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江戸町巡り

【北豊島】雑司ヶ谷町

2017.12.23 11:44

町名:雑司ヶ谷町

読み方:ぞうしがやまち Zōshigayamachi

区分:町丁→区分

起立:江戸期

廃止:存続 「雑司が谷」として

冠称:なし

現町名:豊島区雑司が谷一~三丁目、南池袋三・四丁目、西池袋一・二丁目

概要:1746(延享3)年、百姓町屋が町奉行支配となる。化政期(1804~1830年)の家数152軒(町方書上)。俚俗に「御嶽(御嶽町)」、「畑町(雑司ヶ谷畑町)」、「大門(雑司ヶ谷大門町)」、「柳下(雑司ヶ谷桺町)」、「仲町(雑司ヶ谷仲町)」、「清土(雑司ヶ谷清土町)」と称するところがあった。鎮守は鬼子母神で、道筋には天正年間(ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年))頃より欅並木があり、境内には正徳年中(1711~1715年)より手製の川口飴を売る者がいて、大いに繁盛した(備考)。

明治元年11月5日(1868年12月18日)又は明治元年11月14日(1871年12月25日)、東京府豊島郡に所属。1872(明治5)年、雑司ケ谷鬼子母神町雑司ケ谷本染寺町を合併。同年の戸数135・人口589(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府小石川区に所属。1889(明治22)年5月1日、飛び地は東京府北豊島郡高田村に編入されの大字雑司ヶ谷町となる。1920(大正9)年4月3日、高田村が町制施行し、東京府北豊島郡高田町大字雑司ヶ谷町となる。

1932(昭和7)年10月1日、高田町は巣鴨町、西巣鴨町、長崎町と合併し、東京府東京市豊島区が発足。東京府東京市豊島区に所属。雑司ヶ谷町一~七丁目になる。雑司ヶ谷町一、三丁目、日出町二丁目に再編。1943(昭和18)年7月1日、東京都豊島区に所属。

1960(昭和35)年、四丁目は池袋東一~三丁目に、五丁目は池袋東一~三丁目、雑司ヶ谷町三丁目に、六・七丁目の各一部は池袋東二丁目に編入となる。

1966(昭和41)年11月1日、住居表示の実施により、雑司ヶ谷一・二丁目の各一部をもって雑司が谷一丁目に、雑司ケ谷町一~三丁目と高田本町一・二丁目をもって雑司が谷二丁目に、池袋東二丁目と雑司ケ谷町二・三丁目と高田本町二丁目と目白町二丁目をもって雑司が谷三丁目に、また雑司ヶ谷一・二丁目のそれぞれ一部は南池袋四丁目の一部に、雑司ヶ谷三丁目の一部は南池袋三・四丁目のそれぞれ一部に、雑司ヶ谷六丁目は西池袋二丁目に、雑司ヶ谷七丁目の一部は西池袋一・二丁目のそれぞれ一部に編入となる。


なお、そもそもの「雑司ヶ谷」について以下に詳述する。

「雑司谷」(役帳)、「蔵司谷」(新編武蔵)とも書く。神田川北方の台地上に位置する。地名の由来については、法明寺又は小日向金剛寺の雑司料であったからという説、また元弘(1331~1334年)・建武(1334~1336年又は1338年)の頃、禁中の雑士柳下若狭、長島内匠、戸張平次左衛門等がこの村に土着して「雑士ヶ谷」の名が起こったという説、他に「蔵主ヶ谷」、「僧司ヶ谷」、「曹子ヶ谷」等色々書かれていたが、8代将軍吉宗が放鷹の折に、「雑司ヶ谷」と書くべしと命じたとの説等がある(新編武蔵)。

[中世]雑司谷 戦国期に見える地名。巣鴨荘に属す(新編武蔵)。小田原北条氏の臣、江戸衆の太田康資の所領として「拾弐貫五百文 江戸雑司谷中村二郎右エ門」と見え、太田氏の寄子中村二郎右衛門の支配であったと推定される。1561(永禄4)年5月、農民の丹右衛門という者が土中から仏像を掘り出し、祀ったのが鬼子母神社の創立であると伝え、同社所蔵の1578(天正6)年5月3日の棟札に「蔵司谷」と見える。同社の修築は同年4月10日~5月1日までかかったとある。江戸期の日蓮宗法明寺は、810(弘仁元)年の創建と伝え、『吾妻鑑』に文治年間(1185~1190年)に小山有高という者が、当寺領を押領したことが記されている。江戸期の雑司ヶ谷村の地。

[近世]雑司ヶ谷村 豊島郡戸田領のうち。幕府領と法明寺領。1641(寛永18)年から市ヶ谷自證院領、1697(元禄10)年から小石川伝通院領、1701(元禄14)年から牛込芳心院領、1719(享保4)~1733(享保18)年に鷹部屋御用地と犬小屋御用地となって幕府領はなくなったが、1752(宝暦2)年、犬小屋が廃され、再びその地が幕府領となる。1746(延享3)年、当村7反余の地が、町奉行支配となり、自證院領雑司ヶ谷町となる。また本浄寺門前、雑司ヶ谷鬼子母神門前(町)雑司ヶ谷本染寺門前(町)があった(新編武蔵)。検地は1633(寛永10)年、1674(延宝2)年。村高ははじめ257石(田園簿)。元禄期(1688~1704年)には308石余(元禄郷帳)、天保期(1831~1845年)には290石余(天保郷帳)。1869(明治2)年に265石余(旧高旧領)。化政期(1804~1830年)の家数135軒。鎮守は鬼子母神社。法明寺の大行院が管理。日蓮宗威光山法明寺は区内最古の寺で、1591(天正19)年、10石の朱印寺領が村内にあった。鬼子母神は江戸庶民の信仰を受け、広重の『江戸高名会亭尽』に門前の茶屋で「すすきみみずく」を持つ婦人の図が描かれている。明治元年11月5日(1868年12月18日)又は明治元年11月14日(1871年12月25日)、東京府豊島郡に所属。1872(明治5)年の戸数145・人口705、田3町余、畑46町余、無名の600坪の広さの池があったという(府志料)。1878(明治11)年11月2日、東京府北豊島郡に所属。1889(明治22)年5月1日、高田村の大字雑司ヶ谷となる。

[近代]雑司ヶ谷 はじめ高田村、1920(大正9)年4月3日からは高田町の大字。1932(昭和7)年10月1日、豊島区雑司ヶ谷町一~七丁目、日出町一~三丁目となる。

[近代]雑司ヶ谷町 豊島区の町名。一~七丁目があった。もとは北豊島郡高田町の大字雑司ヶ谷、大字雑司ヶ谷町、大字雑司ヶ谷旭出。1960(昭和35)年、四丁目は池袋東一~三丁目、五丁目は池袋東一~三丁目、雑司ヶ谷町三丁目、六・七丁目の各一部は池袋東二丁目となる。1966(昭和41)年11月1日、残っていた一~三、六・七丁目は現行の南池袋三・四丁目、雑司ヶ谷一~三丁目、西池袋一・二丁目となる。

撮影場所:雑司ヶ谷町

撮影地:豊島区雑司が谷三丁目16番(鬼子母神大門欅並木)

高田新長谷町  雑司ヶ谷大門町