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Okinawa 沖縄 #2 Day 182 (18/05/22) 旧宜野湾間切 (4) Mashiki Hamlet 真志喜集落

2022.05.19 10:27

旧宜野湾間切 真志喜集落 (ましき、マシチ)



今日は梅雨の合間の貴重な晴れの日ということで、遠出をして宜野湾の真志喜集落を訪れる。




旧宜野湾間切 真志喜集落 (ましき、マシチ)

真志喜集落 (ましき) は宜野湾市の南西部にあり、方言では「マシチ」と。沖縄で初の進貢貿易を行った中山王察度 (1321~1396) の生誕地とされており、地域には察度所縁の地が伝わっている。 行政上の集落としては、尚貞王治世下で宜野湾間切が新設された1671年 (尚貞3年) に、宜野湾間切謝名村の真志喜という人が浦添間切牧港村内で開田したとして褒賞され、毎年2石5斗の切米を賜り、新しく真志喜集落が設立している。真志喜の地名はこの人物に由来するとする説がある。(大山村からの屋取としての分村という説と大謝名村からの屋取集落とする説がある。大川村と呼ばれていたこともある。) 

集落に住んでいた有力門中は、屋号 奥本 (ウクムトゥ、島袋姓)、屋号 奥間 (ウクマ、佐喜真姓)、屋号 東門 (アガリジョー、宮城姓)、屋号 与座 (ユザ、金城姓)、屋号 松本 (マチムトゥ、松本姓)、屋号 上江 (ウィー、呉屋姓)、屋号 伊佐川 (イサガー、伊佐川姓) の宗家で「真志喜七宗家」と呼ばれていた。その中でも奥本 (ウクムトゥ) と奥間(ウクマ) が根屋といわれている他に、具志川 (グシチヤー、宮城姓) も旧家だった。

部落北東側は大山部落、南から南西側にかけては宇地泊部落と大謝名部落に接している。 小字は、海岸寄りに安座間原 (アザマバル)、兼久原 (カニクバル) があり、大川原 (ウッカーバル)、森川原 (ムイカーバル)、富盛原 (トミムイバル)、荒地原 (アラジバル)、湧田原 (ワタタバル)、白台原 (シルデーバル)、松川原 (マーチスカーバル)、蔵当原 (クラントーバル)、製立原 (ソーダテイバル) がある。集落の大半は森川原に形成され、大山と連なり「ウヤマ・マシチ」と連称される。東側に丘陵があり、その麓から西側平地に至る所に集落があった。

戦前までは、部落には農家が多く農業が盛んで、主要作物は甘蔗 (サトウキビ)、甘藷 (サツマイモ)、水芋 (タイモ) 等だった。 甘蔗は、製糖小屋で黒糖にされ、甘藷は、大半が自家用で余ると家畜飼料にした。生活はさほど豊かではなかったが、田畑を売ってでも子弟に教育を受けさせるという風潮があり、上級学校への進学者も多く、他部落からは 「スグリ部落」(優れている部落) といわれた。帰還後、真志喜には以前の耕作地は基地として接収され、耕地に適する土地は残っておらず、残っている耕地も狭くほとんど農業などができる状態ではなかった。畑の所有者も、家庭の補充作物を作っている程度で、専業農家はほとんどなく、若い人の大部分が軍の雇用員として働いていた。


Camp Mercy (キャンプ・マーシー)

戦後、牧港から宇地泊、大謝名と接し、大山とつらなっている軍道1号線 (本土復帰後、国道58号) から海岸に向って米軍基地として接収された。陸軍病院、獣医センター、米兵家族の米軍マーシー小学校、ORE本部、など計92棟と、バレーボールコートなどの施設計32件が建設されていた。

1945年 (昭和20年) 4月に真志喜集落の人たちは捕虜となり、中部の収容所に分散収容された。その一年後、1946年 (昭和21年) 3月に野嵩捕虜収容所に移され、ここで1年間収容生活の後、1947年 (昭和22年) 3月に、大山地区内に住居地区が割り当てられ移動。1955年 (昭和30年) 7月に、ようやく真志喜への居住許可がおりた。しかし、元々の真志喜集落の場所は Camp Mercy (キャンプ・マーシー) として接収されており、軍道1号線上方の農耕地であった畑をつぶして移り住んだ。軍用地と接する山手の方では、山頂をきりくずし米人向けの貸住宅が建てられていた。 Camp Mercy (キャンプ・マーシー) は、1961年 (昭和36年) から数回に分け細切れに一部返還され、本土復帰 (1972年) 後の1976年に、ベトナム戦争が終わり、駐沖縄米軍が再編成され、同基地がキャンプ桑江に移転されて、ようやく全面返還となった。

1976年 (昭和51年) に全面返還された後、1981年 (昭和56年) から 1998年 (平成10年) にかけて行われた真志喜地区土地区画整理事業が実施された。真志喜のいすのき児童公園に、この事業の記念碑が建てられていた。

返還地を含め、西海岸沿いは埋め立てられ、 宜野湾高校、市立グラウンド、市立体育館、沖縄コンベンションセンター、宜野湾港マリー ナ、市営球場などの施設や、大型商業店舗、娯楽施設、住宅地が建設され、大きく発展している。


ぎのわん海浜公園

宜野湾の海岸は埋め立てられ、ぎのわん海浜公園となっている。この公園内にはは野球場、体育館、テニスコートなどのスポーツ施設や、多目的広場、子供広場、屋外劇場などがあり、総合運動公園となっている。敷地はかなり広く、散歩には格好の場所。


宜野湾マリーナ

コンベンションシティーの向かい側に沖縄県における最初の本格的なヨットハーバーの宜野湾マリーナがあり、多くのヨットが停泊している。ここでは多くにイベントが開催され、クルージング、ジェットボートツアー、シュノーケリングツアーなどもあるそうだ。


コンベンションセンター

沖縄県立の会議展覧センターもある。センター内には、コンサート、演劇、ミュージカル、クラシックなどに利用される沖縄県立の多目的センターとして沖縄コンベンションセンター劇場が設けられている。

先日、5月15日には、このコンベンションセンターで沖縄復帰50周年の式典が行われた。記念切手やコインなども発行され、祝賀行事ではあるが、県民は複雑な思いがある。この日に近くなるとテレビでは連日記念番組が放映されている。多くは、この復帰50年を振り返り、当時県民が抱いていた復帰後の沖縄とは異なった形で、期待していたものは未だ実現されていないという政府に対しての批判的なものが多かった。焦点は基地問題になっている。県民は本土並みの基地負担は国民として当然と思うが現状は、国内の米軍基地の70%が沖縄に集中している事に疑問を持っている。この問題については、現場の住民と話をして、具体的に何が問題なのかが少しづつではあるが見えてきた。今後の集落巡りで、その個々の問題について折々に触れていく予定。


真志喜ポケットパーク、真志喜地区土地区画整理事業竣工記念碑

コンベンションの向かい側、宜野湾バイパスを渡った所に小さな公園がある。真志喜地区土地区画整理事業の完工を記念して設置された真志喜ポケットパークだ。この辺りの戦前の様子はは静かな環境の中に農家が点在した優良な農耕地だった。沖縄戦敗戦後、この地は米軍に接収され、キャンプ マーシーが建設された。 1976年 (昭和51年) 3月31日に返還され、真志喜中学校、総合グラウンド、宜野湾高校、警察署等公共施設がいち早く建設された。地区北側の一部が水田として利用さ れているほかは殆ど未利用地だった。その後、事業の話がもち上り、1981年 (昭和56年) に宜野湾市施行による区画整理事業計画を決定、国庫補助を受けて事業に着手、1992年 (平成4年) 12月、総事業費35億6200万円で竣工した。この事業の竣工を記念した碑が建てられている。公園には平和のシンボルとしての地球儀のモニュメントが設置され、奥には宜野湾市に伝わる「はごろも伝説」の壁画が造られている。

はごろも伝説の壁画はそれぞれの絵の伝説が日本語、英語、中国語で解説されている。

[1] 昔、奥間大親という人がいました。嫁のきてもない程の貧乏でした。ある日のこと、畑仕事を終え手足を洗おうと森の川に立ち寄ったところ、水浴びをしている一人の美女が見えました。物陰から様子をうかがっていると、木の枝に 衣がかかっていました。奥間はすばやく衣を草むらに隠し、女の前に姿を現しました。おどろいた女は急いで衣を取ろうとしましたがそこにあるはずの衣が有りません。女は「私は天女です。羽衣がなければ天に昇れない。」と泣き崩れました。奥間は女の身の上話しなど聞き「それは、お困りだろう。私が探してあげるからそれまで私の家で休まれるがよい」というと女は感謝して奥間の家に世話になりました。奥間はその羽衣を倉の奥深く隠しました。
[2] それから10年、二人の間には一男一女が生まれました。さらに、何年か経ち、女の子が偶然に羽衣を見つけ、弟と遊びながら「母の飛び衣は6つの柱の倉にあり、舞衣は8つの柱の倉にある。」と歌ったのです。それを聞いた母親は大いに喜び、夫の留守中に羽衣を取出して身につけ、たちまち天高く舞い上がりました。 しかし、愛しい夫や二人の子供の泣き声を聞くと、急には去りがたく空の上をぐるぐる飛び回り、ついに風にのって大空の彼方に飛び去りました。
[3] 男の子は漁の好きな若者となりました。ある日、勝連按司の娘が婿選びをしていると聞いた若者は勝連に行き「娘さんを下さい」と頼みました。按司とその家来は大笑いし、追い返そうとしました。その時、物陰から若者を見ていた娘は「この若者はただ者ではありません。私の夫にふさわしい人です結婚させてください。」と頼みました。日頃から娘を信頼していた按司は二人の結婚を許しました。

[4] 二人は大謝名にある若者の家へと向かいました。その家の垣根は壊れ、雨漏りがしていました。しかし、よご れた竈をよく見ると黄金で作られていました。不思議に思って尋ねると、畑に沢山転がっていることが解り、二人は黄金を拾って貯蔵しました。そして、その地に楼閣を造り金宮と名付けました。当時、牧港には大和の船も出入りしていたので若者は鉄を買いいれ、それを農民に与え農具を作らせました。

[5] 人々はこの若者を父母のように慕いました。やがて若 者は人々の信望を集め、浦添の按司となり、中山王察度となりました。察度は琉球王国と中国明朝との貿易を始めた人です。


トロピカルビーチ

公園の海岸にはトロピカルビーチという海水浴場が造られている。沖縄の5月はもう夏という事もあり、海水浴を楽しむ人が多くいた。海水は透き通って、色鮮やかな熱帯魚が泳いでいるのが近くで見る事ができる。


アトムホームスタジアム

公園内には野球場もあり、横浜DeNAベイスターズのキャンプ地となっている。2018年からは宜野湾市に本社を置くアトムホームが年額600万円5年間の契約で命名権を取得し、アトムホームスタジアム宜野湾と呼ばれている。今年が契約最終年だが、時期も命名権が継続されるのか興味ある所だ。ここ以外にも浦添ではANA Sorts Park、アイム・ユニバースてだこホール、那覇市の沖縄セルラースタジアム那覇などがあり、各自治体は命名権で資金調達を図っている。


ラグナガーデンホテル

公園に隣接して、幾つかのリゾートホテルも建っている。ラグナガーデンホテルは、その一つで、比較的安く泊まれる様だ。一泊2人で12000円程。


真志喜主落の人口は、増加が顕著にみられるのは、キャンプマーシーの全面返還後、真志喜地区土地区画整理事業が行われた時期にあたる。その後も、人口の増加は続いている。これは子の事業により、住環境が著しく向上し、転入者にとっては魅力的な地域になっていることがあるだろう。

宜野湾市にある字の中でも、真志喜地区土地区画整理事業以降の人口増加率は非常に高いことが判り、現在では、人口の多い字になっている。地域内南側には、まだ普天間飛行場基地が存在しており、この基地が返還されると、跡地利用で更に人口が増えると考えられる。

集落の変遷が分かる各時期の地図を見ても、その発展の過程がよくわかる。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)


  • 御嶽: 謝名西森 (神名: 不明) 
  • 殿: 大川ノ大ヒヤ殿、石川ノ大ヒヤ殿、呉屋ノ大ヒヤ殿、小国ノ大ヒヤ殿、謝名巫火神 (ここにある五つの殿についての情報は見当たらず)
  • 村井泉 (拝井泉)森ヌ川ヌ泉シチャヌカークァンガー

集落の東側に、御願の方があり、その手前にウンサク山 (ウンサク毛) がある。西側には、ヌル殿内、北側には、火の神があった。 拝泉は、集落の東側に、森の川の泉、北側にシチャヌカー、大謝名部落との境界近くにクァンガーがあり、 察度王の産水を汲んだという。以前、北側には東クァンガー、西側には大城のカーがあった。 その他、共同湧泉には集落 西側のマーチスカーがあり、死水に使用された。 南側にはイシチャーガーもあったが今はない。 兼久原にタクグワーケー毛、城の花には石灰を焼き出すフェーヤチガマ、北西側には龕屋があった。 集落内には製糖小屋が四カ所、溜池が三ヵ所あった。

現在の聖地は、ウガンヌカタ (西森)、ヌンドゥンチ、ヤマグヮー、クァンガー、森の川、イシチャーガ、火の神、クシュナファヌカー、東カンガー、下ヌカー、大城ヌカー・マーチヌカー、タク小毛、ガンゴなどである。

主な年中行事は、3月3日は三月遊び。女たちは、適当な家を借り一晩中踊り遊んだ。その日の御馳走は過去一年出産した者が準備した。4月4日はタクグッークェーで、大山同様、宇地泊漁夫から供物があった。6月は綱引きがある。 部落を前と後に分けアギエーと綱引きの勝負がある。御願には謝名ヌル・部落役員が当たり、ヌル殿内、御願の方、森の川の泉、ウンサク、クァンガーを拝んだ。このことをワラビ神酒と呼び、昔はムラウバギー (人口報告) が主であったという。 現在、御願は部落役員のみで行っている。 8月にはビーチャーニービチがあり、各家庭で厄除け祈願をした。戦前のウマチー (稲祭) の時には、 神役ノロは奥間の自宅からノロ衣装をヌン殿内まで持参しそこから、その衣装を神馬に乗せて御嶽まで行って、祭祀をつとめたという。ウマチーの拝みの順序は、今も昔も変わりなく、初めにヌン殿内、ウガンヌカタ、森の川、カンガー、奥間根屋、最後にヤマグヮーで終わる。

文化財マップが置かれていた。事前に調べたものとこのマップに従って、集落巡りをする。


真志喜集落訪問ログ



西森御嶽 (イリムイヌウタキ、ウガンヌカタ)

森川公園内には真志喜集落の聖地だった西森御嶽 (イリムイヌウタキ) がある。森之川の東に隣接して門構の石塁があり、その後方が西森御嶽で、ウガンヌカタとも呼ばれていた。琉球第二尚氏王朝第13代国王尚敬王 (在位 1713年 - 1751年) の時代、1725年 (雍正3年、琉球第2尚氏王朝第13代国王13年) に、第四代国王尚清の第七王子である朝義 (尚宗賢) を祖とする向氏伊江家が修造したと伝わる。 石塁は沖縄戦で戦災を受け、大部分崩れたが、戦後に修復されている。 元来は門の内側にイビがあったとされる。石門の後方にあるマヤーアブの洞口下の岩陰に神墓があるので、そこへの通路であった可能性もある。現在では石門前で拝み、奥間 (ウクマ) 門中だけは神墓を拝している。この西森御嶽の後方に奥間大親が屋敷を構えていたと伝わっている。


マヤーアブ

西森御嶽の石塁の後方にはマヤーアブと呼ばれる洞窟がある。沖縄戦では、部落内には日本軍の石部隊鈴木中隊が約20戸に分散駐屯し、 兼久原、城の花や大山の美底森一帯にまで陣地構築を行なっていたが、米軍上陸地点の西海岸に面していることもあり、上陸以前の1945年 (昭和20年) 3月27日頃には、村は焼夷弾の猛攻撃をうけ灰土となっていた。そのため、住民約 300人がこのマヤーアブに避難し生活をしていた。当時の集落人口は426人であったので、住民の70%にあたる。宮崎に学童疎開を送り出し、また今帰仁疎開者もいたので、ほとんどの住民がここに避難していたようだ。真志喜の避難壕は、この洞窟一ヵ所と決まっていたので、他の集落の人は原則として中に入ることができなかった。壕での生活は、夕方になると畑に芋掘りに行き、水は壕の外に森ヌ川の泉を使用していた。焼夷弾の猛攻撃を受けて2週間もたたない4月9日頃、米軍が大きなライトを照らし、二世の人を通じて「殺さないから、助けに来たので壕から出なさい」と呼びかけ、みんな恐そる恐そる壕から出て捕虜となった。沖縄戦にまきこまれ、逃げる真志喜の人びとの命を救った洞窟だった。他の避難洞窟では、集団自決などの悲劇が起きているが、ここでは避難していた住民は全員捕虜になっている。米軍が上陸した初期で、まだ日本軍との激戦が始まっていなかったことや、多分日本軍は大謝名、嘉数に後退していたと思われ、壕には日本兵がいなかったことで、捕虜になることに抵抗がすくなかったことが理由ではないだろうか?


マヤーアブの顕彰碑

マヤーアブの近く西森御嶽の前の広場の一画には真志喜の人びとの命を救ったマヤーアブを顕彰して碑が建立されている。戦争の記憶を風化させないよう、ここでの出来事を後世の人々に伝えていくと記されている。


森之川 (ムイヌカー)

西森御嶽の前には羽衣伝説の舞台として有名な湧き水の森之川 (ムイヌカー) がある。 1725年に尚氏伊江家の一族により、石積みで建造されたと伝わっている。県指定名勝に指定されている。 真志喜集落の人たちにとっての産水、若水としても使われた大切な井泉で、旧歴2月15日、3月15日のウマチー (麦) で健康と子孫繁栄の祈願を納める行事を行っている。

井泉の奥には丸く石積みで囲われ貯水タンクの様なものがあり、階段で中に通じている。奥には窪みがあり、その前に香炉が置かれている。この場所が何なのかは、殆どの資料には書かれていなかったのだが、その一つに、ここが井泉の源泉で、祀っていると書かれていた。

この森之川にも羽衣伝説が伝わっている。察度王の両親に係わる伝承になる。

この伝承は勿論、後に作られたものだが、奥間大親に関して、なんらかの示唆が含まれていると考えられている。それにより、色々な説がある。まず奥間大親だが、その生い立ちについては不明なことが多い。奥間大親の父は奥間鍛冶屋 (カンジャー) と称し、中城間切奥間村から宜野湾間切真志喜村 (この時代ににはまだ真志喜村はなかったので、謝名村が正しいと思う) に移り住み、百名大主の十二男真志喜大神二代目真志喜五郎の養子になったという。(奥間カンジャーの墓は、大里城址西側の金満御嶽にあると書かれていたが、この金満御嶽を訪問した際には大里按司の家来の金松とか、大里グスクが減んだ時の戦死者とか、諸説あるとなっていた。これも別の説なのだろう)  奥間鍛冶屋 (カンジャー) の父は国頭間切辺土名村の生まれの辺土名主 (ヒントゥナサトヌシ) で、若いころは佐敷間切新里村に住んでいたが、後に宜野湾間切謝名村に移り住んだ。伝説によると辺土名里主の父は並里按司で、大和から来た人だといわれ、沖縄中を巡行し、五穀の種子植え付けを指導したと伝えられている。(並里按司の墓は同村の新里村の沢川御嶽の山中にあり、佐敷間切新里村屋号並里で祀られている) この様に奥間大親は決して貧乏な家に生まれたのではなく、謝名村の有力者の家だった。家には金がゴロゴロしていたとの伝承は、金持ちだったということだろう。この奥間大親の妻が天女とされるが、この天女は英祖王統第三代恵慈王の次女真銭金と伝わる。系図にもあるように、跡目争いで兄弟同士が殺し合い、玉城王が王位についた際に、ここ真志喜に逃れ、奥間大親の妻となり、娘 (後の聞得大君) と息子 (後の察度王) をもうけたとされている。天女伝説では天女は羽衣を取り戻し天に帰ったとされる下についても、色々な説 (解釈?) がある。察度の母 (天女) は察度10才の時に亡くなったという説。奥間大親と真銭金は同棲で、正式な夫婦ではなく、真銭金は奥間大親と二人の子をもうけた後、大里按司と結婚 (再婚?) し、後の南山王の承察度と江英紫を生んだという説。更に、三男天久按司北山城主とある のも意外だが、北山王伯尼仁は天久按司兼次が羽地按司の婿 になり、北山城主となったとも伝わる。ちょっとこれは信じがたい。真銭金は中山王の前妻、南山王と北山王の母という事になる。それであれば、なんらかの文献に残っていると思われるのだが…

宜野湾市では、毎年、羽衣祭りが行われており、町おこしの行事となっている。宜野湾市では察度は英雄だ。市内で幾つも “はごろも” とネーミングした施設を見かけた。また宜野湾のゆるキャラも天女で、このキャラクターもよく見かけた。


天女のレリーフ

公園内には、普天間にゆかりのある明治から昭和にかけての彫刻家・画家の山田真山がこの天女伝説をモチーフにした作品をもとにしたレリーフのモニュメントが造られていた。

山田真山は那覇市壺屋に生まれ、東京美術学校で進んで木彫科・彫塑科を専攻、山田泰雲に師事し、その養子となる。高村光雲の教えも受けている。1906年には清国の北京芸徒学堂教授となるが、翌1907年に帰国して東京美術学校に戻り、小堀鞆音に日本画を学んでいる。1940年、故郷の沖縄県に帰るが、1945年に沖縄戦に巻き込まれ、息子2人を失う。これを機に平和への願いを強め、1957年、72歳で平和祈念像の制作に取り掛かるが、未完成のまま1977年に死去した。像はすでに出来ていた原型を元に1978年に完成され、糸満市の沖縄平和祈念堂に安置されている。


西森碑記

森川公園内、西森御嶽の石垣の後方岩上には、西森御嶽 (ウガンヌカタ) と森ヌ川の石積み整備の完成を記念する石碑がある。この西森碑記は 1725年 (雍正3年) に建立された碑文で、「宜野湾間切謝名村二林岳有り西森ト名ヅク清泉有森川ト名ヅク ......。西森ノ岳前石垣ヲ薬修ス、其長サ五丈四尺井テ門ヲ開キ以テ出入ヲ通ズ皆新修ナリ」 とあり、向氏伊江家が西森御嶽と森之川の石積み工事を行ったことが書かれている。伊江家は、琉球王国第二尚氏王統第四代国王尚清の第七王子である伊江御殿元祖の朝義 (尚宗賢) に始まる。朝義の生母 (城の大按司志良礼) が、宜野湾間切謝名村の野国掟 (うっち) の娘であること、伊江家一族は、毎年5月に西森と森の川を拝んでいること、野国掟が天女伝説の奥間大親の裔流であるとの伝説があると伝わっている。伊江家は、その当時首里王府内でも政治の実権を握っていた三司官を輩出するなど、有力な家柄だった。


森川之塔

公園内には日中戦争から太平洋戦争までの真志喜の戦没者78柱が祀っている森川之塔が建てられている。初代の森川之塔は、1956年 (昭和31年) に、真志喜区自治会によってウンサクムイの頂に建てられたが、ウンサクムイが削られた際に二代目の森川之塔を現在の場所に移している。

沖縄戦当時、森川公園の東側、普天間飛行場内には、日本軍が85高地と呼んだ陣地が置かれ、独立歩兵第13大隊第3中隊が布陣し防備をしていた。主陣地があった場所です。米軍は Cuctus Ridge と呼び、嘉数高地の戦いの直前に激戦地となった場所。4月4日朝から前進陣地の神山陣地 (第5中隊布陣) は猛攻撃を受け撤退を余儀なくされた。西側の海岸沿いでは、戦車と共に米軍が南下し、眞志喜付近まで進出。4月5日に85高地は側面から攻撃を受けるが、速射砲などで応戦し、米軍戦車3両を撃破して南下を阻止。4月6日に激しい戦闘が85高地で繰り広げられ、ついに第3中隊はほぼ全滅状態となり、7日には米軍が85高地付近を占領し、第3中隊と第4中隊は嘉数高地陣地に後退した。撤退できたのは僅か20名ぐらいだった。この後、4月9日にマヤーアブに避難していた真志喜集落住民300名が捕虜となった。

真志喜の沖縄戦での戦没者は資料によって異なっている。その調査した時期や、カウントの方法で少しずれがある。下のグラフでは戦没者は51名となっているが、平和の礎の調査では112人と倍以上になっていた。真志喜区自治会では、毎年9月最後の日曜日か、10月の第1日曜日に慰霊祭を行なっている。


御神酒毛 (ウンサクモー 、御願小 ウガングヮー)

奥間屋敷と西森御嶽の中間にかつては山小 (ヤマグヮー) という森があり、頂上の広場には西森御嶽に向いた御願小 (ウガングヮー) があった。この山小 (ヤマグヮー) が削られた際に、御神酒毛 (ウンサクモー) も無くなってしまったが、拝所を西森御嶽近くに移している。この聖地は旧六月のウマチーの綱引きの際に拝まれている。この所では神酒 (ウンサク) を配ったことから、別称神酒毛 (ウンサクモー) ともいわれている。



次はかつての聖域だった現在の森川公園のすぐ西から東に広がっていた真志喜集落内に移る。



クヮンガー

森川公園から民家があるところに降りたところにクヮンガーと呼ばれる井戸があった。香炉があるので、拝所となっている。

昔の真志喜集落はこの辺りから始まったと伝わっている。写真の奥の丘陵地が森川公園になる。森川公園が昔の集落の聖域にあたる腰当 (クサティー) でその前に集落が広がっていたのだろう。


中道 (ナカミチ)

森川公園から西に進むと、パイプライン通りに出る。このパイプライン通りは真志喜集落の中を南北に、北は大山へ通じる道で、集落の中道にあたっていた。


真志喜公民館

中道沿いに真志喜公民館がある。公民館の広場では毎年の大綱引きの綱作りが行われているそうだ。


真志喜の大綱引

現在、真志喜の大綱引は旧暦6月15日のウマチーの日に近い週末に、真志喜中学校校庭で行われている。

綱引きは集落を二つの地域に分け行われる。国道58号線を境に、海側集落の1~2班を前村渠 (メンダカリ、雄綱)、山側集落の3~7班を後村渠 (クシンダカリ、雌綱) と呼び、この二つが綱を引きあい、五穀豊穣と集落繁栄を祈願する。300年以上の歴史がある綱引き行事だ。真志喜大綱引きは、まず旗頭のガーエー (勝負) があり、その後にアギエー (綱の激しいぶつかり合い) と綱引きを交互に2回繰り返す。アギエーは、6尺棒と4尺棒を綱の下に差し込み、相手よりも高く掲げて綱と綱の押し合いを行い、相手の綱が地面に落ちた時点、相手の綱に乗っかって押しつぶした時点で勝敗が決る。このアギエーは県内では宜野湾市の真志喜と大山でしか行われていない珍しいものだそうだ。昨年は、コロナ禍で大綱引きは中止となったが、今年はどうだろうか?


祝女殿内 (ヌンドゥンチ)

公民館の南側すぐ近くに、祝女殿内 (ヌンドゥンチ) がある。戦後、祝女殿内は壊れたが、コンクリートで拝所を再建していた。

その後、鎌倉芳太郎 (1898-1983) が残したスケッチを参考に、2000年 (平成12) 年に元の形の木造瓦葺で復元されている。この祝女殿内ではノロ火神が祀られている。


地頭火ヌ神 (真志喜神社)

公民館の北には真志喜村の火ヌ神を安置している拝所があり、地頭火ヌ神と呼ばれており、祠の中に三つの石を祀っている。(Google Map では真志喜神社と出ていた)



ティーチガー

国道58号線を海岸側に渡り、かつての集落の前村渠 (メンダカリ) の西側にティーチガー公園がある。かつては、ここにティーチガーと呼ばれた井泉があったことから、公園の名がついている。公園内の東屋の脇にデザインされた井戸が造られている。これがティーチガーなのだろう。


下ヌ井泉 (シチャヌカー)

国道58号線 (旧軍道1号) を北に進み、ちょうど先程の地頭火ヌ神近くにあたる道沿いに下ヌ井泉 (シチャヌカー) がある。約300年程前に墓を造ろうとした与那覇家の先祖が掘り当てた湧き水で、真志喜住民が生活用水や飲料水として利用していた。戦後、この一帯はアメリカ軍のキャンプ・マーシーの一部として接収され、1976年に沖縄に全面返還されました際、真志喜地区土地区画整備事業の一環として整備が行われ、この井戸は2009年に本格的な修復がされている。(この近くのいすのき公園に真志喜地区土地区画整備事業完成記念碑があった)


真志喜駅跡

シチャヌカーの北、海岸方面には戦前に営業していた沖縄県営軽便鉄道嘉手納線の駅のひとつの真志喜駅跡があった。場所は資料によってまちまちだが、この道路が多分線路が走っており、駅が置かれていたのだろう。


安座間原第一遺跡

更に、海岸方面に進むと、安座間原第一遺が発見された場所になる。この遺跡は貝塚時代前・中期~後期 (紀元前5000年ごろ~11-12世紀頃まで) の遺跡で、この場所からは墓や住居跡が発見されている。

真志喜安座間原遺跡では44基の古墓と58体の人骨が見つかっている。死者の頭は、東に向けられ、新しい墓は、古い墓の東と西側に連ねられ、シャコ貝で頭を閉じて葬あれているものなど、いろいろと謎が多い墓だそうだが、その時代にはなんらかの意味があったのだろう。


タクグヮーケーモー

真志喜安座間原遺跡のすぐ西にタクグヮーケーモーと呼ばれていたので広場がある。ここでは、かつて旧暦の4月1日に、ウミヌウガンという年中行事が行われたところ。


ガークガー跡

タクグヮーケーモーの前にガークガーと呼ばれた井泉があったそうだが、今は消滅している。


城ヌ花 (城ヌ端 グスクヌハナ)

タクグヮーケーモーから西に向かって標高約16メートルの丘陵が続いている。その丘陵一帯でも古墓が発掘されており、真志喜グスクヌハナ遺跡と呼ばれている。

グスクと名がついてはいるが城塞ではなく、墓群としてのグスクで、真志喜グスクヌハナ遺跡を中心に真志喜グスクヌハナ南遺跡、真志喜グスクヌハナ古墓群、真志喜陣地壕戦跡と複数の遺跡が重なる複合遺跡となっており、少し離れた場所に真志喜グスクヌハナ東遺跡がある。

昔は丘陵地周辺は海に近い場所だったが、海岸は埋め立てられ、海岸線は遠くなり、周辺は住宅地となっている。遺跡からは主に土器の出土品が多く、南遺跡では貝塚時代後期の土器や貝殻、魚骨等が見つかっている。古墓群では鳩目銭、ガラス製臼玉、瓶子が出土し、東遺跡では石器が出土している。丘陵地は1978年に真志喜中学校建設で大半が削平されたが、丘陵の海岸に近かった場所の古墓群は残っており、そこを見学した。真志喜グスクヌハナ遺跡の古墓の多くは沖縄戦当時に防空壕として使用され、骨壺は外へ出されていた。戦後はこの辺りは米軍に土地接収されていた。途中返還後、中学校建設で土地が造成され、かつての姿から大きく変貌してしまった。

大謝名や真志喜の旧家とされる門中の墓が、この場所に多く集まっている。以下は見学しt墓の中で門中名が判る古墓を挙げておく。


[宮城家の墓]


[門 (ジョー) 門中の墓]


[楚辺門中の墓]


[野国門中の墓]


[奥間大親の墓]

丘陵の西側に奥間大親 (うくまうふや) の墓と伝わる古墓が残っている。元々の奥間大親の墓は銘苅村の銘苅高御墓にあったが、武寧王が滅んだ時に真志喜村下方白浜海岸に移されたという。



[与那覇門中の墓]


[又吉 (マテーシ) 門中の墓] 大謝名集落の根屋 (ニーヤ)


[安仁屋門中の墓]


[銘苅門中の墓]


参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾市 地理学実習現地調査報告書 2019年度 (2020 京都府立大学文学部歴史学科文化遺産学コース)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • 市内埋蔵文化財発掘調査報告書 3 (2017 沖縄県宜野湾市教育委員会)
  • はくぶつかんネット第37号 (2009 宜野湾市立博物館)