西ヨーロッパ世界の形成、成立 第2弾
ここでは、フランク王国の発展についてまとめます。
まず、前提として、同一国家にも異なる王朝が存在ししますが、王朝とは日本でいうところの、天皇家です。
日本の伝統的な天皇家では、家が入れ替わったりはしませんが、他の国では頻繁に入れ替わります。
国を統治する人の家柄だと思ってください。
フランク王国は最初、メロヴィング家のクローヴィスによって統治されていました。しかし、行政と財政を取り仕切る役職である宮宰によって政治の実権が握られていきます。
西ゴート王国を滅ぼし、ピレネー山脈を越えて進行してきたウマイヤ朝を、732年、メロヴィング朝の宮宰カール=マルテルがトゥール・ポワティエ間の戦いで倒します。
そしてその子ピピンがメロヴィング朝を廃してカロリング朝を開きます。
※つまり、メロヴィング朝は、宮宰に王座を奪われてしまった訳です。
↑ちなみに、五本山の覚え方はアンティークなコロアイ(頃合い)というのを考えました(笑)。
この中で、ローマ教会はコンスタンティノープル教会から独立していきます。
(以後、ローマ教会はローマ=カトリック教会、コンスタンティノープル教会はギリシア正教会と呼ばれます。)
6C(6世紀の略)、グレゴリウス1世以来、ゲルマン人への布教を熱心に行います。(この時、キリスト教の聖像を使ったのがポイントです。)
726年、ビザンツ皇帝レオン3世が聖像禁止令を出し、ローマ教会が反発します。
しかし、ローマ教会には、後ろ楯が無いため、カール=マルテルによってイスラーム軍を破ったフランク王国と手を組みます。
カール=マルテルの息子ピピンが、ローマ教皇に王位継承を認められた見返りに、ラヴェンナ地方を寄進(ピピンの寄進)。
さらにその子、カール大帝は北東のザクセンを服従させ、アルタイ語系のアヴァール人等を撃退。