【北豊島】高田新長谷町
町名:高田新長谷町
読み方:たかだしんちょうこくちょう Takada-Shin-Chōkokuchō
区分:町丁
起立:不明
廃止:不明
冠称:「高田」
現町名:豊島区高田二丁目
概要:存在したのか不明。新長谷寺は山号を「東豊山」といい、真言宗豊山派の寺院であった。当寺院にあった不動明王像は唐から帰ってきた弘法大師が出羽湯殿山(一説には羽黒山)に行き、修行を行っていた際に造られたといわれている像で、それが武蔵国関口(現在の文京区関口)に住む者の手に渡ったといわれているが、その詳しい年代は判っていない。その後、この寺院は江戸時代に入り1618(元和4)年に奈良長谷寺の僧秀算によって中興された。秀算は二代将軍秀忠の命令によって長谷寺の本尊と同じ十一面観音像を造り、本堂等を建立し、「新長谷寺」と命名した。
寛永年間(1624~1645年)に三代将軍家光により、新長谷寺の本尊である不動明王像に五色不動の一つとして『目白不動』の名を贈り、以後この不動明王像は「目白不動明王」と呼ばれるようになったという。また一帯の高台も「目白台」と呼ばれるようになった(これは現在の地名になっている目白や目白台の起源になっている)。その後、この寺院は五代将軍綱吉や桂昌院の帰依を受けて発展した。また江戸市民に時を告げる時の鐘を備えていた。しかし、新長谷寺は第二次世界大戦による戦災で壊滅な被害を受け、1945(昭和20)年に廃寺となってしまった。本尊の目白不動は金乗院に移され、現在に至るまで金乗院が目白不動尊として信仰を得るようになっている。
どの資料にも残っていないが、その金乗院の門前が「高田新長谷町」と呼ばれていたようだ(『雜司ケ谷音羽繪圖 : 嘉永新鐫』にも金乗院の門前はない)。
撮影場所:高田新長谷町