Okinawa 沖縄 #2 Day 185 (22/05/22) 旧宜野湾間切 (5) Oyama Hamlet 大山集落
旧宜野湾間切 大山集落 (おおやま、ウヤマ)
- 大山井泉小 (カーグヮー)
- 前村渠樋川 (メンダカリヒーガー)
- フルティンジャー跡
- カンジャーガー (消滅?)
- 水賀志井泉(ミジカシガー)
- 真境名川 (マジキナガー)
- イジュンガー
- アラナキガー
- 大山小学校、大山の綱引き
- ヤマチジャガー
- 大石之花井泉 (ウーシヌハナガー)
- 大山クンジャンアブシ古道
- うすの花御嶽
- ヒャーカーガー
- ナイシガー
- 沖縄県営軽便鉄道大山駅跡
- 大山洞穴
- 大山平松
- 交通安全の塔
- パイプライン通り
- 青小掘 (オーグムヤー)
- 米国人向け住宅跡
- 上江家の墓
- 友交園 (Friendship Park)
- 普天間飛行場基地大山ゲート
- 醴泉 (れいせん) の塔
- 大山マヤーガマ洞穴遺跡
- 大山御嶽 (未訪問)
- 上具志川之御嶽 (イーグシカーヌウタキ)
- 前本部之殿 (メームトゥブヌトゥン、ヒヌカン)
- 旧宜野湾道 (ジノーンミチ)
- (新)宜野湾道 (ジノーンミチ)
- 伊波の殿 (イファヌトゥン、東上之山)
- 前門原遺跡
- 安仁屋家敷跡
- トリムミチ
- メーフヌトゥン跡、大掟屋之殿跡
- カンザキ毛跡
- 大山貝塚
- 美底御嶽 (ミスクウタキ)
- 大山配水池
- 大山水田の水門
- 大山公民館
- タクグワークェー (兼久毛 カニクモー)
- 宜野湾漁港
- Jimmy’s 本店
- ファニチャー通り
旧宜野湾間切 大山集落 (おおやま、ウヤマ)
大山は、沖縄方言ではウヤマという。古い文献では、 志やな、大山、具志川、謝名具志川などとも呼ばれたとある。近代以降は大山で定着している。大山の集落巡りでは、数々の井泉跡に出くわすのだが、豊かな湧き水に恵まれていた。
大山ターブックヮと呼ばれる広い水田地帯が存在していた。戦前、部落の大半は農家で、主要作物である甘蔗は製糖小屋で黒糖にされた。 昭和13年頃、製糖小屋から共同製糖場に変わり、能率 が上がったという。甘藷は自家用で収穫の多い時は、宜野湾市場などに売り出した。部落には裕福な家が多く、瓦葺の家が多かった。また、大山のムム売イアン小 (桃売り娘) は有名で、山桃の生産地の越来村の山内、諸見里へ行き、山桃を買受け翌朝、暗い内から、近隣の部落や軽便鉄道で首里や那覇、遠くは糸満、与那原辺まで売り歩いたという。水田では稲作が行われていたが、1965年 (昭和40年) より田芋 (ターンム) 栽培へと変わり、現在では特産品となっている。また、大山はその水が豊富という事で、戦前、戦後を通じて那覇市への水源地となっていた。大山は海に面してはいるが、漁民はいなかった。水源が豊かで、農作物で自給自足が充分まかなえたためといわれる。
外人相手の商売をしていた名残だろう。大山東側は軍用地であるため米人向け貸し住宅がかなりあり、今でもその住宅が残っている。
宜野湾市内では、広い土地を有する字で、青小堀原 (オーグムヤーバル)、名利瀬原 (ナリセバル)、岳之佐久原 (タケノサクバル)、大石之花原 (ウフシヌハナバル)、新里原 (シンザトバル)、真境名原 (マジキナバル)、一里原 (イチリバル)、苧久保原 (ウークブバル)、加良当原 (カラトーバル)、 水賀志原 (ミジカシバル)、後原 (クシバル)、波佐原 (ハザバル)、樋川原 (ヒーガーバル)、東原 (アガリバル)、勢頭原 (シドウーバル)、 前門原 (メージョーバル)、富盛原 (トミムイバル)、大久保原 (ウフクイバル) の18の小字がある。 名利瀬原、新里原、一里原、後原、東原、前門原に集落が形成されている。 旧集落の大半は前門原にあり、主な拝所は旧集落の東南部に集在している。
部落の発祥については、美底山や、上具志川の御嶽のある富盛原から部落は造られ、集落がその北側の前門原と東原に広がったと推測されている。1609年から1611年にかけて行われた慶長検地では浦添間切の謝名村の一集落で、宜野湾間切新設の時に真志喜村と区別され、謝名具志川村と記載されている。大山村の名称は、1713年の琉球国由来記に初めて表わされている。上具志川 (イーグシガー、石川姓) の比屋が村立てをし、安仁屋 (アンナ、安仁屋姓)、大掟屋 (ウフチヤー、呉屋姓)、伊波 (イファ、宮城姓) を呼び寄せたといわれており、これら四家が旧大山村の草分けとされ、近世には根屋 (宗家) である上具志川家の屋敷地を高位に伊波、安仁屋、大淀屋などの旧家群の屋敷地を下位として碁盤型集落が形成されている。
大山地区の人口は本土復帰以降増加しており、その傾向は今でも続いている。沖縄戦後、1950年に旧集落への帰還許可が下りた後、人口が減少しているのだが、この理由についてはわからなかった。人口の統計がどのようにされたのかは分からないが、この人口が減少している時期は、大山に強制的に住まわされていた宇地泊、真志喜住民が帰還許可で、元の集落に戻っていったことがあるのかもしれない。その後、1960年代にかけて、人口は急増している。
大山は宜野湾間切では比較的人口の多い地域だった。戦後の1946年には最も人口の多い地域になっている。他の地域に比べて、早い時期に大山に戻れたことや、宇地泊、真志喜の住民も大山に住んでいたことももあるのかもしれない。その後、人口は他の地域に比べて増加率は低く、人口ランクは落ちている。集落巡りで出会ったおじいによると、宇地泊、真志喜に住民はほとんど帰っており、残った人はほとんどいないと言っていた。また、人口は真志喜と同じぐらいですねというと、おじいの頭では、真志喜よりははるかに多いと思っていた、確かにおじいの若いことはそうだったのだが、実際は真志喜の方が人口は多くなっている。
集落内の民家の推移を見ると、その経緯がよくわかる。琉球王統時代、明治時代から戦前までは、民家があった場所はほとんど変わっていない。戦後は帰還がかなわず、地域の東側に居住地区があてがわれている。この地域はその後発展していくことになる。本土復帰後、海岸線は大規模に埋め立てが行われ、住宅街、工業地区となっている。
琉球国由来記に、大山には御嶽の記載はなく、殿として謝名具志川里主所之殿、殿四が記載されている。
- 御嶽: 美底御嶽 (ミスクウタキ、神名:不詳)、上具志川之御嶽 (イーグシカーヌウタキ)
- 殿: 謝名具志川里主所之殿、殿四 (中間大比屋、新里大比屋、上具志川大比屋、大山大 比屋)、伊波の殿 (イファヌトゥン、東上之山)
- 門中管理拝所: 伊波の御願小 (大山御嶽)、前本部の殿 (殿小)、メーフの殿、大掟屋の殿
- その他拝所: カンサギ毛、兼久毛 (カニクモー、タクグヮークェーモー)
- 七ヌ井泉 (ナナカー): 井泉小 (カーグヮー)、前村渠樋川 (メンダカリヒーガー、ヒーガ-)、キンガー小、後村渠樋川 クシンダカリヒーガー、クシヌカー)、真境名井 (マジキナガー)、イジュンガー、アラナキガー
資料に記載されていた上の文化財の中には、場所も、その写真も、今でも存在しているのかもわからず、見学できなかったものが多かった。
大山集落での主な年中行事は、3月3-4日はサングッチャーで、女たちは適当な家を借り、前組と後組に分かれ、一晩中踊り明した。 4月1日は、タクグッークェーで、 宇地泊漁夫がその日穫れた海の幸を兼久毛 (カニクモー) に供え、部落民は歌三味線の宴を開き、若者たちは、棒踊 角力をして楽しんだ。 6月には綱引きがある。大山は元々は謝名の一部だったので、この地域の祭祀は謝名ノロによって執り行われていた。
公民館には大山集落の文化財ガイドマップがあった。ここには集落巡りのほぼ最後に訪れたので、資料とこのガイドマップを比較したが、このが度マップの全部巡り終わっていた。
大山集落訪問ログ
大山は海岸側に耕作地が広がり、その南側に少し高台になり、更にその南に一段高くなった丘陵地が横たわる。集落は丘陵地と耕作地の間に広がっていた。まずは集落の北側、ちょうど耕作地の境の高台を東西に走るケービン道と呼ばれた道沿いに点在する井泉跡を見ていく。この丘陵にある一連の井戸は主には農業用に使われていたと思われる。戦前にはこの地域には民家はほとんどなく、戦後割り当てられた居住区となっている。これ以降は住民の飲料水、生活用水として使われたのだろう。
大山井泉小 (カーグヮー)
集落の西の端、真志喜集落との境辺りには大山井泉小 (カーグヮー) と呼ばれた村井泉 (ムラガー) で七ヌ井泉 (ナナカー) の一つ。柵で囲まれて中に入る事は出来ないのだが、水溜が残っているのが見える。
前村渠樋川 (メンダカリヒーガー)
次は樋川原 (ヒーガーバル) にある前村渠樋川前 (メンダカリヒーガー)。大山湧泉群のひとつで、大山の七ヌ井泉 (ナナカー)、村井泉 (ムラガー) で、産井 (ウブガー) でもある。単に、樋川 (ヒーガー) と呼ばれている。二つある樋からは勢いよく水が湧き出ている。ここはイナグガーで女性用の水溜で、洗濯や水浴を行なっていた。髪を洗う石壺も残っている。その隣の小さな水溜にも一つ樋がある。こちらはイキガガーで男性用の場所になる。メンダカリヒーガーは拝所にもなっている。井泉の前は農地が広がっており、現在でも農業用水に利用されている。
ただ、残念な事にこの水は飲料水としては使用できなくなってしまった。「この湧き水は飲めません」と書かれた立て看板が置かれている。この井戸からは国際条約で使用が原則禁止とされた発がん性が指摘される有害物質のPFOS (ペルフルオロオクタンスルホン酸) とPFOA (ペルフルオロオクタン酸) が検出された為で、この付近の6つの井戸からも検出されている。汚染源として疑われているのは米軍普天間飛行場だ。2020年4月に米兵が格納庫近くでバーベキューをしたために消火装置が作動し、PFOSやPFOAが含まれる泡消火剤が噴出した事を米軍が9月に明らかにした。約14万3800リットルが基地の外に漏れ出した。基地内への立ち入り調査を米軍に申請するも、許可は出なかった。日米地位協定の存在で、日本の行政権が及ばない事で、住民の不安は続き、今年には住民運動が活発化している。この問題は以前から知られていた。2016年、沖縄県は45万人に供給される北谷浄水場の水道水に有機フッ素化合物・PFOSが含まれていたと発表し大きな問題になった。子供が長年にわたり、この水を飲み続けていたことに、住民には大きな不安と怒りをもたらした。大山にも、北谷浄水場から、この後訪れる大山配水池に配水され、上水道水として使用している。ただ米軍は、ほとんど対応せずに、代替にはコストがかかるという理由でそのまま消火剤を使い続けて、今回の事件が起きている。北谷浄水場では16億円 (沖縄県と北谷町の負担で、米軍と日本政府は資金提供はない) をかけ、活性炭の取り替えを行い、現在、水道は飲料水としては安全なレベルにはなっている。大山の名産の田芋は汚染された井戸水を使っているのだが、田芋のPFOS吸収率は0.2%で食用としては問題ないのだが、風評被害が続いている。いまだ米軍はこれに触れる事を避け、日本政府も積極的には取り上げていない。今年は沖縄復帰50周年で、本土では記念祭として捉えられているが、ここ沖縄では、まだ復帰は完成されていないと再認識する日になっている。ウクライナ先勝では米国、日本政府が多額の支援をしているが、それに比べ、このPFOS問題では、米軍は代替品のコスト高を理由にいまだに問題の泡消火器を使い続けている。日本政府の対応も腰が引けている。これが沖縄県民が、米国政府、米軍、日本政府への不信感が払拭できない一つの理由にもなっている。
汚染が問題になっているのは普天間飛行場の海岸側に集中している。これは発生源の普天間飛行場から北に向かって傾斜している事による。
フルティンジャー跡
前村渠樋川 (メンダカリヒーガー) の近くにはフルティンジャー古湧泉遺跡跡がある。現在は埋められてしまい残っていないのだが、出水口が設けられていた。
カンジャーガー (消滅?)
道を進んだ場所には七のカーの一つのカンジャーガーが存在していた様だ。ある資料の地図には載っていたが、それ以外に全く情報はなかった。昔は拝まれていた井泉なので、残っていれば文化財として紹介されているはずなので、消滅してしまったのだろう。
水賀志井泉(ミジカシガー)
道を進むと小字の水賀志原(ミジカシバル)になり、このには水賀志井泉 (ミジカシガー) がある。これも大山集落の村井泉 (ムラガー) の一つで、水賀志毛井泉 (ミジカシモーガー) や後村渠樋川 (クシンダカリヒーガー) とも言われている。先程は前村渠樋川 (メンダカリヒーガー) があったので、この辺りは前村渠という部落と後村渠という部落があったのだろう。大山で出会ったおじいの話では、昔の大山はこの辺りにあったと言っていた。二つの班に分かれていたのだろう。水賀志井泉(ミジカシガー)の樋は、昔は、これより高い場所にありそこから水が湧き出ていて、水汲みの女性が頭上に桶を載せたまま、水を汲む事ができたそうだ。戦前は飲み水にも使っており、正月にはもやしをつくっていたそうだ。以前は粟石で三つのついたてがあり、女性専用の水浴び場として、イナグガーとも呼ばれていたという。
真境名川 (マジキナガー)
大山湧泉群の5番目の井泉の真境名川 (マジキナガー) が、小字の真境名原 (マジキナバル)にあり、ここも七ヌ井泉 (ナナカー)、村井泉 (ムラガー) になる。 昔は豆腐造りに使われた良質の水が出ていた。残念ながら、現在では時々しか水が出ていない様なのだが、農業用水に利用されているそうだ。
イジュンガー
ケービンミチ沿いに拝所が置かれていた。これはかつては井泉だったイジュンガーを祀った祠。この井戸の詳細は見つからなかったが、七ヌ井泉 (ナナカー) だった。
アラナキガー
大山湧泉群の7つ目のアラナキガーで七ヌ井泉 (ナナカー) の一つ。ダムのなかった戦前は、那覇市まで水道水を送っており、今も、当時使われていた配管が残っている。現在は農業用水に利用されており、井戸からは何本も配水管が農地に向けて伸びている。戦前は木々が生い茂るこんもりとした中から水が湧き出ていたのだが、沖縄戦で爆弾が落とされ穴が開き現在のように開けてしまったそうだ。
大山小学校、大山の綱引き
アラナキガーの南側には大山小学校がある。この校庭では、旧暦の6月15日のウマチー後の日曜日に、豊穣祈願、厄払い、子孫繁栄を願って、大山の綱引きが行われている。300年以上の歴史のある綱引きだ。戦前 は、ウマチーの日に旧県道 (現在の国道58号) でおこなわれていた。
雄綱は前組の担当で村屋の前、雌綱は後組が平松の下で準備していたが、現在は、二組とも公民館前で行っている。 綱引き当日は、部落役員が、上具志川の御嶽、綱の神前、本部の殿、伊波の殿、美底山、普天満宮を巡拝する。 綱の準備ができると、夕食の後、各自、所属する組の綱を引き、雄綱の前村渠地区、雌綱の後村渠地区の旗頭を先頭にそれぞれの「道ジュネー」という行列が街を練り歩き綱引き会場に向かう。そして、ガーエーなどをおこなった後、いよいよアギエーと綱引きの勝負となる。綱引きの前には、隣の真志喜と大山の名物のアギエー勝負が行われる。これは綱の先端を六尺棒で高く持ち上げてぶつけ合い、相手を倒すという独特の勝負。アギエー勝負の後に綱引きが行われる。勝負が終わると、カナキを切り取り、前組は前村浜に、後組は後村渠浜にそれを流した。現在、勝負は 昼間行いカナキを流すこともない。
ヤマチジャガー
ケービンミチから畑に降りた所に大山湧泉群のひとつのヤマチジャガーがある。この井戸にも水溜が二つあるので、男性用と女性用となっていたのだろう。脇には腰を下ろしたのだろう、ベンチが設けられている。現在は農業用水に利用されているそうだ。
大石之花井泉 (ウーシヌハナガー)
ヤマチジャガーから民家のある高台が海岸方向に半島状に突き出している。大石之花 (ウーシヌハナ) と呼ばれている。
ヤマチジャガーから畑の畦道をその崖下に向かい進むと大石之花井泉 (ウーシヌハナガー) がある。ここにはかつては、国頭畦 (クンジャンアブシ) と呼ばれた畦道が通っており、旅人はこの井戸でのどを潤したのだろう。
この涌水は水路を伝わり田芋畑に水が流れている。田芋はターンムと呼ばれ、大山の特産品となっている。田芋畑は全盛期に比べて半分以下になっているが、この大山は水が豊富な事で、今でも続いている。宜野湾市ではこの田芋生産の奨励の活動の一環として2月6日を「宜野湾市ターウムの日」としている。
沖縄への田芋の伝播がいつ頃なのか年代は定かではないが、文献から見ると甘藷導入以前の15世紀半ばには栽培がされていたと思われる。沖縄では昔から、正月元日の芋の汁や供え物に田芋がみられるなど儀礼食に用いている。特に正月は料理には欠かせない食材でこの時期には値段が高値になる。
大山クンジャンアブシ古道
大石之花 (ウーシヌハナ) の先を通って北に向かう畦道は国頭畦(クンジャンアブシ) と呼ばれており、琉球王朝時代には首里と本島北部の国頭を結ぶ街道で、宇地泊から現在は畑になっている中を伸びていた。当時は人が一人通れるぐらいだったが、後に改修され、馬車が通行できるようになり、国頭方西 (クニガミホウセイ) 海道と名前が変わっている。旧県道 (現在の国道58号) ができた後は、使われなくなって、現在はその一部しか残っていない。
うすの花御嶽
大石之花 (ウーシヌハナ) の先端の高台に拝所があった。うすの花御嶽神 御先龍宮神と刻まれている。うすの花は大石之花 (ウーシヌハナ) の事だろう。拝所の前には香炉が三つ置かれており、それぞれは、水神、龍宮、御嶽を祀っている。先程の大石之花井泉 (ウーシヌハナガー) は、この拝所のクサイ井泉にあたるのだろう。
ヒャーカーガー
ケービンミチに戻り、道を北東に進むと大山湧泉群のひとつのヒャーカーガーがある。かなり大きな湧水井泉で、涌水口が三つあり、そこから勢いよく水が流れ出している。現在は農業用水に利用されており、水溜から農地に水路が設けられている。以前、普天間基地から航空機燃料用ガソリンが流出し、この井戸に流れ込み水が燃えたことがあった。水田、田芋畑の農作物が壊滅し、簡易水道源に大きな被害があった。それで一時は、ガソリンガーと呼ばれたこともあったそうだ。
ナイシガー
ケービンミチ沿いにある最後の井泉がナイシガーで、畑に降りて行った所にある。これでこの道沿いには、11の井泉を巡った事になる。多分、消滅してしまった井泉もあるだろう。今まで巡った集落で、これほど多くの井泉がある集落は初めてだ。この井戸は現在は農業用水に利用されているそうだ。
沖縄県営軽便鉄道大山駅跡
更にケービンミチを進むと、戦前までは那覇と嘉手納を結ぶ沖縄県営軽便鉄道嘉手納線の大山駅跡がある。
普天満宮の参詣客を運ぶ客馬車やサトウキビなどの貨物の取り扱いで、大山は大いに賑わっていたそうだ。当時の様子を描いた「大山ターブックワーの前を走る軽便鉄道」の絵が先日訪れた宜野湾市立博物館にある。また、跡地から発見された車輪も展示されている。写真は戦後米軍兵士が馬に乗って大山駅を駆けている様子。
この大山駅に隣接して昭和14年に大山共同製糖工場が建てられ、昭和19年までには工場の負債を完納してかなりの利潤を得るまでになったが、戦中は友軍の兵舎となり、戦禍で灰に帰してしまった。戦後1954年 (昭和29年) には跡地にペプシコーラ工場となっていた。
大山洞穴
現在の国道58号線沿いの名利瀬原では、1964年 (昭和39年) に、アメリカ人の少年によって化石人骨の下額が発見され、大山洞人と命名された。 宜野湾市内では最古の遺物であり数万年のものとされる。洞穴は、現在は残っていないが、宜野湾市立博物館でレプリカが展示されていた。
大山平松
国道58号線は今では広い幹線道路になっているが、戦前は普通の道幅だった。当時の道沿いには、旅人の憩いの場として知られる大山平松があり、大山の名物としても広く知られていた。1917年に撮した写真が残っている。この立派な松は残念ながら、沖縄戦で失われてしまった。
交通安全の塔
国道58号線の大山と伊佐の境界にある伊佐交差点に交通安全の塔なるものがある。糸満市平和祈念公園内の平和祈念堂の平和祈念像や真志喜集落の森川公園にあった天女のレリーフの原画の作者の山田真山 (1885 - 1977) のデザインだそうだ。この交通安全の塔は、未だアメリカ政権下だった1964年の東京オリンピックの際に、沖縄でも聖火リレーが行われ、この道を通ることを記念して作られた。聖火をイメージした塔になっている。当時は、伊佐交差点は交通量が多く、沖縄県一をほこる交通事故の発生場所だったそうで、交通安全を祈願している。塔の前には沖縄らしく4体のシーサー四兄妹が置かれている。名前が、シーサーを沖縄方言と掛け合わせて面白い。長男は「飲酒運転しないでほシーサー」、長女は「ゆとりを持ってほシーサー」、次男は「一時停止してほシーサー」、次女は「暴走しないでほシーサー」と名付けられている。
パイプライン通り
この交通安全の塔の場所付近で、国道58号線とパイプライン線が合流している。次は、このパイプライン線を真志喜方面に走り、道沿いの文化財を巡る。このパイプライン通りは大山集落の真ん中を走っていたので、以前は中道 (ナカミチ) だった。この道は、那覇市、浦添市、宜野湾市をつなぎ、主要幹線道路の国道58号と国道330号の間に位置する路線で、浦添やこの宜野湾に来るときには、いつも走る道。戦後の1952年 (昭和27年) に、那覇軍港から嘉手納基地まで、軍使用のジェット機燃料を輸送する鋳鉄製オイル管を埋設するために整備されたので、通称「パイプライン」として呼ばれる様になった。この道は人々の通勤、通学をはじめ、企業の流通路としても利用されていたが、雨が降れば泥んこ、晴れればホコリが舞い上がる悪路だったが、米軍の軍用施設なので道路整備ができなかった。県民の早期返還の要望が高まり、1985年 (昭和69年) に内間~伊祖間、1990年 (平成2年) に伊祖~牧港間が返還された。
このパイプライン道にはオイル管の管理用として数ヵ所に大きなバルブボックスが路上にあり、交通事故が相次ぎ、油の流出や引火爆発事故などもあり撤去要求が強く、宜野湾市では1990年に返還された際の、バルブボックスも撤去している。現在でも、バルブボックスのあった場所は道幅が広くなっている。
青小掘 (オーグムヤー)
パイプライン通りと国道58号線の間に走る道沿いにも井泉跡がある。小字の青小掘原 (オーグムヤーバル) にある七ヌ井泉 (ナナカー)、村井泉 (ムラガー) の一つなので青小掘 (オーグムヤー) と呼ばれている。資料によっては、フルチンガーとも記載されている。井泉があった場所は柵で囲まれて、中には入れないのだが、資料によると、大きな洞穴の開口部から湧水が流れ出て、湧水は周りの土地を侵食して、側面が急なオーグムヤーガーラという川となっているそうだ。沖縄県営鉄道嘉手納線の大山駅が設置された際には、このオーグムヤーからの水を貨車などの清掃に利用していた。 共同製糖工場も、この水源を使用の前提で敷地を選定したと考えられる。かつては、那覇市への上水道に水源にもなっていた。柵の外側には祠が見受けられて、拝所となっている。
米国人向け住宅跡
平屋の企画住宅で、同じ形の家屋が幾つも残っている。現在は一般向けの賃貸物件 (人気があるのか、比較的高い賃料) や、ゲストハウス、カフェなどになっている。
上江家の墓友交園 (Friendship Park)
墓群の一画には宜野湾市内では、最古の亀甲墓がある。伊波一門の分家筋とされる上江家が管掌する墓で、1699年に造られたそうだ。
当該古墓は大山御嶽碑を建立した伊波家一門が造営したと考えられている。
友交園 (Friendship Park)
パイプライン通りは国道58号の大山バス停の場所で広場に出る。ここは公園になっており、友交園 (Friendship Park) と呼ばれている。公園の中に、”MCAS Futenma” と書かれた派手なモニュメントがある。MCAS は Marine Corps Air Station の事なので、つまり、普天間飛行場の意味。何故、ここにこんな表示があるのか疑問に思い、調べると、この友好園は基地の管理区域だそうで、米軍は地元民との交流の一環として、一般開放されており、地域住民の憩いの場所となっている。海兵隊員が定期的に清掃しているそうだ。ただ、PFOSの問題もあり、ここでは普天間飛行場返還を求める集会などが行われており、ちょっと複雑な場所でもある様だ。
普天間飛行場基地大山ゲート
友交園 (Friendship Park) から丘陵を上る道があり、ここを進むと、普天間飛行場基地大山ゲートに通じる。これより先は基地なので、この道はここで終点となる。
醴泉 (れいせん) の塔
大山ゲートの手前には、醴泉 (れいせん) の塔と名付けられた慰霊塔が建っている。1961年 (昭和36年) に建立され、405柱の戦没者が祀られている。この内、300柱が沖縄戦での犠牲者となっている。当時敵として戦った米軍の基地のすぐ前に慰霊塔があるのは、ちょっと複雑な気持ちになる。この奥にはマヤーガマーの一部 (マーヤガマー第一洞窟) があるようだ。
4月1日に北谷に上陸した米軍は3日後には、普天間、4日には野嵩に捕虜収容所を設置、5日には、この大山に到達している。おじいの話では、村は焼け野原になってしまったと言っていた。手持ちの資料では沖縄戦では278人 (慰霊碑では300人) が犠牲になり、集落の22%にあたっている。
戦後、本島北部等の各収容所から帰村した大山住民は、野嵩・普天間地区に一時、居住し、1946年 (昭和21年) 11月から米軍から一里原、大石之花原、新里原、名利瀬原の4地域に限り、帰還地区として割当てられ、居住が許可された。米軍は翌年の6月には、この大山住民の割当て居住地の南に接して、宇地泊と真志喜の住民の居住地区としている。大山住民は終戦5年後の1950年 (昭和25年) に、元集落が解放され、帰還している。集落は幸いにも普天間飛行場として収用された場所から外れていたので、帰還後、村の復興に開始することができた。ただ現在でも、大山地域の半分近くが普天間飛行場として返還がされていない。宇地泊は終戦6年後の1951年 (昭和26年)、真志喜は 10年後の1955年 (昭和30年) にようやく元の村への帰還が許されたが、元集落の大半はそれぞれ米軍のキャンプ・ ブーンとキャンプ・マーシーとして接収されており、新たな地に村づくりをしなければならなかった。
大山マヤーガマ洞穴遺跡
- 昔、ここマヤ―ガマに住む魔物 (マジムン) が猫に化けて、大山村の子供たちを行方知れずにしたそうです。それを見かねた村の力持ちが、化け猫をこらしめ、逃げ込んだ洞穴の中の甕を棕櫚の皮で作った左巻きの縄でくくりつけました。それ以来、マヤ―ガマの化け猫は、二度と村にあらわれませんでした。
マヤーガマへ向かう遊歩道沿いには、大山に関係ある人物や絵などを紹介する石板が並べられていた。
大山マヤーガマ洞穴遺からは約3000年前、約2300年前、約800年前と年代に幅のある土器や、人骨やその副葬品の貝輪、約200年前の蔵骨器が発見されている。古くから墓として使われていた。前庭部では石斧や柱跡などが見つかり、ここで生活していたとも思われる。
大山御嶽 (未訪問)
国道58号線 (旧軍道1号線) の南側、つまり普天間飛行場側は丘陵地になっており、集落発祥の地と言われている。その中に大山御嶽が資料で紹介されていたが、探すも見つからない。後で調べると、大山御嶽は伊佐門中の宗家の屋敷内にあるそうで、個人宅の敷地内なので見つからなかったのだ。伝承によると、伊波之子 (いはぬしー) が、与那覇宮城から移ってきて集落を拓き、この地に住み、その住居が屋敷大山と呼ばれたことが村名の由来ともされ、御嶽を建立したと云う。宮城 (ナーグスク) の御宿井 (ウスクガー) に伝わる伝説に天女の子孫が伊波之子という。大きな岩の前に祠があり、その中には石体三個が祀られているそうだ。御嶽の横には大山御嶽碑が建てられて、伊波之御願小 (イハヌウガングヮー) と呼ばれている。これは伊波門中発祥の記念碑として、1761年 (乾隆26年) に建立されたもので、碑文には、200年程前 (という事は16世紀半ばになる) に、この村に伊波之子がやってきて村を開いた事や、宮城、伊波一族の由来や地方上級役 人層の家名、位階称号が記されている。碑文には、次のようなことが記されている。「往古与那覇宮城川二天女御下り子孫 繁栄其御子二のろ御神始ル姓分リ伊波子与申人......略 ・・・・・・ 嫡子謝名真徳与申人強力武勇なり諸人貴之テ被愛毎 年三月三日あたなき兼久にて馬遊有ル故ニ・・・・・」 与那覇宮城からきた伊波之子の子孫の謝名真徳という者がいて、人々より慕われ武勇にたけていた。彼は、馬遊びを好み特に、三月三日あたなき兼久での馬遊びの時は、御願坂で盛大な見送りを受けたと書かれている。伊波家は、 大山を代表する旧家で、18世紀中頃には宜野湾間切の中でも有力な一族だったと考えられ、 伊波の御願小 (大山御嶽) 以外にも、伊波の殿を管掌している。ここを訪問したブログがインターネットにあったので、拝借する。
上具志川之御嶽 (イーグシカーヌウタキ)
この御嶽も個人宅内にあった。金満 (カニマン) 御嶽とも呼ばれており、上具志川 (イーグシカー) 門中が管理している。 昔の御嶽は、中央部が高さ一尺ぐらいの石垣で区画され、その中はサンゴで敷つめられていて、中心部には香炉が一個置かれていたのだが、1960年代の採石工事のため崩され、写真に写っているのは新たに作られたもの。 御嶽の南横には六月綱引きの時に拝する綱の神 (チナヌカミ) もあり、さらに奥には岩陰洞を利用した神墓があったそうだ。上具志川家は、察度王の義弟の泰期の子である上具志川の比屋から始まっている。同家は小禄墓を管掌しており、ここに葬られている小禄大やくもいは上具志川の比屋四代の孫にあたり、小禄親方と称し、憑姓鉢嶺清順 (上具志川の子孫)、又吉清等の祖先になる。
前本部之殿 (メームトゥブヌトゥン、ヒヌカン)
この旧集落の中に、前本部門中 (メームトゥブ) の拝所の殿 (トゥン) が置かれている。火ヌ神 (ヒヌカン)、殿小 (トゥングヮー) とも呼ばれる。現在は大山自治会が管理しており、綱引きのときなどに御願が行われている。
旧宜野湾道 (ジノーンミチ)
(新)宜野湾道 (ジノーンミチ)
旧ジノーンミチは、その北側にある (新)ジノーンミチになる。この道は美底山 (ミスク山) に伸びている。道の向こう丘陵の上には、この後訪れる大山配水池の水タンクが見えている。
伊波の殿 (イファヌトゥン、東上之山)
大山御嶽を探している途中に、出会した拝所。資料にも載っていないので、詳細はわからないんだが、多分、上具志川之御嶽 (イーグシカーヌウタキ) の北側にあると書かれていた伊波の殿 (イファヌトゥン、東上之山) と思われる。この殿は伊波門中が管理している拝所で、綱引きのときなどに御願が行われている。
前門原遺跡
この辺りが集落発祥の地といわれており、拝所、御嶽、旧家などが集まっている。 この発掘している場所には大掟屋門中の屋敷があった。
安仁屋家敷跡
上具志川、前本部は見学したが、残りの二つの旧家の一つの安仁屋家は、廃藩置県まで代々続いた首里王府 のおもろ主取職であった。 王府の儀礼の場に出ておもろを歌う、あるいは踊ることを職能としていた特殊な家で、おもろ歌唱を保護管理するだけでなく、近世でも珍しく、百姓でありながら緑をたまわる世襲の職であったという。同家は、おもろ主取家元祖由来記の記載から、当初は真志喜石川第一遺跡の地所に屋敷地があったことが窺える。
この近くにも米軍兵士向け住宅が残っていた。
トリムミチ
もう一つの大掟屋家の元屋敷も同遺跡内にあったと言い伝えられており、この旧集落に移ってきた。トリムミチと呼ばれる通りにあると古い集落地図に載っていたので探す。
メーフヌトゥン跡、大掟屋之殿跡
この通りにはメーフヌトゥン跡と大掟屋之殿が記載されており、メーフヌトゥン跡には大掟屋の神屋があり、前に拝所らしきものがあった。大掟屋之殿跡の場所 (写真右下) には拝所らしきものは見当たらなかった。
カンザキ毛 (モー) 跡
トリムミチ沿いには、もう一つ、大山集落の重要な拝所がある。カンザキ毛 (モー)
大山貝塚
大山御嶽の北側の宜野湾道 (ジンーンミチ) を普天間飛行場へ登りつめた所が美底山 (ミスクヤマ) と呼ばれる丘陵地 (美森あるいは美底御と呼ぶ人もいる) で、1956年 (昭和31年) に貝塚が見つかり、1958年 (昭和33年) に発掘調査が行われた。土器、かんざし 、骨針などが発見され、中でも土器は 「大山式土器」 と呼ばれる様になり、沖縄の標準土器となっている。1972年 (昭和47年) に大山貝塚として国指定史跡に指定された。この大山貝塚はは琉球縄文時代のもので、山部民族と海部民族との中間にあたる祝部貝塚と考えられている。琉球縄文中期の終りごろから後期上半の初めごろにかけてここに貝塚人が住んでいたと思われる。大山貝塚は伊波荻堂貝塚からの流れで、そのころには伊佐浜に来た貝塚人と取引があったらしく、土器の口唇にはりつけのかざりをすることや石器にも共通したのがある。
美底御嶽 (ミスクウタキ)
美底御嶽の祠の下や崖面、その周囲には小洞穴が幾つもの残存する。 これらの洞穴や岩陰には、昔、多くの人骨があった所だといわれる。琉球八社が洞窟信仰であることから同系統の祭神がまつられていると考えられるが、祭神については不明。人骨を納めている拝所と考えられている。沖縄戦当時は住民の避難壕として使われていた。
帰りに普天間飛行場のフェンス沿いを歩いた。飛行場というのでもっと平坦な敷地と想像していたのだが、結構起伏があり、途中で引き返した。以前、自衛隊基地のフェンス沿いを歩いた時には、自衛官から、不審者と疑われるので、許可なしには歩かない様に言われた事を思い出した。
大山配水池
大山貝塚の西側の丘陵の上に大山配水池があった。二つの水タンクがあり、手前の第二配水池タンクには、宜野湾市のマスコットの天女が描かれている。ここまで登ると標高75mで大山、真志喜の街が一望できる。
海岸側
次は海岸沿いに向かう。集落からは畑が広がり、その向こうに住宅街となっているが、昔はこの畑の向こうは海だった。戦後、埋立られて住宅地となっている。
大山水田の水門
昭和戦前期に、西端の海岸線に沿って築かれた岸堤防に付随して設けられた水門がある。 現在、旧堤防の海側も埋め立てられ、 宜野湾バイバスさらにコンベンション施設や民間商業地域となっている。バイパスの畑に石積みの水路がありその先に水門がかろうじて見えた。
大山公民館
宜野湾バイバス沿いに大山公民館がある。かつての村屋はこの場所にはなく、旧集落内にあった。
タクグワークェー (兼久毛 カニクモー)
宜野湾漁港
ぎのわん海浜公園の東に宜野湾漁港がある。そでいか漁業、まぐろ漁業、一本釣り漁業、海ぶどう養殖漁業、活魚養殖漁業がおこなわれている。埠頭には魚の直売店のハッピーモア市場 トロピカル店やダイビング講習を行っているまりりんぎのわんも併設されている。
Jimmy’s 本店
店内には多くの輸入食料が置かれており、沖縄の中のアメリカという感じだ。この大山店がJimmy‘sの1号店で、本社も大山にある。ここがJimmy‘s の始まりの場所。アメリカ独特の甘いジャーマンケーキ、アップルパイ、チーズケーキが人気で、戦後のアメリカテイストが残っている。
ファニチャー通り
国道58号線沿いには何軒も家具屋が目についた。昔はもっと多かったそうで、米軍家具の払い下げを取り扱っていた。その後、ここに新たに家具店を開業している店もある。中国家具店もあった。ここは中国家具をお土産に買う米軍の人向けの店だったそうだ。
今日は集落までの行き帰りには、かつてはFourplayのピアニストだった Bob James の昨年リリースした最新アルバム ” Feel Like Making Live!” と2020年の "On Vacation" を聴いてみた。Fourplay での演奏よりも、随分と落ち着いた曲が多い印象だった。
参考文献
- 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
- ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
- 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
- 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
- 市内埋蔵文化財発掘調査報告書 4 (2019 沖縄県宜野湾市教育委員会)
- 宜野湾市文化財調査報告書 第49集 大山前門原第一遺跡 (2012 宜野湾市教育委員会)
- はくぶつかんネット第7号 (2002 宜野湾市立博物館)
- はくぶつかんネット第21号 (2005 宜野湾市立博物館)