今回音楽スタジオを始めることを決意した経緯です!!
さて、ここからはスタジオ名の由来について。
『Punks Molly』という名前は、パンクロックのPunksとMolly Maloneという女性の名前から取っています。
Punksは言わずもがなですね。
説明不要でしょう。
Molly Maloneという女性は、アイルランドのダブリンという街に実在したと言われている人物です。
この女性には、いろんな伝承があるんですが、統一されているのは、荷車で貝を売り歩く可愛い女性として、周りから愛されていたということ。その他にも色んな顔があったと言われていますが、興味がある方は調べてみてください。
実は、この女性は歌になっていて、ダブリンには銅像もあるんです!!
この女性のように愛されるスタジオになりますようにというのが僕の願いです。
この場所が、僕にとって本当の自分でいられる場所になるように。
ライブハウスも楽器屋もない街で、バンドや生のライブに触れるハードルが高くなってしまったこの街で、あの頃の僕が、音楽に出会える場所になって欲しい。音楽で出会える場所になって欲しい。
この場所を使って、そんな姿をみて、誰かが何かをやってみようと思えるように、楽しむことを諦めないように、本当の自分でいられるように、この街で生きられるように。
大袈裟かもしれないけど、そんな想いでこれから再スタートを切ります!
まずは自分のため。それがいずれ、誰かのためになって、この街のためになるように!!
スタジオを作るにあたり、たくさんの人に助けてもらいました。資材を分けてくれたり、道具を貸してくれたり、手伝ってくれたり、遊びに来てくれたり、差し入れをくれたり、機材を提供してくれたり、投げ銭してくれたり、そんな人たちの想いも背負って、これからもそんなみんなと楽しんでいきます!
ちなみに機材や設備のご支援などは、まだまだ大歓迎です!!
まだ足りないものも多くあります!
一緒に作って一緒に楽しめる場所にしていきましょう!
ここは、僕だけのスタジオではなく、共有する場所です!
これからここで始まる物語を一緒に描いていきましょう!!
鹿児島のWALK INN STUDIOから、機材や運営等について今後も協力してもらえるとのことでした。それぞれのスタジオがライバル関係で独立・競争するのではなくて、協力しながら、補いながら、一緒に楽しんでいくことが大切です。
本当にありがたいことです。
鹿児島全体のバンドシーンのシンボル的存在としてWALK INN STUDIOの名前やフェスについて指宿の人にももっと馴染んでもらうためのパイプ役というか、基地局というか。
そんな感じで指宿という街で認知されるのもいいなと思います。
僕は指宿で僕ができることをする。その中でウォークインにパスを出したり、パスをもらったりしながら。もちろんそれは、ウォークイン以外とでも同じことです。
スタジオのオープンは6月半ばを予定しております。
予約制の貸しスタジオと楽器初心者向けのレッスンを始めていきますので、詳細についてはまた後日ご報告いたします!
ここまで、非常に長文となってしまいましたが、読んでいただいた方ありがとうございます。
僕の活動が、見てくれている誰かにとって、自分自信を生きるヒントになることを祈って、歩き始め続けます。
関わってくれた全ての人に感謝です。
ここに導いてくれてありがとうございます。
助けてくれてありがとうございます。
そして、これからもよろしくお願いします!
一緒に笑って生きましょう!
Let's ROCK!!
IBUSKI Music STUDIO Punks Molly
代表 上久保 拡(Zai)